4話
天正十二年五月十日 備後国 鞆の浦。
その日は、彼にとって生涯忘れる事の無い傷を負わされた日である。
轟々と燃ゆる屋敷の寝室にて立ち尽くす一つの影。黒田官兵衛 謀反。最も信頼を寄せる腹心の裏切り。その一報を受けた秀吉は、逃げる事も無く、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
その肩を、三成が強く叩いて正気に戻す。
「殿! 殿っ! しっかりして下さいませっ!! この屋敷に居る兵士は三十。対して、黒田官兵衛率いる逆賊は千を優に超えております。現在、虎之助らが抗戦しておりますが……多勢に無勢。最早、一刻の猶予もございませぬ。どうか、早くお逃げ下さいませ!! 殿は、このような所で死んで良い御方ではございませぬ!! 」
「佐吉……」
己の死を受け入れ、主君の活路を開く為に命を燃やす決意を示す三成。その変わりない忠義のカタチに、秀吉は官兵衛の謀反を止める事が出来なかった己を恥じた。
その瞬間、襖を蹴破るような勢いで清正が寝室へと転がり込む。その身は、至る所が鮮血で濡れており、肩には一本の矢が深く刺さっていた。
清正は、秀吉の姿を視認すると、一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、直ぐに切り替えると傍へ駆け寄り深々と平伏する。
「御報告致します! 黒田官兵衛に続き、中川清秀・高山右近・筒井順慶が裏切り申した! 続々と屋敷を取り囲む敵兵は増えており、その数は凡そ千から千五百っ! 更には、兵士達が泊まっていた寺や宿舎のある方角から火の手が上がっており……っ、救援は絶望的かと。……これも、黒田官兵衛の策略で間違い無いでしょう」
「……そうか」
「…………っ、殿! 呆けている場合ではございませぬ! どうか、殿だけでもお逃げ下さい! 」
「そうでございます! どうか、殿だけでもっ」
一向に逃げようとしない秀吉に対し、三成と清正は早く逃げるように必死に懇願する。しかし、秀吉は小さく首を振ってそれを拒否した。
「いや、それは出来ん」
「な、何故ですか!? 今ならば未だ……」
「いや、官兵衛はそのような甘い男では無い。確実に、儂の息の根が止まるまで決して油断はせぬ男よ。儂だけは、絶対に逃走を許さぬ。……そうであろう、官兵衛! 」
『…………っ!? 』
秀吉が蹴破られた襖の向こうへ声をかけると、三成と清正はハッとしながら刀を構える。その刹那、ヌッと影が這いずるようにその男は現れた。
「黒田……官兵衛っ」
その赤き鎧は炎に照らされ赫く輝き、抜き身の太刀からは鮮血が滴り落ちる。黒田官兵衛。秀吉の腹心にして、此度の謀反を引き起こした張本人がそこに居た。
謀反人の登場に、清正の怒りが最高潮に達する。
「黒田ぁ…………貴様ぁぁあああっ!! どの面下げて我らの前に現れた!! 恥を知れ、この痴れ者がぁぁあああ!! 」
「…………ふっ」
激昂。怒りに染まる清正は、柄を握り潰さんとばかりに万力の力を込めて斬り掛かる。されど、そのような単調な動きで勝てる筈も無く、官兵衛に容易く弾かれ、流れるような返し刀が清正を襲う。
「まず……っ!? 」
己の悪手を悟り青ざめる清正。鎧を着けていない今、官兵衛の太刀を無防備に受ければ致命傷になる。しかし、刀を弾かれた衝撃で防御が間に合いそうに無い。万事休すか――と、思われたその瞬間、清正の襟を秀吉が引っ張り、紙一重で刀を躱す事に成功した。
「気を付けよ! 官兵衛を、ただの文官だと侮れば瞬く間に切り伏せられるぞ!! 奴は、幾十もの戦場を常勝で駆け抜けてきた正真正銘の武士ぞっ!! 」
「…………っ! ははっ、申し訳ございませぬ! 」
秀吉の叱責に、清正の瞳に理性が戻る。その隣りで隙を伺っていた三成の瞳に焔が灯る。
必ずや、我が主君を護る。そんな、不退転の覚悟を胸に官兵衛と対峙する二人。その二人の横顔を見た秀吉は、薄く微笑むと二人の前に出て刀を構えた。
「行け。官兵衛は、此処で儂が食い止める。佐吉、虎之助……そなた等は逃げよ」
『…………っ!? 』
秀吉の言葉に、二人は目を見開いて叫ぶ。
「主君を置いて逃げ出す事など出来ませぬっ! 」
「左様にございます! 殿ならば私共が! 」
「それは許さぬ。いいから早く逃げ――っ!? 「そのような隙は与えませぬよ? 」
秀吉の言葉を遮るように官兵衛が猛追。秀吉は、必死に刀で切り結ぶと、未だ呆けている二人を叱責する。
「愚か者!! 早く逃げよ!! 」
『し、しかしっ!! 』
「良いか! 今、織田家は最大の窮地を迎えておる! この官兵衛が動いたのならば、そこに勝機を見出したからに他ならぬ! この地に居る一万の軍勢全てを掌握出来た訳ではないのだろう。秘密裏に謀反を進め、確実に儂を殺せる必要最小限の兵数は……おそらく三千程度。それだけで安土城を落とせるなんて甘い考えをこの男が持っている筈が無い。……つまり、官兵衛には協力者がいる!! 謀反が起きているのは、此処だけでは無い!! 」
『…………っ!? 』
「……流石は、殿にございます。お見事」
衝撃の事実に三成は身体を震わし、清正は未だ見ぬ裏切り者に怒りを向ける。そして、見事に協力者の存在を見抜いた秀吉を、官兵衛は素直に賞賛した。
その様子に、毒気を抜かれる二人。
だが、次の瞬間、官兵衛の表情から一切の感情が消え失せた。
「では、死んでいただきますね? 」
「…………ぐぅっ!? 」
一合、二合と重ねる毎に熾烈さを増す剣戟。方や全身鎧、方や着流し。的確に急所を突く官兵衛に、秀吉は刻一刻と追い詰められていく。
『殿っ!! 』
血で染まっていく主君の姿に、二人は涙を流しながら叫ぶ。その瞬間、秀吉は一気に攻めに転ずると、官兵衛の刀を受け止めて鍔迫り合いとなる。
「……っ、行けぇ!! 官兵衛達の謀反を、三法師様に伝えるのじゃ!! この情報を持ち帰れるか否かが勝敗を分かつ。今、この瞬間に織田家の……天下の命運がかかっておるのだ!! 」
『…………っ! 』
「心苦しかろう。辛かろう。己が無力を憎かろう。……それでも、全てを飲み込んで走るのじゃ。安土へ、三法師様の元へ。織田家の命運をお主らに託す。…………許せ、佐吉、虎之助。これが、儂の最後の命じゃ」
『…………っ、御意っ!! 』
炎に照らされて映し出された秀吉の微笑み。それを見た三成と清正は、歯を食いしばりながらその願いを受け入れ、二人は海へと向けて走り出した。彼らが振り返る事は二度と無い。
「逃がす訳が無いでしょう? 」
「……っ、此処は決して通さぬ!! 」
当然、官兵衛はそれを許さない。三成達を逃がさぬと、一足飛びに秀吉へ斬り掛かる。秀吉は、何とかソレに食らいついていく。二人が屋敷を抜け出せる時間を稼ぐ為に。
「ゆくぞ、官兵衛ぇ!! 儂とて、時間稼ぎくらいは出来るぞ!! 」
「……チッ、面倒な……っ」
命を燃やす秀吉に、ソレを寒気がする程の無機質な瞳で見詰める官兵衛。二人が振るった刀が、空中で火花を散らした。
***
どれ程時が経っただろうか。
地に伏せる敗者と佇む勝者。
パチパチと、木材の焼ける音が鳴る。
秀吉は負けた。折れた刀を握り締め、地に伏せながら荒い呼吸を繰り返す。床を見れば、じわりと傷口から血が広がっていく様子が分かる。最早、立ち上がる気力すら残っていない。
この結果は必然であった。
方や着流し、方や鎧武者。方や武芸など縁もゆかりも無い農民の出、方や乱世の荒波を切り伏せてきた武家の出。そんな両者が相対すればこうなる事は赤子でも悟れる。
官兵衛は、眉を細めながら秀吉を見る。
(浅い……やはり、未だ息があるのか)
官兵衛は、自身の刀を確かめると、僅かに刃こぼれしているのが分かる。鎖帷子。秀吉は、胴にだけ着込んでいたソレのお陰で、九死に一生を得ていた。
「やれやれ、一体いつの間にそんなものを仕込んでいたのやら。つくづく、その反則じみた勘とやらには脱帽致しますよ」
官兵衛は、くつくつと笑うと太刀を上段に構えて秀吉の首筋へ狙いを定めた。
「されど、こうして首を斬り落としてしまえば鎖帷子など何の役にも立ちませぬよ? さぁ、早く立って下さい。その天に愛された輝きを、今一度私に見せて下さいませ! 」
「………………」
恍惚の表情を浮かべながら懇願する官兵衛。されど、地に伏せる秀吉から反応がある筈も無く、その笑みは次第に色褪せていった。
「……あぁ、そうですか。もう、貴方様は輝けぬのですか。このまま、無様にも腹心に裏切られて死んでいくのですか……っ。あぁ、どうか立って下さい! この程度で終わってしまうのですか? 我が英雄よっ!? 」
「………………っ」
支離滅裂。
狂気に満ちたその瞳には何が映っているのか。
狂ったような笑い声と溢れる涙もそのままに、遂にその刃が振り落とされた――刹那、天井の一部が焼け落ちた。
――ドォンッ!!! ガラガラガラ…………
「殿っ! ご無事ですかっ!? 殿っ!! 」
その凄まじい音に、太刀が首の皮一枚斬った所でピタリと止まる。物音に反応するように、官兵衛の家臣と思わしき男の声が聞こえてくる。
(これ以上は、こちらの身が危ない……か)
そう判断した官兵衛は、静かに太刀を鞘に収めた。ゆっくりと後退し、背を向けて部屋を出る官兵衛。最後に今一度秀吉の姿を視界に収めるも、その姿は先程同様に地に伏せたままであった。
「最早、この状況から貴方様が助かる道は無い。さらば、我が英雄よ。貴方様と歩んだ日々は、そこまで悪くはありませんでしたよ。……ですが、私の星は貴方様では無かった。それだけです」
その言葉は、誰に聞かれることも無く宙へ溶けていった。
外に出た官兵衛の傍に、一人の家臣が歩み寄る。
「どうやら、津田信澄が家臣に連れられて自領へ逃げ帰ったようにございます。どうなされますか? 追うのであれば、速やかに兵を編制致しますが……」
「良い、捨て置け。直、吉川の軍勢が合流するだろう。そうなれば、我が軍は五千を優に超える。津田如き相手にならぬわ。であれば、朝まで此処で待機しておくのが上策。下手な深追いは、痛いしっぺ返しを貰いかねんからな」
「ははっ! 承知致しました」
深く頭を下げて離れる家臣。それを一瞥する事も無く、官兵衛は燃え盛る屋敷を見詰め続けていた。
官兵衛は知らない。
既に、吉川元春がこの世にいないことを。
官兵衛の策略の手は、毛利家にまで伸びていた。吉川元春の元に集った織田家に不満を抱く武士。それらは、秘密裏に二千近くの勢力に膨れ上がり、官兵衛の謀反に応じて立ち上がる予定だった。
しかし、その軍勢が官兵衛と合流する事は無い。官兵衛が秀吉の屋敷を襲った同時刻、元春が所有する屋敷が凄まじい爆発音を轟かせながら炎上した。幸い、小早川隆景によって軟禁状態だった元春の屋敷は山奥にあり、近隣住民には一切の被害は無かった。
では、何故元春の屋敷が爆発したのか。
それは、元春が官兵衛の策略に乗らず、己諸共此度の企みに乗った武将達を屋敷ごと焼き払ったから。まさか殺されると思っていなかった武将達は、為す術も無く殺された。当然、率いる武将が一人もいなくなった軍は瓦解した。
元春は、織田家が嫌いだ。我が物顔で父 毛利元就が築いた栄光を踏み散らかした織田家が嫌いだ。
だが、それ以上に毛利家を害する者は大嫌いだった。元春は分かっていた。己は、安土の幼き王に忠誠は誓えない。己の存在が毛利家の足を引っ張る……と。それ故に、隆景の申し出を受けて隠居したのだ。
元春は分かっていた。官兵衛の口車に乗せられたら、そこには毛利家の衰退しかないと。こんな明け透けた罠にかかるマヌケはいらない。残り少ないこの命、最後まで毛利家の為に使おう……と。
「又四郎、毛利家を頼むぞ」
そんな言葉と共に、元春は火薬に火種を落として腹を切った。泥酔し、深く眠る愚かな武将達の隣りの部屋で。
官兵衛が、事の顛末を知るのは翌朝のこと。官兵衛が日ノ本中に張り巡らせた策謀に、たった一つの綻びが生まれた。
それは、ある男の最後の意地。
運命が回り始める。
***
秀吉の指先が僅かに動く。
「……ぅう……ぁあ……っ」
その視界には誰も映らない。
「あぁ、思い……出した」
脳裏に浮かぶのは、在りし日の桔梗との会話。
【あの日……明智光秀が謀反を起こした日。私達、白百合隊にも多くの犠牲者が出たのです。これが、その墓にございます。……月夜に照らされたあの子達の亡骸を、私は生涯忘れる事は無いでしょう】
「あぁ、そうだ。間違い無い」
あの日、ふと思った疑問。
されど、このような場所で無粋であろうと胸の奥に仕舞い、そのまま忘れていた些細な記憶。
だが、それが真実へ繋がる最後の一欠片だった。
「白百合隊には……裏切り者が…………いる」
だが、それを伝える術が無い。
ゆっくりと瞼を閉ざす秀吉。
最後に残った記憶は、自身の身体を何かが引っ張るような奇妙な感覚だった。