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3話

 

 時は、少しばかり遡る。


 天正十二年五月九日 備後国 鞆の浦。

 かつて、京を追われた足利義昭が身を寄せたこの地に、秀吉は兵を休める為に滞在していた。

 領主の歓待を受けた後に、屋敷に秀吉と重臣に傍付きを残して一般兵達は寺や宿舎へ向かう。流石に、一万の兵士達を一つの場所にまとめられる程広くなかった故だ。

 そんな兵士達だが、寝床へ向かう足取りは非常に重い。彼等の顔には、ようやく休める……といった安堵の色に満ちており、一度寝つけば翌日の昼過ぎまで起きる事は無いだろう。

 それもこれも、負傷兵は立花山城に置いてきたとはいえ、龍造寺隆信との激しい戦の爪痕は非常に深く、更には筑前国からの長距離の移動で疲労が溜まりに溜まっていた為であった。

 四月十八日に遠賀川の戦いがあり、二十四日に龍造寺隆信の嫡男 政家が織田家に降伏。翌日、有馬家が織田家に降伏。二十七日に立花山城を出発し、五月一日に長門国に到着。そして、九日に備後国 鞆の浦に辿り着いた。

 ……確かに、こうして並べると身体を休める事が出来たのは、遠賀川の戦いが終わってからの一週間くらいで、後は殆ど移動に費やしている。これでは、兵士達が疲労で倒れるのも無理は無い。

 その日は、一万人の軍勢が滞在しているとは思えない程に、静かな夜だった事は言うまでもないだろう。



 翌日、五月十日の黄昏時。

 案の定、昼過ぎに起きた兵士達がわらわらと夕餉の支度を整える中、屋敷にて地図を広げる秀吉の元へ急使が訪れた。

 急使が秀吉に手渡した二通の文。それを見た秀吉は、直ちに佐吉を呼び出す。

「明日、安土へ向けて出立する。佐吉、皆に支度を整えるように伝えるのだ」

「ははっ」

 この瞬間、兵士達のささやかな休息が終わりを告げた。

 そそくさと退室する三成を尻目に、秀吉は胸元から二通の文を取り出す。それは、先日届いた三法師からの文と、それを追うように届いた三河国に潜伏している密偵からの文。それを畳に並べる秀吉の眉間には、深い皺が刻まれていた。

「偶然……にしては、出来過ぎておるな」

 二人の文。そこに記されていたのは、北条幻庵が解き明かした白百合隊の故郷を襲った黒幕の正体が徳川家だったこと。その幻庵の元に刺客が襲来したこと。その刺客が使用した暗器から、おそらく徳川家の者だということ。そして、密偵が耳にした噂話。それの出処が徳川家だったこと。

 秀吉は、先ず三法師からの文へ視線を向ける。

「白百合……確か、三法師様が彼女達を拾ったのは三年程前だったか。桔梗にも聞いた事がある。武田家の武士が突然里を襲った……と。当時、織田家と徳川家は共同して武田家を攻めておった。徳川家が、武田家の情報収集源足る忍びの里を襲っても何一つ不思議では無い。……儂とて情はあるが、これでは徳川家を断罪する理由にはならぬな。この乱世では、腐る程に見てきたありふれた悲劇だ」

 そこで一旦話を区切ると、秀吉は何かを思い出そうとするように額を指先で叩く。

「……だが、三法師様とてそれは分かっておる筈。何か引っかかるモノを感じ取ったのだろう。儂も、三法師様と同じく何か忘れておる気がする。胸騒ぎがするのだ。この事実を無視してはならぬと。それに、真相を知った北条幻庵の元に刺客を向かわせたということは、コレは徳川家にとって知られてはならぬ情報だったのだろうな。……強いて言えば、何故徳川家の兵士がわざわざ武田家の兵士のふりをしたのか……だが。…………ぅむ」

 首を捻るも中々思い浮かばない。喉元まで答えが出ているのに思い出せない。それならいっそ忘れてしまえばいいものの、長年の勘が警報を鳴らしている為に無視出来ない。

「………………はぁ。致し方ない……か」

 思い出せないモノは仕方ない。そう開き直った秀吉は、とりあえず胸の奥にこの事実を仕舞いながら二枚目の文へ視線を向けた。

「寧ろ、こちらの方が分かりやすく織田家の危機を知らせておるな。……あの狸親父、やはりただでは終わらぬ気か」

 悪態混じりに文を広げる。そこには、去年より三河国でまことしやかに囁かれていたとある噂話の詳細が書かれていた。


 ・織田家が、蝦夷地開拓へ蠣崎氏と繋がった。


 ・織田家が、蝦夷地へ送る開拓民を募っている。


 ・蝦夷地は、千里を駆けても端へ辿り着けぬ広大な土地である。


 ・蝦夷地にて開拓した土地は、織田家によって保証され、子々孫々へ引き継ぐ事が出来る。


 ・蝦夷地は、常に雪と氷に閉ざされており、とても人が住むことは出来ぬ環境である。


 ・蝦夷地は、神に見放された忌み地である。


 ・蝦夷地には、織田家に刃向かった敗戦国の民や罪人が送られる。


 ・蝦夷地に送られれば一年も経たずに息絶える。


 ・織田家は、徳川家の軍事力を危険視している。


 ・織田家は、同盟国という立場を保ち、一向に臣従しようとしない徳川家を警戒している。


 ・織田家は、天下一統に向けて全ての同盟関係を破棄し、全ての大名家へ臣従を迫っている。


 ・織田家の意向に従わない大名家は取り潰され、その地に生きる民は蝦夷地へ送られる。


 ・織田家は、見せしめとして三河の民を蝦夷地へ送る事を決定した。


「あんのクソ狸、真実と嘘を絶妙に合わせよったなっ! これでは、三河の民が織田家に対して反感を抱いて当然では無いか!! 」

 ダンッと、苛立ちを隠そうともせず畳へ握り拳を叩きつける秀吉。彼の顔は怒りで赤く染まり、今にも文を破り捨てかねない危険なモノであった。

 秀吉が、これ程までに怒りを顕にするのも無理は無い。家康は、人の心を弄ぶような策謀を平然と行ったのだ。

 家康は、自らの領地に住む民を標的にした。

 先ず初めに蝦夷地という未知への関心を高め、その大地の可能性を示し、農家の三男や四男といった立身出世でしか未来の無い人達に希望を見せる。

 そこまでは良い。だが、ここからが酷かった。

 その土地の過酷さ、生きて帰れぬ忌み地、奴隷や罪人が開拓民として送られる等々。これは、織田家による開拓とは名ばかりの島流しだと匂わせて不安を煽った。そして、追い討ちとばかりに織田家と徳川家のすれ違いを段階的に広めていき、恐怖心と不安でいっぱいいっぱいになった所で、自分達は罪人や奴隷として蝦夷地に送られるという噂話を流したのだ。

 当然、これを聞いた三河の民は反発する。家族や自分、大切な人を守る為に武器を取るだろう。戦が起これば、我先に徳川軍へ志願するだろう。それこそが、家康の狙いだと知らずに……。

 織田家とて間者を入れて監視はしていた。

 されど、ゆっくりとゆっくりと毒が染み渡るように噂話として流した為、間者達も確証を得る事が難しかった。そして、気付いた時には既に遅く、三河の民は無自覚に心を蝕まれていた。死の恐怖に囚われてしまったのだ。

 もう、引き返す事は出来ない。



 そのあまりの非道さに、秀吉は嫌悪感を剥き出しにした。同族嫌悪かもしれない。

 そして、おもむろに文を手に取ったところで、ふと我に返る。これは、この先必ず必要になるモノ。それを本能的に分かっているが故に、秀吉は何度も深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻した。

「ふぅー、ふぅー、ふぅー、ふぅ…………ょし、この怒りは戦場で晴らすとしよう。……だが、これでより一層急がねばならなくなったな。三介様も危うい。もし、儂が狸の立場なら……動くならば主力のいない今。天下一統の悲願を叶え、気が緩むその瞬間こそが最大の勝機だ」

 そう呟く秀吉の瞳に焦りはあれど不安は無い。信雄・家康の連合軍相手であれば、間違いなく織田家が勝つと確信していた。三法師が仕掛けた策を知っていたが為に。



 されど、彼にも気付けなかった事がある。

 そう、最も信頼を寄せる腹心の裏切りだった。



 その日の夜、屋敷にて身体を休めていた秀吉は、騒がしい物音に身体を起こした。

「……何だ、何が起こっておる? ……おい! 誰かおらぬか! 」

 襖の先に居るであろう小姓へ声をかける。返事は無い。ただ、何か焼けるような臭いと熱を感じ取り、これは火事だと気付いた。

 その瞬間、勢い良く襖が開かれ三成が部屋に入る。そう表情は焦りと怒りが入り交じっており、着流しは所々煤で汚れていた。

「敵襲にございます!! 現在、この屋敷一帯を軍勢が取り囲んでおり、火矢が次々と打ち込まれ炎上しております。敵軍の掲げる旗印は、藤巴の紋……黒田官兵衛、謀反にございますっ!! 殿、お逃げ下さいませ!! 」

「…………な、なんだとっ!? 」

 腹心の裏切りに目を見開く秀吉。

【織田封じ】

 後世において、そう語られる事になる官兵衛の仕掛けた大規模な策略は、この備後国 鞆の浦から始まった。



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― 新着の感想 ―
[一言] どちらかというと南蛮方面に注力している所だから北海道より台湾のほうが派遣さるる確率は高かったのになぁ、主人公は広報戦略で負けるとは現代人の名折れですね。
[一言] 基本的に軍師で領地の関係もあって軍と呼べる規模の部隊はもっていない官兵衛。まして羽柴軍の一部での移動だけに秀吉の旗本がかなりの割合を占める。(本能寺の変と信長の手勢と規模も質も違うと言える。…
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