24話
天正九年 六月 徳川家康
「行ってしまわれたか……」
平八郎を連れて、遠ざかっていく三法師様のお姿を見て、ワシは思わず呟いてしまった。
三法師様が、突如北条家に勉学の為に訪問する事が決まり、この浜松の地を訪れると聞いた時は間者の妄言かと思うたが、まさか事実だったとはな。
三法師様は、織田家当主の嫡男。半端な接待では徳川の誇りに泥を塗る事になりかねん。食事に出し物、趣向を凝らした甲斐あって三法師様御一行は満足なされていた。此度の宴を任せていた小平太も、期待に応えよくやってくれた。
そろそろ、城に戻り政務を片付けるかと思っていると、小五郎達の会話がスっと耳に入ってきた。
「しかし、あの噂はまことでござったなっ! 」
「これは酒井様、お噂とはどのような? 」
「なんじゃ知らんのか? 岐阜の神童の話しよ! 計り知れぬ叡智は天からの賜り物、その慧眼未来を見通し、衣を纏えば天女の如し。京でのお披露目以降、その名は全国に轟いておるそうだ」
「なんとっ! それは素晴らしいことで」
「うむ、まさに織田家は磐石と言えよう。まことに羨ましい限りじゃ。はははっ! 」
小五郎の笑い声に呼応し、見送りに出ていた者達の間にも笑い声が響き渡る。
ワシもそれにつられたように笑い声をあげていたが、内心笑ってなどいられない事態に、思わず冷や汗が流れた。
小五郎までもが、三法師様にほだされてしまった。何故、誰もあの異常性に気付かぬ! 否、あれは異常性に気付いた者さえも、魅了してしまうのか。
あぁ嘆かわしい、アレは放置してはならぬものだ。若かりし頃の信長と瓜二つでは無いか。
信長も、暴力的な魅力と恐るべき智謀を兼ね備えていた。相手に合わせて変幻自在に対応する事で、奴に惹かれた者達が大量に生まれたのだ。
だが、放置してはならぬのならどうする? 排除は出来ない、未だに信長は健全だ。跡目の信忠も愚かでは無い……どうにかせねばならぬな。
ワシが考えにふけておると、そんなワシを心配したのか小姓が声をかけてきた。
「殿? どうなされました? 」
「……いや、なんでもない」
「今朝は少し肌寒く、これ以上はお身体にさわりまする。そろそろ、城に戻られますか? 」
「そうじゃな。お主らもそろそろ戻るのだぞ」
『ははっ』
城に戻り、人払いを済ませると緊張が途切れたのか、重い溜息がもれた。
あぁ、いかんなぁ。どうもワシは深く考えていると、無表情になる癖があるのだ。直そうとは思っておるのだが、いかんせん長年の癖だからのぅ。
この癖が付いたのは、幼少期からだったか……ワシは臆病者の凡人じゃ、周りの者達でさえ信用出来ぬ故に、一人で考え込むようになったのだ。
それもこれも、あの辛く惨めな人質生活がワシを形成したのだ。誰も彼も敵だらけ、心休まる時などひと時もあらず、いつ殺されるか分からぬ毎日に、いつもいつも恐怖しておった。
ワシは力を付けるしか道は無かった。この心に巣食った『恐れ』に打ち勝つ為に、武術に人一倍打ち込み、誰にも騙されたく無かった故に、兵法を学び知恵をつけてきた。
生き残る為に、常に頭の中で策謀を張り巡らせ、言質を取られぬ様にしていたら、自然と無口になり。家臣達に、ワシのこんな弱いところを悟らせぬようにしていたら、無表情になっていたのだ。
いつしか、周りからは何を考えているか分からぬ『狸』と言われるようになったのだ。
此度の歓待、三法師様を見極める良い機会だと思うておった。故に策を講じたのだ、噂通りの神童なら人の気配に過敏に反応するだろう……と。
結果は予想通りであった。ワシを見て、そこまで大した人物では無いと隙を見せた。少しそれを咎めれば、目に見えて狼狽えておったわ。
いやはや、やはりまだまだ未熟者、徳川の敵では無いと安心しておったのだが、未熟者はワシの方じゃった。
予定では、あそこまで掘り下げて話すつもりでは無かった。気付いたら、ワシは三法師様の意見を伺うように話していたのだ。
アレはたんに聞き上手なのでは無い、三法師様の眼を見ると自然に敬い、御意見を賜りたくなるのだ。
末恐ろしき才能よ……ワシはそれを自覚し、思わず震えてしまいそうになった。
信長と同じ眼じゃ……まさに日ノ本の王たらん器、臆病なワシは三法師様の背後に信長の影を見た気がして、怖くて怖くて身体の震えが止まらなかった。あのこちらを見透かすような眼が怖い、目が合うだけで腹の奥底が震え、冷や汗がとまらんのだ。間違いない、三法師様こそ信長の意思を継ぐお方じゃ!
何故、わざわざ浜松城まで来たのじゃ、何故危険を承知で北条家まで行くのじゃ。何かある筈じゃ……三法師様の、信長の狙いが……先手を打たねばならぬ!
「半蔵っ! 半蔵はどこじゃ! 」
「ははっ」
ワシの呼びかけに、音も無く現れたのはワシに古くから使える伊賀者、服部半蔵だ。
「三法師様一行を追え、意図を探るのだ! 」
「……消しまするか」
「危害は加えるな! あくまで、監視にとどめるのだ! 」
「御意」
半蔵は短く返事をすると、瞬く間に消えていった。ふぅ……何とか、徳川家の生き残る道を探らねばならぬ。
どうにか、取り込めぬものか……ワシは今日も策謀を張り巡らせる、未だ安眠出来る日は遠い。




