29話
天正十二年五月九日 府内 立花道雪
府内の外れに位置する庵にて二つの影が向かい合う。殿や他の重臣達にも言わずに、儂の独断で決行した織田殿との密会。目的は、儂の愛刀と首を引き換えにした無血開城。殿と若様、そして未来ある若者達と何の罪も無い領民達を護る為の決断。この老い先短い老体一つで丸く収まるのであれば本望じゃと思っておった。
しかし、その決意が織田殿の一言で僅かに揺らぐ。
「……貴殿は、本当にそれで良いと思っておるのか? 自らの命を犠牲に、大友宗麟と大友義統の助命を乞う事が本当に正しいと思っておるのか? 」
「……っ!? な、何を言っ……て……っ」
唇が震える。
「貴殿の主君や同僚、そして民を憂う想いは誠であろう。自らの命一つで大戦を回避出来るのであれば安いものだと考えておられる。こちらも、先の事を見据えれば無用な犠牲は避けたい。乱取りも絶対に行わないよう厳命しておるしな。……だが、それだけでは真の平和が訪れる事は無いと本当は分かっておるのだろう? 」
「わ、儂……は……っ」
胸の奥底に封じられたモノが引き摺り出される。
「国は民無くして成り立たぬが、ソレを導く者の存在が何よりも大事だ。そして、王の政を支える家老達次第で国は如何様にも変わる。それこそ、貴殿が願う民が平穏な日々を過ごせる国にも、貴殿が憂う争いと憎しみの絶えぬ殺伐とした国にも……な」
そこで一旦話を区切ると、織田殿はズイっとこちらへ身を乗り出す。
「……貴殿の申し出通り大友宗麟と大友義統を国守の座から追い出したとして、残された家老達はどうなる? そのまま国政に関わらせるか? ここまで国を腐らせ民を虐げた者達は、このままお咎めなしで据え置くのか? その者達の中に、此度の騒動の元凶足る切支丹は一人もおらぬのか? 」
「それは……っ」
「無論、織田家から国を治めるに値する人材が派遣されるだろう。当然、その者は国を豊かにせんと励むだろう。……だが、だかな――」
織田殿の力強い両手が儂の肩を掴む。
「結局、国を動かすのは残された家老達なんだよ!! そいつらを一掃しない限り民に安寧の日々は訪れん! 一度でも甘い蜜を吸い、他者を陥れる快感を覚えた者は、二度と正道へは戻れん! 如何に優秀な者が国を立ち直らせようと努力しても、そやつらは確実に足を引っ張ってくる。従来のやり方に戻そうと結束してくる。その果てにあるのは戦だ! 何年も、何十年も続く事になる地獄の始まり。……これを機に膿を取り除かねば、いつまで経っても国は荒れたままだぞ!! 」
「……ぁ、……あぁ……っ」
織田殿が放つ強い光に、目を背けていた現実が照らされる。
「はっきり言わせて貰う。血を流さずに此度の戦を終わらせる事は出来ん!! 朝敵 大友宗麟と嫡男 大友義統を筆頭に、宣教師の謀略に惑わされた家老達は全員処刑する! 文官や下級武士とて例外では無い。国に仇なす害悪共は断じて許さぬ! これが、織田家当主近江守様より、大友征伐における全権を委任された織田大和守信孝の決定であるっ!! 」
「…………っ」
唇を噛み締めて俯く。織田殿の真っ直ぐな瞳を直視出来なかった。織田殿の言い分は尤もであると認めてしまった。
ぽつりぽつりと、畳に染みが作られる。
儂は、間違えておった。主君への忠義を免罪符に、卑劣にもこれからを生きる者達を見捨てた。本当は、血を流さずに国を立ち直らせる事は出来ぬと分かっておった。誠に国を想うならば、切支丹となった家老達は粛清せねばならぬ……と。
じゃが、儂は狂う前の彼らを知っておる。同じ志を胸に戦場を駆けた彼らを、より良い国を作ろうと知恵を振り絞っていた彼らを誰よりも知っておる。
……故に、儂は無意識に彼ら粛清せねばならぬ可能性から目を背けていたのやもしれぬな。
何も言えなくなった儂へ織田殿の優しげな声音が降りかかる。
「織田家に付かぬか、立花殿? 」
「…………っ! 」
震えが止まる。
「これからこの国を立て直すには、民を憂い国を想える優秀な人材が必要だ。貴殿ならば、その資格がある。そして、臼杵城に籠る兵士達の中にも資格がある者がいる筈だ。……即日、大友家を見限り貴殿が彼らを連れて臼杵城から脱出するのであれば、この織田大和守が責任を持って保護しよう。決着が着くまで捕虜という形にはなるが、決して劣悪な環境には置かぬと約束する」
「…………」
織田殿の提案は、凡そ考えられぬ程こちらに譲歩したモノじゃ。破格とも言える。このまま滅ぼされる家の重臣を、家臣や家族も纏めて高待遇で受け入れようと言うのだから。
確かに、これならば儂は家臣や家族を護る事が出来る。更には、臼杵城に残る者は皆狂ってしまった者だけになり、大友家を滅ぼすと同時に粛清を行う事が出来る。織田家にとっても、臼杵城の兵力を低下させ、今後の統治がやりやすくなるなど双方に利がある。
……信じても良いのかもしれん。
「もう……良いのでは無いか? 貴殿は、充分に大友家へ忠義を尽くしたと思うぞ? こうして、我が身を省みず敵陣へ乗り込んだ。それも、主君と家臣達の命を守る為に。敵ながら天晴れな忠誠心。誰も、貴殿を責めたりはせぬ」
儂の前に右手が差し伸べられる。この手を取れば、きっと儂も家臣も家族も幸せに暮らせる未来へ行けるのじゃろう。
……じゃが――
涙を拭い、織田殿と視線を合わせる。
「織田殿のご好意痛み入りまする。これからの世を考えれば、必要最低限の犠牲で終わらせたいとする織田殿のご意見は最もなこと。……お言葉に甘えまして、直ぐにでも城を出る準備をするように家臣達に言い聞かせましょう」
「おぉっ! では――「されど、儂は臼杵城に残り、主君と最期を共に致す所存。……儂には、これからの世を生きる資格など有りはしないのですから」――な、なんだとっ!? 正気か、立花殿っ!? 」
目を見開く織田殿を後目に、儂はゆっくりと首を横に振り、冗談では無いと告げる。
「宣教師の戯言に惑わされ、民を虐げ国を荒らした殿と家老達が罪人ならば、本来命を賭して護らねばならぬ民を異国に売り払うなどの愚行を止められなかった儂もまた咎人。だと言うのにも関わらず、殿や家老達を見捨ててのうのうと生き長らえるなど儂自身が許せませぬ」
「だが、貴殿は主家を守る為に、龍造寺家や秋月家との戦いに明け暮れていたのでは無いか。であれば、止める事が出来なかったのも致し方ないと思うぞ? 」
……少し言葉に詰まる。確かに、殿とは何年も拝謁が叶わぬ状況ではあった。じゃが、理不尽な仕打ちを受けた者達にすれば、そのような言い訳など通用せんじゃろう。
「宿老として、知らなかったでは済まされぬモノにございます。あまりにも情けない。自領で、そのような奴隷狩りが行われていなかった事がせめてもの救いにございますが、遺族からすればそのようなこと関係ありませぬ。……大切な人を理不尽に奪われた者達の怒りと嘆きは未来永劫消えませぬ。儂が生きていれば、織田家の統治にも影響が出ましょう。やはり、儂は臼杵城にて自害するのが最善でございましょう」
ですので、家臣と家族の事をどうか宜しくお願い致します――。儂は、そう言って深々頭を下げた。織田殿の悲しげな眼差しを脳裏に刻みながら。
……儂には、その手を取ることは出来ん。儂は、救われて良い存在では無いのだから。
多くの民が異国へ売り払われた。多くの民が理不尽に虐げられた。事態に気付いた時には最早手遅れ。一つや二つの村は救えたが、儂の行動はあまりにも遅過ぎたのじゃ。
今でも鮮明に覚えている。物言わぬ骸と成り果てた母を泣き叫びながら抱く童の姿を。廃墟の中からこちらを見詰める無機質な瞳を。我が物顔で道を闊歩する生者に向けられた呪詛の数々を。
……儂は、彼らの嘆きを受け止めねばならぬ。もう、見て見ぬふりは出来んのじゃ。それに、ここで殿を裏切っては、戦場で死んでいった者達へ申し訳が立たぬじゃろうて。
(特に、僅か百五十の手勢のみ残され、半ば見捨てられるように死んでいった孫七郎を思えば、当然の報いじゃろうな……)
俯きながら自嘲気味に呟いた。
すると、織田殿は無言で立ち上がり襖を開ける。その後ろ姿に、怒らせてしまったかと思っていると、織田殿は小姓から一つの木箱を受け取り襖を閉めて戻って来た。
そして、木箱を儂の前に出すとゆっくりと開く。
そこに入っていたのは一つの兜。その正体を悟った儂は、思わず目を見開いて両手を伸ばした。
「こ、これは……孫七郎の……っ」
「……立花山城を落とした際に発見した物だ。高橋紹運殿の墓もそこにある。龍造寺隆信が、立花山城攻略の際に立ち塞がった高橋紹運殿の武勇に感服し、自らの手で丁重に弔ったそうだ。……貴殿に会うと決まった際に、これは貴殿に渡さねばならぬと持って来ていたのだ。さぁ、その手で確かめられよ」
「……では」
震える手で兜を持ち上げる。その瞬間、ピシリッと鋭い痛みが走ったかと思うと、この兜に込められた強い念が伝わってきた。
慌てて織田殿の方へ視線を向けると、そこには立花山城で散った筈の孫七郎の姿があった。
――どうか、道雪様は生きてその誇りを次代へ繋いで下さい。これは、道雪様にしか出来ない事なのです。民を、家臣を、我が子を……どうかお助け下さい。
私は、この命を懸けて主君の敵の前に立ち塞がる事しか出来ませんでした。しかし、道雪様は違う。道雪様にしか出来ない忠義のカタチがありましょう。
だから、どうかその心のままに進んで下さいませ。私達は、誰一人として道雪様を恨んでおりませぬ。最初から、許しを乞う必要など無かったのですよ。
道雪様は、胸を張って生きて良いのです。
孫七郎は、そう言って柔らかく微笑むと、段々と姿が薄くなり消えていった。その言葉に、儂は兜を抱き締めながら涙を零す。
「ぁあ……ぅあ……ぅう…………孫……七郎っ」
止めどなく溢れる涙。孫七郎の真摯な言葉が胸を貫いた。そんな儂の肩を、織田殿の両手が優しく掴んだ。
「貴殿の覚悟は分かった。主君への忠義を貫き殉ずる気持ちも分かる。だがな、忠義とはそれだけが形では無かろう。例え裏切る事になろうとも、主君を止める為に立ち上がるのもまた忠義。……織田家にも、そんな不器用な男がいた」
どこか悔やむようなその声音に顔を上げる。
「織田殿……」
「過去の過ちを悔やむより、例え罵声を浴びようとも今を生きる民を護る。……そんな生き方もあるのだ。死だけが償いでは無い」
「…………っ! 」
「待っているぞ。……立花殿」
織田殿は、そう言って席を立った。儂は、その背を見ながら、今一度兜を強く握り締めた。
***
天正十二年五月十一日。
遂に、織田軍が府内を出発し臼杵城へ向けて進軍を開始。それを受け、臼杵城では迫り来る恐怖に負けて脱走者が続出。大友宗麟が掻き集めていた三万の兵士達は、三日後には僅か五千にまで激減していた。
脱走者の中には、名のある家臣やその家族の姿も多くいた。それこそ、古くから大友家に仕える忠臣の家系も。
しかし、その中に立花道雪の姿は見当たらなかった。
そして、夜が明けた天正十二年五月十五日早朝。織田軍が、臼杵城へ総攻撃を仕掛ける。