26話
天正十二年四月二十九日 豊後国 府内。
九州の雄 大友家の本拠地として栄華を極めたこの地は、大友宗麟が居住地を臼杵城に移した後もその重要度は変わらず、日ノ本有数の湊としてその名を轟かせていた。
おそらく、ここまで南蛮文化が花開いた湊は歴史的にも珍しいだろう。孤児院を始め、日本史上初となる西洋式の病院が開設され、神学院や教会までもが設置された。更には、府内には約五千もの家屋が連なっており、その総人口は数万を超えていた。
これは、当時の状況を考えれば実に驚異的な数字である。その規模は、まさに日ノ本有数の一大都市と言えよう。府内は、大友宗麟にとって非常に重要な拠点なのだ。
***
さて、そんな府内に建てられたとある屋敷にて、日本人も外国人も入り乱れる宴会が開かれていた。
「今宵は宴じゃ〜。もっと酒持ってこ〜い」
『宴じゃ、宴じゃ〜』
『ギャッハッハッ!! 』
音頭を取るのは鈴木マルコ。
歳は二十半ばの若輩者。斜め後ろには表情を失った女奴隷を侍らせており、足元には数えきれない程の徳利が転がっている。昨日の晩から飲み続けているだけに尋常じゃない臭気を放っており、虚ろな瞳で気の赴くままに騒ぎ立てる。
一言で言えばクソ野郎であった。
彼は、元々は大友家に仕えていた一介の武士だった。しかし、ある時キリスト教に魅入られてしまい、今では大友家では無く神に仕える教会の騎士になっていた。
特にこれといった特技は無く、武力にも学力にも秀でていない平凡な青年。しかし、そんな彼こそが府内防衛軍総指揮官の地位に着いていた。
それは何故か。
答えは、隣り座る男が知っている。
「ささ、コエリョ様も一献」
「…………デハ」
にこやかな表情で酒を呷る異国の男。名は、ガスパール・コエリョ。イエズス会司祭・宣教師であり、イエズス会日本支部の代表。キリシタン大名を支援する為に遣わされた教会の尖兵である。
コエリョは、飲み干した盃を置くと笑顔でマルコに顔を向ける。
【酒くせぇんだよカス。こんな安酒で満足すんのはてめぇら蛮族だけだ。今直ぐ、蔵にあるワインを走って持ってこいクズ野郎】
「…………ぇ? 」
「イエ、トテモ美味デシタヨ」
「ははっ、流石はコエリョ様ですな! 繊細な味覚をお持ちのようで。実は、この酒は田中家の女将から献上された品でしてな。いやはや、隠し持っていただけに、実に美味い酒でしてなぁ。吾輩も気に入っておるのですよ! あっはっはっは!! 」
「ハッハッハッハ」
一見、和やかな雰囲気に包まれた二人なれど、傍から見れば両者の間に刻まれた溝の深さが見て取れる。
コエリョの瞳はどこまでも冷たい。まるで、そこらの虫けらに向ける視線のよう。それとは対照的に、マルコがコエリョに向ける視線は純粋な敬意に満ちていた。いっそ、哀れな程に。
府内防衛軍総指揮官 鈴木マルコ。彼は、ガスパール・コエリョの操り人形であり、彼の指示を素直に聞く者はほとんどいない。
現在、この府内を支配している者はただ一人。ガスパール・コエリョその人であった。
その後、泥酔したマルコを端に寄せると、コエリョはただ一人の上座にて宴の様子を見渡していた。そして、唐突に眉を細めると盃に罅が入る。
【チッ! まさか二日も足止めされるとは! 立花を追い出し、織田軍を追い払うところまでは計画通りだったと言うのに!! 】
コエリョは、およそ聖職者とは思えぬ憤怒の形相を浮かべる。本来であれば彼は此処に居ない。この嵐さえ無ければ二日前には臼杵城へ向かえていたのだ。
【クソったれ! 既に、大友家で確固たる地位を築けるだけの手柄を立てた以上、こんな場所に居座る必要など皆無だと言うのに! それもこれも、マルコが予想以上に使えない愚図だったせいだ!! 】
コエリョは、この場に居る日本人には母国語を理解出来ない事をいいことに、感情の赴くままに言いたい放題愚痴を吐き散らかす。
コエリョにとって府内は重要な湊町ではあるが、自身の命には変えられない。府内防衛の為なんかに命を懸ける気など最初から無い。適当に手柄を立てた後は、指揮権をマルコに任せて自分は安全な臼杵城へ逃げるつもりだったのだ。
――その心構えが、彼の運命を決定付けた。
始まりは僅かな揺れ。
【……ん? ……揺れている。向こうで誰かが騒いでいるのか……? 】
置いた盃の水面が僅かに揺れ、コエリョの目に止まる。嫌な予感が胸の奥に渦巻き、今までの人生で培ってきた直感が己に迫る危機を感知する。
【……手先が震えている。……私が、この私が恐怖を感じているというのか! この私が……っ】
増長し過ぎたプライドが、無意識に後退り始めていた足を止めた――刹那、入口と左右の襖が吹き飛ばされた。
――ドォンッ!!!
凄まじい勢いで宙を舞う襖。砕け散る器。散乱する料理の数々。気が付けば、全身真っ黒に染まった謎の集団が部屋を包囲していた。彼らの正体は九鬼嘉隆率いる織田軍。嵐の海を突破した彼らは、遂に敵陣へ乗り込んだのだ。
「見つけたぞぉ!! こいつらが大友軍の中枢だ!! ただの一人も逃がすな!! 全員殺し尽くせ!! 友の仇を討つのだぁ!! 行くぞぉぉおおお!! かかれ、かかれぇぇぇぇ!!! 」
『ぅぅうううおおおぉおぉぉおおおおっ!! 』
『ひ、ひぃぃっ!? 』
鬼のような形相で迫る織田軍に、大友軍は一斉に逃げ惑う。切り刻まれる四肢。流れる鮮血。絶叫が木霊し、我先にと出口を探して仲間を踏み殺す。
そんな、狂気とも言える勢いで迫る織田軍に、大友軍は次々と討ち取られた。当然だ。酔いの回った身体で、どうやって武器を振るえようか。一度恐怖に呑まれた者が、どうやって抵抗出来ようか。
彼らに許されたのは逃走だけ。そして、それが出来たのはただ一人。コエリョだけは、上座の後ろにある隠し通路から脱出してみせた。
コエリョは、裸足で屋敷の中を駆ける。
【クソッ! クソッ! クソッ! 何故だ、何故敵が此処までやってきている!? 門番達は、一体どうしたというのか!! 】
コエリョは走る。息を切らしながらも必死に走る。コエリョは知らなかった。まさか、九鬼嘉隆が海を越えてきているなんて知らなかった。マルコが、どうせ無理だろうと海岸からの道沿いに兵を配置していなかったなど知らなかった。
コエリョの誤算は二つ。
一つは、状況の変化。
十日前までは良かった。その時までは、この府内には立花道雪が大友軍大将として五千の兵士達を率いて陣を敷いていた。立花道雪は、居城に籠る主君に府内の重要性を説き、何とか五千の兵士達を引っ張って来たのだ。
あの時、村上武吉は敵兵は千人程度で大将格は居ないと断じていたが、それは海から見えたマルコ率いる前線部隊だけ。兵士達は、マルコに対して欠片も忠誠心が無かった故に纏まりが無いように見えたのだ。もし、この場に立花道雪が居たら嘉隆達の襲撃は失敗していただろう。
……そう、居れば。
立花道雪は、既に臼杵城へ兵を引き上げている。理由は三つ。島津軍が栂牟礼城を攻略。龍造寺家・有馬家が織田家に臣従。織田信孝軍進軍開始。この三つが、十日間で立て続けに行った。迫る大軍に恐れをなした大友宗麟は、すぐ様立花道雪を臼杵城へ戻してしまったのだ。
これが、状況の変化。
そして、二つ目はこの嵐。
コエリョとて馬鹿では無い。動き出した織田軍に、この府内へ留まる事の危険性を理解したコエリョは直ぐに逃げようとした。
しかし、それをマルコが泣きながら阻んだ。見捨てられると悟ったマルコは、孤児院や教会の者達を総動員してコエリョを一日足止めした。
その一日が命運を分けた。結果として、府内を襲った嵐によってコエリョは府内に閉じ込められてしまったのだから。
だが、これらは結局自業自得なのかも知れない。他者を見下し、蔑み、信用しなかったコエリョには、最期まで知る由もない事かも知れないが。
……そう、伏兵の存在すらも――
渡り廊下を抜けて外へと逃げ出そうとするコエリョ。その影から、二本の槍が迫る。
【ガァッ……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛アッ!!? 】
足を貫く二本の槍。堪らず叫び泣くコエリョ。痛みで藻掻く度に激痛が全身に走る。気絶する事すら許されない。涙で歪む視界には、二つの黒い影が見えた。
【あ、悪魔……め……っ】
それが、コエリョの最期の言葉だった。
――ザシュッ!!
首が落とされ、溢れる血が大地を染める。あれ程までに騒がしかった屋敷は、僅か十三分で静まり返っていた。屋敷に居た百十三名全てが死亡。近くにも他に屋敷はあり、そこには多くの兵士達が在住していた。しかし、この嵐が彼らの絶叫と惨劇を覆い隠し、近くに住む仲間達がコエリョの死体を発見したのは翌日の事だった。
一方で、襲撃を決行した義隆は目標の首を確認すると速やかにその場を離脱。翌朝、嵐の過ぎ去った海を彼らは誰にも見つからずに渡って行った。
そのあまりにも鮮やかな電撃戦に、嘉隆は後世において暗殺者の異名で畏れられる事となる。
***
この三日後、滝川一益が五万の兵を率いて上陸。僅か半刻で府内を占拠すると、大友軍の残党狩りを開始。翌日には、数多の首が晒される事になる。
そして、天正十二年五月五日。織田信孝が府内へ到着。滝川一益と合流を果たした。それと同時に、九鬼嘉隆と村上武吉が水軍を率いて出航。海から臼杵城を目指す。更には、織田軍に呼応するように島津軍が進軍を開始した。
決着が迫る。