22話
さて、時は三日程遡る。
天正十二年四月十五日。
織田信孝軍が長門国を出発した同時刻、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍が村上武吉と共に伊予国を出発した。九州と四国は陸続きでは無い。豊後国に攻め込むには、どうしても航路を繋ぐ必要がある。嘉隆は、その重要な大役を任された。
此度の大友征伐は、織田信孝軍・滝川一益軍・島津軍の三方向から大友領を目指す包囲戦。大軍にしか出来ない戦法であり、単純ながらも相手の選択肢を狭め、上手くハマれば自軍が終始戦の主導権を握れるところから、三法師が好んで使う戦法である。
その包囲網だが、何処か一つでも先走ったら成立せず、逆に一つでも遅れても駄目だ。綻びが生まれる。一つ一つ城を落としながら網を狭め、敵を逃がさぬように囲い込む。それが鉄則である。
三法師にも念を押されていた一益は、織田信孝軍に遅れを取らないように、早急に伊予国と豊後国を結ぶ航路を確保せねばならなかった。
滝川一益に任せられた兵は五万。【海賊大名】九鬼嘉隆と【海賊王】村上武吉を筆頭に、池田恒興や丹羽長重、長宗我部家の援軍も軒を連ねる。
一益は当初、兵士達を別府湾を経由しながら豊後国府内へ入り、敵勢力を退けて湊を確保。それから、織田信孝軍と島津軍の動向を探りながら、近場の城を押さえつつ大友宗麟が居城 臼杵城を目指すつもりだった。
しかし、そこである情報が手に入る。大友宗麟が、各地の家臣団を集めて臼杵城に引きこもったと言うのだ。残された城には、数百程度の兵しか残っていないという。
この思いもよらぬ吉報に一益も頬を緩めた。
(これ程の戦力が揃っていて、更には大友宗麟は居城で引きこもっていると聞く。ならば、最早負ける筈が無いだろう)
一益は、ある種楽観視していた。
数百程度の守りならば、五日もあれば支城の幾らかは落とせる。この分だと、舟を阻む敵兵もいないだろう。楽に上陸出来そうだ。
極めつけには、大友宗麟は居城に戦力を集めて引きこもるばかりで戦おうとしない。己の命しか守る気が無いのだ。
……やもすれば、このまま我が軍が臼杵城を包囲し、三七様を出迎える事になるかもしれない。早急に方をつければ、三法師様もきっとお喜びになられるだろう……と。
一益は、胸を弾ませながら嘉隆の帰りを待った。
しかし、古今東西調子に乗った者は総じてろくな目に合わない。
三日後、九鬼嘉隆と村上武吉はボロボロの状態で帰還した。三隻各二百名派遣された水軍は、僅か一隻しか帰って来なかったのだ。
先鋒隊とはいえ、九鬼・村上水軍は大友軍によって完膚なきまでに叩きのめされた。敗北。それが、滝川一益に突きつけられた現実であった。
***
時は、天正十二年四月十九日。
九鬼嘉隆が前線基地に帰還してから一夜が明けた。未だ、基地内には動揺が走っている。皆が皆、見てしまったからだ。おびただしい戦の跡が刻まれた舟。落ち武者のようにボロボロになった九鬼嘉隆と村上武吉の姿を。
如何に偵察とはいえ、日ノ本最強と言っても過言では無い九鬼水軍と村上水軍が、あぁも無惨な姿を晒した。敗北。それは、期待を込めていた分だけ落胆になって返ってくる。事実、彼らの敗北に一番ショックを受けていたのは滝川一益であった。
一益は、九鬼・村上水軍のまさかの敗北に気が昂って一睡も出来ていなかった。無理もない。未だ戦は始まったばかりとはいえ、出足に躓いてしまった事には変わりない。信長の時代より実力主義が根付いた一益にとって、もうこれ以上失態を積み重ねるわけにはいかない。
そんな、ある種の脅迫概念によって精神的に参っていた一益のところにとある一報が入った。龍造寺隆信を討ち取った遠賀川の戦いの件である。
早朝、大将滝川一益の命により、本陣に軍団長格の武将達が勢揃いしていた。勿論、その中には九鬼嘉隆と同行していた村上武吉の姿もある。
「……先程、三七様より急使が参った。遠賀川にて龍造寺軍と交戦。龍造寺隆信を並びに、数多の武将を討ち取る大成果。御味方大勝利である……と」
『おぉ!! 』
突然の吉報に一同喜びの声を上げる。九州屈指の実力者龍造寺隆信、それを見事討ち取った功績は沈んでいた士気を一気に最高潮まで高める。先の敗北を忘れられる程に。
しかし、織田信孝からの報告には続きがあった。
「しかし、織田軍もかなり痛手を負ったようだ。軍団長格の武将にも重傷者が出ており、前線に立っていた者の多くは死んだそうだ。…………っ!? そして、三七様も怪我を負ってしまったようだ」
『…………なっ!? 』
総大将負傷の報告に一同慌てて立ち上がる。一益は、慌てる事無くそれを右手で制した。
「あいや待たれよ。三七様はご無事だ。幸い軽傷で済んでおり、命に関わる事では無いようだ」
『さ、左様ですか』
場に安堵感が漂う。もし、信孝が危険を顧みず最前線に立ったと知れば、池田恒興辺りは胃を痛めてしまっただろう。
それを察した一益は、事実を伏せて続きを語る。
「しかし、十日程軍の再編に時間を使うようだ。その後は、藤吉郎と三七様に兵を分けて別行動を取ると書いてある。おそらく、藤吉郎は龍造寺領を巡って掌握にかかるのだろう。……そして、三七様は臼杵城を目指す」
『…………っ』
その言葉に一同身体を強ばらせる。一益の言わんとすることを察したからだ。一益も、気が重そうに肩を落としている。
「三七様の軍は、予想以上に消耗しているようだ。毛利家からの支援物資もあるが、これからの戦いを考えれば間違いなく足りなくなる。特に、怪我人の治療で薬の在庫が心許なく、滝川軍には早急に豊後国へ渡り補給物資を届けるように……との事だ」
『…………』
信孝からの文を全て読み切ると、場に重苦しい空気が流れる。もし、この知らせがもっと早く届いていたら……いや、それでも結局はこんな空気になっていただろう。
一益は、先日まで調子に乗っていた自分を殴りたかった。信孝の要求は何一つ間違っていない。そもそも一益が最も優先すべき仕事は、伊予国と豊後国を航路で繋ぎ補給路を確保する事。補給路の確保は遠征での鉄則。怠れば死に関わる。それ故の九鬼・村上水軍の派遣だったのだが……。
『…………はぁ』
溜め息が重なる。
一から計画を立て直さねばならぬ。更には時間制限付き。一益は、もう何から手をつけて良いか分からなくなり頭を抱えていた。
そんな中、顔色一つ変えずに空を見上げる二人がいた。その二人とは、九鬼嘉隆と村上武吉。帰還から一夜明け、綺麗に身体清めた二人には何故か悲壮感を感じられない。あれ程ズタボロになって帰って来たのに。
当然の事ながらその姿は一益に目に止まった。
「九鬼、そして村上よ。儂には、貴様らが一方的に負けたとはどうしても思えん。一体何があった? 何故、そんなにも落ち着いていられる? 」
一益が二人を問いただすと、他の者達からも視線が向けられる。負けたのは事実。しかし、状況が状況だけに詳しい内容は聞かされていない。信孝の文が無ければ最初の議題はコレだっただろう。
嘉隆と武吉は、聞かれる事を分かっていたのか、特に慌てる事無く淡々と話していく。
「……湊は閉じられており、高い防柵に千を超す敵兵が守りを固めていた。極めつけは大筒だ。おそらく、三門程沖に標準を合わせて設置されている。舟を二隻沈めたのはソレだ」
『な、なんだとっ!? 』
一同思わず立ち上がる。一益達は、大友家がそこまでの対策を取っているとは思わなかった。
(引きこもっているとは流言だったのか! )
一益の胸の奥に不安が渦巻く。
しかし、嘉隆と武吉は特に問題無さそうに肩を竦めた。
「滝川の旦那、そう心配しなさんな。兵に統率が取れていない。おそらく、武将は複数人いるが全て同格で、それ等を束ねる大将格がいないんだろうよ」
「俺も、九鬼の見解に賛同する。あれは大友家の本軍じゃねぇな。まぁ、遠目からだし確たる証拠は無いが……な。まぁ、心配しなさんな。あと十日も待てば好機が来るだろうさ。それまでは、ゆるりと待てば良かろうて」
「と、十日っ!? それでは、三七様の動きに間に合わないだろうが! 我らは、最低でも三七様が来る前に府内を押さえねばならぬのだ!! 」
気が昂り机を蹴飛ばす一益は、遂に言ってはならない事を口走ってしまう。
「そもそも……そもそも、お前達が負けていなければこんな事にならなかったのだ!! 手下の半数以上を失ったくせにヘラヘラしおって! 無様に逃げ帰るくらいならば、命を賭して湊を開いてくれば未だ使いモノになったわい!! 」
『…………っ!? 』
「…………ぁ」
静寂。
皆が皆、ギョッとしたように一益を見る。一益もまた、ハッとして口を塞ぐ。
しかし、今更口を閉ざしても遅い。吐いた言葉は無かった事には出来ない。例えそれが、本心からの言葉では無かったとしても……。
『……では、これにて失礼致す』
「お、おい待たんかっ!! おいっ!! 」
怒る一益と、もう話す事は無いと陣を去る嘉隆と武吉。その場には、怒り狂う一益とそれを宥める武将達だけが残された。
険悪な雰囲気。迫るタイムリミット。
だが、この十日後。嘉隆と武吉が言った通り、事態は一気に進展する事になる。