20話
天正十二年 四月十八日 巳の刻。
戦が始まってから三時間あまりが経過した。
龍造寺軍の奇襲。荒ぶる遠賀川によって織田軍が分断。鍋島直茂と小早川隆景の一騎打ち。龍造寺隆信が僅か五百を率いて奇襲。羽柴秀長率いる二千の軍勢が壊滅。羽柴秀長、重傷を負って戦線離脱。怪物 龍造寺隆信の無双。石田三成・加藤清正・福島正則・小西行長による命懸けの時間稼ぎ。
僅かな時間で、これ程までに濃密な戦いをしていた。ここまでを振り返りどちらが優勢か、それは間違いなく龍造寺軍である。
これは、客観的にこの戦いを評価した結果。覆しようの無い事実であった。
……織田軍は、良く戦っている方だ。九万という大軍を用意しておきながら、実際に戦えているのは全体の三割にも満たない二万四千五百。更には、その殆どが先鋒隊である毛利軍であり、織田信孝が動かせる兵は限りなく少ない。それに、兵も奇襲によって動揺しており逃げ出す始末……。
だが、これが戦である。
自らの想定通りに事が進むと思っている方が間違っており、一流足る者不測の事態に備えて次善の策を用意しているものだ。初太刀を躱されようとも、その腰には第二の太刀があるのだから。
そして、織田信孝は第二の太刀を抜いた。
戦況を覆す奇策で戦場を二つに分断してみせたのだ。万を超す大軍に身を晒しながら戦場を駆ける総大将の姿に、味方は大いに奮起し、敵は手柄目当てに殺到する。
あまりにもハイリスクな決断。しかし、戦場を駆ける織田信孝の頭には確かな勝算があった。
そもそも劣勢に陥っているのは龍造寺隆信による二度の奇襲であり、その狙いは総大将織田信孝がいる本陣の護りを薄くして一点突破を目指すモノ。その対象が多くの人目に立つ最前線に現れてしまったら、策が根本から崩れてしまう。何故なら、そこには敵以外にも味方で溢れかえっているのだから。
確かに、敵兵に身を晒せば討ち取られる危険性が高まる。万を超す大軍がぶつかり合う最前線ならば余計にそうだ。
されど、織田信孝は自らの命を危険に晒しても自軍の士気を上げるメリットを取った。士気の上がった兵士達と一緒ならば、充分敵兵を捌ききれると確信していた。
何より、怪物 龍造寺隆信に一対一で勝てる武将がいない以上、物理的に距離を取ることは実に合理的である。更には、戦場をコントロールし、龍造寺隆信から離れるように移動させれば戦場から孤立させる事が出来る。
幾ら単独で強かろうが、兵士がいなければ捌ける手札は限りなく少ない。織田信孝は、後手に回っている状況を逆手に取り、自ら囮になる事で龍造寺隆信の手札から多くの選択肢を奪ってみせた。
無論、羽柴秀吉が龍造寺隆信を止められたらの話だが。もし、ここで羽柴秀吉が無惨に敗れた場合、龍造寺隆信は三百の兵を率いて織田信孝の背後を突く事が出来る。そうなれば、今度こそ織田軍の命運は尽きるであろう。
まさに、諸刃の剣。ハイリスクハイリターンなギャンブルへ織田信孝は勝負をかけた。ベットは己の命。先に討ち取られた方の負け。序盤・中盤と押され続けているのならば、強制的に最終局面へしてしまえば良い。
簡単に言ってしまえば、織田信孝のとった行動は一か八かの博打打ちそのものである。……しかし、だからこそ人は面白いのだ。
さて、数多の戦いがあった。信念と信念のぶつかり合い。幾重にも張り巡らされた策謀の数々。逃げ出す者もいた。負けじと槍を振るう者もいた。
されど、道半ばに死にゆく者はどれよりも多かった。大地は骸で溢れ大河は鮮血で染まる。
戦場を駆ける一陣の風。荒ぶる獣と化した男の前には雑兵など鎧袖一触。極限まで研ぎ澄まされた集中力は、龍造寺隆信を新たな段階へと進ませた。
【神域】
それは、彼の剣神 塚原卜伝にしか許されなかった極地。復讐。己が命をも燃やし尽くす業火。文字通り己が全てをかけたこの男を前にして、果たして羽柴秀吉はどう戦うのか。
遠賀川の戦い、終局である。
***
天正十二年四月 筑前国 遠賀川 龍造寺隆信
方や金砕棒を握り締め、方や軍配を掲げながら呼吸を合わせる。
「では……」
「いざ……」
『参るっ!!! 』
『ぅぅうううおおおぉおあぁあぁあっ!!! 』
大将同士の雄叫びが混じり合い響き渡ると、それに負けじと両軍からも雄叫びが上がった。
俺は、金砕棒を担ぎながら自軍の兵士達の雄叫びに押されるように最前線を駆ける。それに反応するように、羽柴は即座に後方へ下がりながら軍配を振って指示を出す。
「竹束構えぇ!! 隙間を作るな! 三人一組になってお互いを支えよ! 槍隊は短く構えてその場に待機! 好機は一瞬、決して気を緩めるで無いぞ!! 弓隊第一射構えぇ…………ってぇぇえええっ!! 」
矢継ぎ早に繰り出される指示、即座に放たれる無数の矢。それらを認識した瞬間、またもやあの時同様に世界から色が失われていった。
やけにゆっくりと流れる時間の中で思考を張り巡らせる。数は五十。進行方向全体に散らばるように放たれている。全て薙ぎ払うのは不可能。速度を落とせば竹束を突破出来ない。足を止めれば槍で貫かれる。一瞬の躊躇が命取り。……ならば――
世界に色が戻る。
ちょうど俺の隣りを駆け抜けていった兵士の存在を認識すると、即座に首根っこを掴み持ち上げる。
「え……っ、なん…………ん……ギィア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!? 」
戸惑う声。直後に降り注ぐ矢の雨。耳障りな断末魔。俺の身体に損傷は無し。即席の盾だが、思いのほか役に立つ。半ば感心しながら、そのまま盾を上空に構えて大地を駆けた。
(これならば、敵軍の最前線を食い破る事が出来る。兵数的にも短期決戦が望ましい。その為にも、人の道理など気にしてはならぬ。俺が欲しいのは勝利だけだ!! )
「そこを退けぇぇえええっ!! 」
「なっ! しょ、正気かあの男!? 」
「味方を盾にしてやがるぞ! 」
「う、嘘だろ!? 止まらないぞこいつ!! 」
矢の雨を物ともせず突き進む姿に恐れをなしたのか、最前線にて竹束構える織田兵に動揺が走る。僅かに後退り膠着。その一瞬の隙を突いて加速し、大地が爆ぜると同時に一気に詰め寄った。
あと数歩で間合いに入る。
そう確信した次の瞬間、空より高速で飛来した一条の軌跡が鎧諸共盾を貫き、避ける間もなく太腿を貫いた。
(……っ、投擲か! )
舞う鮮血。即座に槍を引き抜き横へ転がると、その数瞬後には何本もの槍が地面に突き刺さった。上手い、わざと聞こえるように指示を出したのはこれが狙いか。まんまと足を止められてしまった。
血が止めどなく溢れる。止血している暇は無い。
「足を止めたぞ! 四方から竹束で押さえ込め! 」
『おおぉ!! 』
殺到する織田軍。舌打ちしながら盾を見る。僅かに痙攣しながら白目を向いている。最早、助からぬ。直ぐに死ぬだろう。……であれば、もう少しだけその身体を使わせてもらうぞ。
雄叫びを上げながら迫る織田軍。その先陣が重心を前へ移動させた瞬間、足元を狙って盾をぶん投げた。
「なっ!? ぅ、うぉわっ!? 」
体勢を崩して倒れる兵士。それに躓くように後続も転んでいく。 明確な隙、鋭い痛みを耐えて一気に加速し織田兵の懐に入り込むと、今まで貯めていた力を解放するように全力で金砕棒を振り切る。
「ああああああああぁぁぁっ!! 」
吹き飛ぶ兵士。十の頭を砕き、十三の手足を砕いた。荒く息を整えながら周囲で俺を取り囲む兵士達を睨む。すると、恐怖で足が竦んだのか幾人かが尻もちをついた。若干、地面が濡れている。
(道が出来たっ)
思わぬ好機。恐怖に呑まれた兵士達の間を通れば、後方に控える羽柴秀吉まで一直線だ。
「退け、退け、退けぇえええ!! 」
「ひ、ひぃ……っ!! は、早く逃げ……ギャッ」
「た、たす…………グゲェ」
「し、死にたくない。死にたくない。死にた……や、やめ…………ンギィ」
足を踏み砕き、頭を砕き割って脳髄をぶちまける。更に奥へと進もうと足を踏み締めたその時、硬い金属のような感触が伝わり思わず足元へ視線を向ける。そこには、予想通り刀身の折れた刀が転がっており、鏡写しになった己の姿があった。
既に三十は殺したその身体は、返り血で顔も鎧も真っ赤に染まっており、金砕棒を構える様はまるで御伽に伝わる悪鬼のよう……で。
固まる足。そんな致命的な隙を見逃される訳も無く、左右から伸びる槍に脇腹を貫かれる。
「……ゴフッ」
膝をつく。吐血。右側から追い打ちをかけるように刀が振るわれる。身を捻りながら金砕棒を振るって防御するも、立て続けに左側から三本の槍が伸び鎧を貫く。
『死ねっ!! 悪鬼めがぁ!! 』
薄れゆく意識の中、確かにその言葉は聞こえた。
あぁ、そうだ。悪鬼で良い。人に戻る必要は無い。人である必要は無い。こんな狂った世界で生きてきて、数多の命を葬ってきて、今更どの面下げて人だと言えようか。
「諦めろ、龍造寺隆信っ!! お前は、もう終わったのだ! 潔く敗北を受け入れ矛を収めよ! 」
羽柴の声が聞こえる。
「ま……け……っ、俺…………が……っ」
「そうだ! 貴様は間違っていたのだ。復讐に身を任せ道を誤った……その先に貴様が望んだ未来など無いのだ! 復讐に取り憑かれた憐れな獣よ。せめてもの情けだ、この刃で終わらせてやろう」
「…………っ」
分かっている。初音は復讐など望んでいない。この果てにあるのは無惨な最期だけだ。何一つ成せない。何一つ得られない。何一つ護れない。無惨な……最期。
――だから、どうしたっ!! 知ったことかっ!!
間違っているか、望まれているかは関係無い。これが……これが、俺が進むと決めた道だっ!!
「ぅううおおおおぉぉおおおぁああっ!! 」
絶叫。消えかけていた灯火が、今一度灼熱の業火となって蘇る。
「ば、馬鹿な!? 何故、あれでしなぁ……」
左手で目の前にいる敵兵の頭を掴み握り潰す。
『ひ、ヒィィィッ!! ば、化け物じゃあ!! 』
一目散に逃げ惑う敵兵。その背を追わず、羽柴秀吉がいるであろう方角へ一気に駆け出す。根拠は無い。視界も殆ど血で染まって見えない。
だが、どうやら直感は当たったらしい。
「止めろ! 止めろぉおお!! 」
焦ったような声音。殺到する足音。飛来する矢と槍。十人がかりで足を止められ、隙間を縫うように槍と太刀が身体を貫く。
「もっと身体を寄せ合え!! 」
「足だ! 足を抑えよ!! 」
「槍をねじ込め! 縄を持ってこい! 縄を! 」
「首を切り落とせば終いじゃあ!! 」
迫る刃。腕を斬られ、眼を裂かれ、耳を斬り落とされ、縄が関節周りに巻かれ始める。
だが、それでも未だ終わっていない。未だ戦える。
「――――っ!! 」
身体にしがみついた敵兵を振り回して拘束を解くと、形振り構わず前へ前へと足を進める。僅かに見えた先には、勝ちを確信して気が緩んだ羽柴秀吉の姿がはっきりと見えた。
「はぁしぃばぁ……ひぃでよしぃぃいいいっ!! 」
大地が爆ぜる。
あと十歩。
落ちていた槍を拾う。
あと八歩。
槍を引き摺りながら駆ける。
あと六歩。
伸ばす右腕、狙いは喉元。
あと四歩。
突如、横に現れた男に右手ごと槍を斬り落とされる。
「市兵衛ぇ!! 」
「殿っ! お逃げ下さいっ!! ……ぅあっ!? 」
斬り落とされた断面で男を殴り飛ばす。よろけた身体を突き飛ばすと、その勢いを利用して加速する。
あと三歩。
未だ左手がある。指さえかかれば――
あと二歩。
羽柴の振るった太刀が左肩を斬り裂く。たが、それでもこの身体は止まらない。
あと一歩。
間合いに入る。その無防備な顔へ左手を伸ばす。まだ終われない。俺は、俺は――
***
(終わった……)
秀吉は空を仰いで息を漏らす。龍造寺隆信の左手は、秀吉の顔の二センチ手前で止まっていた。その身体既に息は無く、その執念が形取られたようにいつまでも立ち続けていた。
彼の復讐は、文字通り命を燃やしていた。その髪は、まるで老衰した老人のように白く染まり、内臓は焼き爛れたような有り様であった。
あと一呼吸。もし、あと一呼吸命が続いていたら……そう思わずにはいられない。神の力を有するには、人間の力はあまりに脆すぎた。
こうして、遠賀川の戦いは幕を閉じた。
龍造寺隆信の死亡により龍造寺軍の士気は著しく落ちた。更には、龍造寺四天王の多くが龍造寺隆信と共に討ち死にした事により、軍を指揮出来る者がいなくなり龍造寺軍は壊滅。残党狩りにより、多くの命が失われた。
無論、織田軍とて無事では無い。
小早川隆景並びに羽柴秀長が重傷。その他、多くの重軽傷者に溢れ、死者は二千を超える大損害。織田軍は、立花山城にて軍の再編を余儀なくされた。軍を立て直すには、最低でも十日はかかるだろうと見込まれた。
辛勝。それが、織田信孝が下した遠賀川の戦いの評価。彼は、誰よりもこの戦の反省点を深く心に刻み込んだ。
後世において、龍造寺隆信は織田信孝と羽柴秀吉を最後まで苦しめた怪物として伝わる。
そして、この十日が大友家の命運を分けるとは、この時は誰も知らなかった。