16話
時は、小早川隆景と鍋島直茂の一騎打ちが決着する直前に遡る。
龍造寺軍二万五千が真っ直ぐに織田信孝目掛けて突撃。そこに、正面からぶつかり合うように毛利軍二万が突撃。
この状況から、羽柴秀吉は手元にある四千五百の兵を左翼二千・中央五百・右翼二千に分割。正面を毛利軍に任せ、左右から龍造寺軍を迎撃する構えを見せる。羽柴秀吉は、右翼を黒田官兵衛に左翼を羽柴秀長に任せ、自分は織田信孝を守る最後の砦として五百を率いて中央から指揮していた。
序盤。
奇襲が成功した龍造寺軍に流れが来る。
それもその筈、物理的にも精神的にも勢いに乗る龍造寺軍の兵士達に迷いは無く、対照的に突然の奇襲で思考が状況に追い付かない織田軍の兵士達は恐怖一色に染まっていた。これでは、まともに戦いにもならない。四半刻も経たずに最前線は崩壊しかけ、逃げ出した兵士によって百五十人程の溺死者を出していた。
積もる不安。足を取られた兵士が踏み潰され、荒れ狂う遠賀川は血で真っ赤に染まっていく。中々川を渡って来ない兵士。冷や汗を流しながら必死に激を飛ばす織田信孝。そんな落ちつかない総大将の姿に、焦燥感が軍全体に広がっていく。
状況は最悪の一言であった。
そして中盤。
このままでは勢いで押し切られると判断した毛利家が誇る智将が動く。
羽柴秀長や黒田官兵衛といった名将達が兵士の足並みを揃えようと藻掻く中、遂に現状を打破する一手が放たれた。
そう、小早川隆景と鍋島直茂の一騎打ちである。最前線を指揮している者同士による一騎打ちは、自ずと戦況の停滞を生んだ。これにより、羽柴軍の動きが機能し始め、龍造寺軍を包み込むように毛利軍と連携を取り始める。
目を見張る一騎打ち。毛利輝元が前線に上がり、それに感化された若者達が勇み足で攻め上がる。そこかしこで戦いが勃発する中、黒田官兵衛と羽柴秀長の冴え渡る采配が光り、龍造寺軍の勢いに呑まれかけていた兵士達にいつもの動きが戻っていく。後方では、津田信澄によって着々と追加の兵士達が遠賀川を渡り始めた。
少しずつではあるが、段々と流れを取り戻し始めた織田軍。ここを凌げば確実に流れがこちらに傾く。そう確信した羽柴秀吉の激が飛び、それに呼応するように兵士達の士気が上がる。
見えた希望。肌で変わりゆく流れを感じる。死の恐怖が薄れ、目の前の敵を薙ぎ払わんと意識を切り替えたその時……怪物が牙を剥いた。
――ポンッ……ポンッポンッ……。
二度、三度と軽やかな鼓の音が鳴り響く。すると、それを合図に龍造寺軍後方五百の兵士が持ち場を離脱。率いるは龍造寺隆信。怪物率いる五百の兵士達が、一目散に羽柴軍左翼へと突撃した。
そこには、羽柴秀長率いる二千の兵士達がおり、突然の出来事に慌てふためき後手に回る。羽柴秀長が異常に気付き兵士達へ指示を出そうとした時には、既にその首元へ怪物の牙が迫っていた。
黒き巨漢が大地を駆ける。爆ぜる大地。唸る剛腕。天下無双の剛力は、ただの振り下ろしを必殺の一撃へと変える。攻撃に気付き、咄嗟に構えた直後に馬ごと弾き飛ばされた。
まるで、紙屑のように吹っ飛ばされたモノが、つい先程まで指揮を取っていた羽柴秀長その人だと周りに居た兵士達は最初は気が付かなかった。気が付いたのは、誰かが上げた悲鳴と彼を呼ぶ声によって。
その直後、龍造寺家重臣鍋島直茂が戦死。それと時を同じくして、羽柴軍左翼二千の軍団は崩壊した。
この間、僅か十分足らず。
戦況を変えるのに十分もいらない。
怪物は、散り散りになって逃げて行く敵兵を眺めながら、さも当然のように悠々と歩き始めた。その先には、羽柴秀吉率いる五百の軍団がおり、その奥には総大将織田信孝がいる。
怪物を阻む者は誰もいない。
そして、時は鍋島直茂が戦死した直後に戻る。
***
天正十二年四月 筑前国 遠賀川 石田三成
その一報は、小早川殿が鍋島直茂を討ち取ったとの報せが来た直後に舞い込みました。
「小早川殿が鍋島を討ち取ったっ!? 」
「ははっ、先程小早川様が一騎打ちの末に鍋島直茂を討ち取りましたっ! 小早川様は左腿を負傷。前線の指揮は、小早川様に代わって乃美宗勝殿が担っております。此度の小早川様の勝利により龍造寺軍に動揺が走っており、お味方の士気はまさに上がり調子にございますっ!! 」
「そうかっ!! よしっ、よしっ!! 良くぞやってくれましたぞ、小早川殿ぉ!! 」
全身で喜ぶ殿。伝令の男も僅かに頬が紅潮しており、他の与力達も興奮したように身を震わせていた。
戦はまだ終わってない。確かに、序盤から龍造寺軍に押されっぱなしだけど、ここに来て流れを取り戻す絶好の機会が訪れた。私も、この戦場に立つ一人の武士として精一杯槍働きをしなくては!
そんな決意を固める私の横では、いつものように馬鹿二人が言い争っていました。
「はっはっはっ、流石は大大名毛利家の重臣だなっ! 毛利両川の異名に偽りなしだなぁ! まぁ、俺の方が強いけどな!! はっはっはっ!! 」
「ふんっ! 毛利両川はそんな意味では無いわたわけ。それに、突撃しか能の無い猪武者の馬鹿には土台無理な話だよ」
「なんだと! そういうお前は小賢しい策しか浮かばず、前に出て戦おうともしない根性無しでは無いか! 所詮、お前は薬問屋の小倅よなぁ!! 」
「な、なんだとぉ!!」
頬を抓り合いながら言い争う二人。見兼ねた福島が仲裁に入り、ようやく落ち着きを取り戻しました。
「…………全く、何をくだらない事で言い争っているのか。加藤も小西も、この危機的状況が分かっていないのか」
そんな愚痴を呟くと、二人の鋭い視線が突き刺さってきました。どうやら、あの自分の悪口だけはいち早く聞き付ける地獄耳に捉えられてしまったようで。
『てめぇ、何様だ佐吉ぃ!! 』
両者示し合わせたように鼻息荒く近付いてくる中、ソレは凄まじい勢いでやってきました。
「退いてくれっ!! 急患だ!! 早く……早く医師の下へ連れて行かねば……っ! 頼む、そこを退いてくれぇ!! 」
現れたのは全身泥と血で汚れ、瞳に大粒の涙を浮かべた藤堂。その背には、ぐったりと意識を失った小一郎様の姿があった。その右腕は折れているのか患部は大きく腫れて力無く垂れ下がっており、真っ青になった顔は素人目にも危険な状態だと悟れました。
私と加藤達の間を全力疾走で駆け抜ける藤堂。その異様な姿は当然殿の目にも入り、背負われた小一郎様の姿に目を見開くと慌てて藤堂を止めました。
「な、なな何があったんじゃあっ!? 」
突如、横から足を止められた事に藤堂は一瞬だけ目を吊り上げましたが、直ぐにそれが殿だと気付くと、途端に大粒の涙を流し、嗚咽混じりに何があったのかを語り始めました。
「罠でした……奇襲も、派手な一騎打ちも全ては布石。気付いた時には側面から龍造寺軍が……ぅう……。奴は、自らの右腕ですら捨て駒として切り捨てたのです。龍造寺隆信は……本物の化け物でございますっ」
「なんと…………」
その鬼気迫る姿に言葉を失っていると、藤堂は失礼致しますと頭を下げて本陣へと駆けて行った。殿はその背を追うことはせずに、ただじっとその場に佇み、顎に手を添えて物思いにふけておられる。
私は、それを呆然と眺めていました。
信じられませんでした。あまりにも想定外な事態が続き、どうして良いのかも分からなかった。
まるで、喉元に切っ先を突き付けられているような感覚に身を震わせていると、不意に左前方より凄まじい轟音が陣中を駆け巡りました。
あの方向は小一郎様が軍を構えていた場所。指揮官を失った兵士達が、あの龍造寺隆信を抑えられるわけが無い。つまり、あの轟音は龍造寺軍の襲来を知らせる音だったのです。
「ぅあ…………」
知らず知らずのうちに後退る。冷や汗が頬を伝う。背筋が凍り、止めようにも足の震えが止まらない。場を支配する重厚な殺気に、私は堪らず恐怖を抱いた。動けと叫ぶ理性を、怯えて震える本能が押さえ付けていた。
だけど、こんな状況でも動ける男がただ一人いました。
「…………うしっ!! 」
二度、三度と頬を叩く乾いた音が響く。音の方へ視線を向ければ、そこには黙々と戦支度を整える加藤の姿があった。
その瞳に宿る焔に目的を察した私は、それを止めようと声をかけた。
「まさか……行く気なのか? 」
「あぁ」
短く肯定する加藤。その淡々とした態度に、思わず声を張り上げる。
「馬鹿か! 一人で行って勝てるわけが無いだろ! ここは、一度引いて形勢を立て直し、策を講じるのが鉄則で――「だったら、てめぇは早く後ろに下がれ」
加藤が顔を上げる。
「死ぬのが怖い軟弱者はいらねぇ。足手纏いになるだけだ。このまま手をこまねいて死ぬくらいならば、この手で敵将を討ち取ってやんよ」
「し、しかし……」
冷たい眼差しが向けられる。思わず息を呑む私に、加藤は冷たく切り捨てた。
「……てめぇのソレは策を練っているんじゃねぇ。ただ、死ぬのが怖くて言葉遊びをしているだけだろうが」
「…………っ」
加藤の言葉に何も言い返せずに黙る。そうこうしているうちに、支度を整えた加藤は轟音が響く方へと足を踏み出した。
「…………死ぬ覚悟がある奴だけ来い」
「…………っ!! お、俺も行くに決まってるだろうが! 一人で格好付けてんじゃねぇぞ!! 」
一人先行く加藤に続く小西。その背を黙って見送る私に、加藤と私へ視線を行き来させる福島。やがて、答えを出したのか福島は私の方へ歩み寄ってきました。
「佐吉も、共に行ってはくれぬか? 」
「しかし……」
福島の暖かい眼差しに顔を逸らす。死ぬのが怖い。こんなにも恐怖に震えている軟弱者は、行っても邪魔になるだけだ……。
そんな暗く澱んだ思考に脳裏が埋めつくされていると、不意に私の肩に福島の右手が乗る。その手は、先程の私のように震えていた。
「私とて、死ぬのが怖い。当たり前だ。死ぬのが怖くない者なんていないさ」
「なら、なんで……」
戦えるのか。言葉に出来なかった思いを察したのか、福島は迷える私に答えをくれました。
「それ以上に、友を失いたくないから」
「ぁ……」
福島の言葉に、加藤や小西達と過ごした日々が蘇る。胸の奥が燃えるように熱くなり、冷たく血が通っていなかった四肢に気力が戻る。
【だったら、てめぇは早く後ろに下がれ】
加藤の言葉が脳裏を駆け、その真意を悟れなかった事を悔いる。歯を食いしばり、唇を噛み締めながら上げた顔は、先程の加藤のような覚悟を決めた武士の顔でした。
しかし、私はあまりにも時間を無駄にしてしまった。戦場では、たった一瞬で戦況が変わってしまうくらいに移りやすいというのに――
――ドォンッ!!!
再びの轟音。駆け出す二人。逃げ惑う兵士達を掻き分けた先には、倒れ伏す小西と巨漢の男に頭部を掴まれて釣り上げられた加藤の姿。
――ゴキリ。
何が砕ける音。男の手から離れて、そのまま地面へ崩れ落ちる加藤。気が付けば、私は全力で地を駆けていました。
「虎之助ぇぇぇええええっ!! 」