6話
天正十一年 十月 安土城
秋が深まるにつれて、皆が冷静さを取り戻し始めてきた今日この頃。着々と大友征伐の準備が進む中で、ソレは俺達の前に現れた。想定とは、全く異なる状況下で。
「お初にお目にかかりまする。某、徳川右近衛権少将が嫡男、名を長丸と申します。織田近江守様に於かれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げまする」
「……ぁ……ぇ……ふ、ふりでございましゅ!! 」
方や、幼さの奥に凛々しさを備えた少年。方や、言葉足らずながらも愛嬌溢れる幼女。両者共に、天下一品の着物に身を包み、眼前にて深々と平伏している。
その横には、当然の事ながら、二人の父である徳川家康の姿があった。
「長丸の歳は五つ、振は四つになります。近江守様とは、振が同い年にございますなぁ。少し準備に時間がかかってしまいましたが、以前お約束した通り二人を連れて参りました。どうぞ、良しなにお願い致しまする」
「…………で、であるかっ」
思わず引き攣る頬。どうやら、まだまだ気の休まぬ日が続きそうだ。
***
朗らかに笑う家康を横目に、大老達へ視線を向ける。「知っていたのか? 」と、無言で問うも、サッと目を逸らされた。
怪しい。一番最初に目を逸らした左近を見詰めると、おずおずと家康へ話しかける。
「と、徳川殿。確かに、織田家では徳川家の姫君を迎える準備を進めておりましたが……」
「おや? 未だ、準備が終わっておりませんでしたかな? 」
「いえ! そこは抜かりなく、既に屋敷の用意は済ませております。しかし……ご子息も共にとは伺っておりませぬ故…………」
「おや? ……そうでしたか。どうやら、こちらの不手際で連絡がいっていなかったようですな。近江守様、滝川殿。誠に申し訳ない」
「……っ!? い、いえ……確認を怠った某にも責任はございます故……」
己の不手際を謝罪する家康に、釣られるように頭を下げる左近。何処か居心地悪い空気が流れる中、間を取り持つように藤が声を上げた。
「まぁまぁ、確かに連絡の一部に欠けている所がございましたが、そのように深刻な表情を浮かべられる程の問題ではございませぬでしょう。織田家が用意した屋敷ならば、童一人と付き従う者達が数人増えてもゆとりがございますし、織田家としましても盟友足る徳川家の嫡男と姫君を迎える利点は大きい。困るのは、今夜の宴を取り仕切る某くらいでしょうて。何せ、食材の補充を急がねばならぬのですから! はっはっはっ!! 」
『……ふふっ……はっはっはっ!! 』
おどけたように笑う藤に釣られて、心配そうに話の行く末を見守っていた重臣達からも笑い声が零れる。その様子に、家康や幼い子供達もにこやかに笑っており、左近も何処か気が楽になったようだ。
少し雰囲気が良くなった事を察すると、二度、三度と手を叩いて皆の視線を集める。
「では、長丸殿と振姫は、城下に建てられた徳川邸で共に過ごせるように手配致そう。未だ幼い身の上で親元を離れるのだ。兄妹、共に支え合える者同士で暮らした方が精神的にも楽だろう。徳川殿、それで宜しいか? 」
すると、家康は満足気に頷いた。
「えぇ、それが宜しいかと。近江守様、誠にありがとうございます。長丸、振。徳川家の名に恥じぬ立ち振る舞いを心掛け、日々勉学に励み、心身共に成長して来なさい」
『はいっ!! 』
元気な声が大広間に響き渡る。どうやら、この二人は既に覚悟を決めているらしい。流石は、武家の子と言ったところか。それとも、家康の子供だからか。大した胆力。その瞳には、一欠片の迷いも恐怖も見当たらなかった。
これは、織田家当主として二人を歓迎しなくてはならない。何不自由無く、安心安全の暮らしを保証しなくては面子に関わる。これから、どんどん臣従した大名家から人質が送られて来るのだ。戸惑っている場合では無い!
そんな風に覚悟を決める中、それでも疑問に思った事を家康に問う。
「……しかし、徳川殿が嫡男まで預けられるとは思ってもいなかった。織田家と徳川家は古くからの盟友。それは、例え代替わりした今でも変わらない。故に、無理に嫡男を織田家に預ける利点は無い。手元で大切に育てる方が、幾らか理解出来よう。……何故、徳川殿は長丸殿を織田家に預ける決心をしたのですかな? 」
真っ直ぐに家康を見詰めながら問う。臣従する際なら兎も角、今の両家は対等な同盟関係。両家の婚姻関係が破綻したから振姫を送る理由は分かるけど、嫡男である長丸を人質に出す必要性は全く無いのだ。それなのに何で……。
そんな疑念を重ねながら見詰めていると、不意に家康は朗らかに笑った。
「ワシも、幼少期は人質として他家で過ごしました。父を失い、母と生き別れ、故郷の風景すら薄れていく中味わった孤独は、生涯忘れぬ事でしょう」
遠くを見詰める瞳。きっと、その瞳には当時の光景が流れているのだろう。これは、子供にも同じ経験をさせて強くさせるつもりなのか。獅子は子を崖から突き落とすアレか。
しかし、家康の本意はそうでは無かった。
「されど、その日々の中でかけがえの無い出会いがあり申した。薄暗い部屋に閉じこもり勉学に励むワシの手を引き、光の向こうへと連れ出して下さったのは、他でも無い上様でしたなぁ……。あの日見た青空は、今でも鮮明に覚えております」
「……徳川殿」
家康は、隣りで成り行きを見守っていた長丸の頭を優しく撫でた。
「きっと、織田家ならばこの子も良い経験を得られる。日ノ本で最も栄え、全国各地から優秀な人材が集まるこの安土ならば、最先端の教育を受けられる。きっと、それがこの子の為になる。そう思ったのです」
「…………っ! ち、父上っ」
長丸の瞳に涙が溜まる。そんな長丸を見詰める家康の表情は、どこまでも慈愛に満ちた父親の顔をしていた。…………俺の頭を撫でている時の親父にそっくりだった。
あぁ、そうか。
家康も、一人の親なんだ。
「近江守様、どうぞ二人の事を宜しくお願い致します」
「……お任せ下さい。織田家当主として、盟友足る徳川家の嫡男と姫君を責任をもって預かりましょう」
俺は、家康の見えていなかった一面に動揺しながらも、力強く頷いた。
***
これで、徳川家は織田家に対して嫡男と姫君を人質に出した事になった。その意味は大きく、これを契機に各国から人質が送られて来る事になる。
手狭になってきた状況に、居城の移動を考え始めたのも確かこの頃だったか。藤から、石山本願寺跡地が良いのではと言う意見もあった。
そんな未来へ思いを馳せていたある日の晩。大老四人は、秘密裏に天守へと誘われた。集った者達は六人。三法師、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益・羽柴秀吉……そして、黒田官兵衛。
織田家中枢に位置する者達が一堂に会し、一体何を話し合うと言うのか。……思えば、この会議が始まりを告げる鐘の音だったのかも知れない。
***
一方で、三河国ではある噂が流れていた。
【北の大地は、雪に閉ざされた不毛の地であり、千里を駆けても果てに辿り着けぬ。開拓民として、罪人の一族が送られるそうだ】
彼の地では、微かに不穏な空気が流れていた。