29話
天正十一年 九月 紀伊国 高野山 真田信繁
届かない。届かない。届かない。
「だからどうした。この餓鬼のような使えない屑の命で、この俺の命が救えるのだ。この餓鬼も本望であろう? 寧ろ、何の価値の無い人生に、ようやく人の役に立てる機会をくれてやったのだ。礼を言うのが筋であろう。ましてや、妻・孫・侍女・従者は主君に命を捧げるモノ。今、こうして主君が生き長らえている事を、黄泉の国で喜んでいるだろうよ」
地に堕ちた悪鬼には、既に人の情など有りはしない。歪んだ笑みを浮かべるその様は、まさに悪鬼そのものであった。
最早、この男とは分かり合えぬ。
ぽつりぽつりと、空から降る雫に頬を濡らしながら悟った時、荒木村重も同様に悟ったらしい。下ろしていた刀を構え直し、童の首元へ刃を添えた。
「……さて、もう良いだろう。何故、俺がわざわざてめぇの時間稼ぎに付き合ったと思う? 全て無意味だからさぁ! この場所は、知っている者以外決して立ち寄れぬ隠された場所。援軍が来る事は有り得ない。そして、この雨は俺の痕跡を綺麗に洗い流す。てめぇさえ始末してしまえば、誰も俺を探し出せねぇんだよ! 残念だったな! 必死に稼いだ時間は、全て無意味だったんだよぉ!! ギャッハッハッハァ!!! 」
「………………」
荒木村重の挑発に無言で返す。巫山戯た口調や、こちらを大袈裟な身振り手振りで煽る姿に怒りが込み上げる。そのくせ、瞳には一切の油断が無く隙が見当たらない所が余計にタチが悪い。
時間稼ぎ? そんな事、最初から無駄だと分かっている。援軍など最初から当てにしていない。ただ、攻め込む隙が無かっただけ。この男は、それを分かっていながら挑発しているのだ。
己の不甲斐なさと、荒木村重の卑劣さに歯を噛み締める音がした。
刻一刻と雨足は強まり、童の顔色が段々と白くなっていく。流れる血で染まった布は、まるで最初からその色だったかのよう。
時は、私の味方では無い。じわりじわりと道筋を潰されていく感覚に陥る。何度も何度も思考を繰り広げては、絶望感に晒されながらソレを破棄する。
『詰み』
そんな諦めが脳裏を過ぎった時、狙い澄ましたような声が聞こえてきた。
「てめぇが潔くその槍で自害すれば、この餓鬼の命だけは見逃してやるよ」
「…………っ! 」
荒木村重の提案に言葉を失う。
「俺は、無事に姿をくらます事が出来れば何でも良いんだよぉ。今、織田家に見付かれば殺されちまうからなぁ。故に、てめぇには確実に死んでもらう……だが、この餓鬼は違う」
童の首を掴みながら、私に見せ付けるように前に突き出す。
「この餓鬼一匹生き残ったところで何も出来やしない。この山の中、寒さに凍えながら野垂れ死ぬだろう。……まぁ、奇跡的に織田軍に保護されて助かる可能性もあるがな」
微かな希望を含んだ言葉が、私の心を絡め取らんと迫る。ゾッとする程に悪質な一手。希望を皮に着た悪意の塊。
聞いてはならないと分かっていながらも、退路を絶たれたこの状況では、童だけでも救える可能性はあまりにも魅力的だった。
そこへ勝機を感じ取った荒木村重は、情け容赦無く追い討ちをかける。
「さぁ、選べっ!! 二人諸共ここで死ぬか! 餓鬼だけでも救う為に自害するか! 二つに一つだっ!! ギャッハッハッハァァァッ!!! 」
「……ぅ……ぐ……ぅ…………っ」
童の口から微かに声が漏れる。ただでさえ出血で苦しむ中、その剛腕から繰り出される怪力は致命傷に成り得る。
絶え間無い苦痛に、僅かに顔を歪める童。その様子を眺め、心底愉快そうに笑う荒木村重。時間はもう無い。答えを出し渋り、童を死なせてしまえば元も子もない。
私だけが死ぬか、童だけでも助けるか。
それは、あまりにも救いの無い選択だった。
「………………分かった」
暫しの静寂の後、私は俯きながら呟いた。
最早、選択の余地は無かった。最初から、私が選ぶべき手段は決まっていたのだ。童を救いたいと願ったあの日から。
ゆっくりと構えを解くと、穂先を自身の胸元へ向ける。その時、毎日丁寧に磨き上げていた穂先は、鮮明に私の顔を映し出した。
(……なんて、酷い面をしているんだ私は。もう、こうするしか無いって分かっているのに)
微かに揺れる穂先。
答えを見つけ出せ無かった事を悔いているのか。童を救えなかった事を嘆いているのか。非道極まりない荒木村重に憤怒しているのか。
(……最後に、童へ言葉を残そう。例え、どんなに憤りを感じても復讐へ走るな……と。生き延びる事だけを考えよ……と)
そんな思いを胸に顔を上げる。
そこには、予想だにしない光景が広がっていた。
泣いていた。
首を掴まれた童の瞳から、一筋の涙が頬を伝っている。雨が頬を濡らしているだけか……否、そうでは無い。痛みによるものか……否、そうでは無い。
度重なる虐待の末に感情を失っていた童が、ただただ悲しげに涙を流している。嗚咽は無く、流れる涙は一筋だけ。されど、そこに込められた嘆きが一心に伝わってきた。
あぁ、そうだ。
まるで、人形のような童に、この世の全てが絶望で塗り尽くされた童に、私は笑って欲しかった。この世は、こんなにも輝かしく美しいのだと教えたかった。幸せになって欲しかった。無表情以外の童を見たかった。
ただ、それだけを願っていたんだ――
――その時、私の中で何かが噛み合う音がした。
あぁ、そうか。そうだったのか。
「これ以上、自分以外の誰かが嘆き悲しむ姿を見たくない。大切な人に泣いて欲しくない。叶うのならば、その涙を止めたい。…………そう願ったから、殿と慶次殿は命を賭して戦う道を選んだのだ。今を苦しむ人々を、輝かしい未来へ導く為に――」
儚くも美しいその答えに、自然と涙が頬を伝う。ようやく気付いたその答えは、確かに私の心の中にも刻まれていた。
心優しき者から死んでいく、それが乱世の理。今日、明日生きる保証の無い中で、人々は自然と情を捨てた。明日も、明後日も生き延びる為に。
そんな理不尽に満ちた乱世に咲いた一輪の花。嵐吹き荒ぶ荒野にて、儚くも咲き続ける一輪の希望。この花を枯らす訳にはいかない。この想いを途切れさせてはならない。
この花は、私達に残された最後の希望なのだから。
胸元へ向けていた矛先を地面の方へ逸らし、ゆっくりと深呼吸をする。世界から色が薄れていき、音が遠ざかっていく。あの日……初めて慶次殿から一本取った時と同じ感覚。極限まで高められた集中力は、真っ直ぐに前方へ向けられていた。
「おい! いつまで手間取っていやがる! この餓鬼を殺されたくなかったら、さっさと自害しやがれぇ!! それとも、この餓鬼の腕一本斬り落とさねぇと分からねぇ――」
――ピシャンッ!!!
天翔る雷鳴が鳴り響き、荒木村重の言葉を遮る。その音に驚いたのか、先程まで張り巡らされていた警戒網に微かな綻びが生まれる。
その一瞬は、戦場において致命傷となる。
「――はぁっ!! 」
脱力した状態から一足飛びに駆け出し、間合いの一歩手前まで飛び込む。しかし、荒木村重もただ殺られるだけの愚者では無い。
「ハッハァ!!! 来ると思ったぜぇっ!! 」
狙い通りの展開に高笑いを浮かべる荒木村重。彼もまた、数多の修羅場を潜り抜けた一騎当千の強者。その膨大な経験から、私がこの窮地を乗り越えるには突撃しか無く、間合いの一歩手前からでは、槍が届くよりも腕の中にある童を切り裂く方が早いと瞬時に導き出した。
故に、嘲笑っていた。無駄な足掻きを……と。
その一瞬の油断が、脚を溜める時間となった。
「いっっっけぇぇぇえええええっ!!! 」
地面を陥没させる程の踏み込みが、限界を超えた速度を叩き出す。つい先程まで間合いの一歩手前にいた身体は、既に間合いの内側へと侵入していた。
それに気付いたのは、この世界で私ただ一人。この色が抜け落ちた世界で動けるのは、私だけなのだと悟った。
「なぁっ!? 」
大きく見開いた瞳。震える右腕。よもや、ここで加速すると思わなかったのか、荒木村重は明らかに動揺していた。
「…………チッ! クソったれがぁ!! 」
荒木村重は、一瞬童へ視線を向けるも、直ぐに視線を切って刀を振りかざす。片手とは思えぬ豪剣が、唸りを上げて迫る。狙いは槍。武器破壊、ないしは槍を叩き落とす気か。
あぁ、想定通りだ。
―――真田流槍術 雷神之槍
「…………ァアッ!? 」
刀と槍が交差する事は無かった。
慶次殿との模擬戦で掴みかけた技。それが今、完全に花開いた。
背筋を使い、無理矢理身体を捻って溜めをつくる。世界が高速で通り過ぎていく中、身体の中心で溜められた力は左腕の旋回と共に右腕に移され、凄まじい勢いで解き放たれる。
「はぁあぁぁあああっ!!! 」
「――――っ!? 」
腰の入った投擲が鳩尾を貫通する。声にならない悲鳴。童の首を掴んでいた左手が緩んだ瞬間を狙い、速やかに回収して遠ざかる。
槍を引き抜くと同時に血飛沫が舞う。それを一瞥しながら、吐き捨てるように呟いた。
「もし、私があの状況で攻撃したならば、貴様は必ず、童を刺す前に迎撃すると確信していた。臆病な程に生に執着している貴様が、己に向けられた穂先をそのままに出来る筈が無いからな」
降りしきる雨の中、真っ赤に染まっていく大地。急所を貫いたのだ、もはや助かるまい。
一国一城の主にまで成り上がりながら、主君を裏切り、家臣を裏切り、妻子を捨てて逃げた男は、遂に裁きを受ける時が来たのだ。
これが、荒木村重の運命だったのだろう。
***
真田流槍術 雷神之槍
戦いの最中に覚醒した天賦の才は、新たな流派を生み出した。
前田慶次郎との模擬戦。彼の達人から一本取ってみせた技を土台とし、神速の踏み込みで間合いへと侵入し、至近距離から放たれる回避不可能の投擲である。
大地を踏み砕く程の踏み込みは、強引でありながらも急激な瞬発力をもたらす。それは、彼の天性のバネと足首の柔らかさが無ければ不可能であり、彼だけに許された天然のチェンジ・オブ・ペースである。
豪槍の担い手が森長可であり、柔槍の担い手が前田慶次郎ならば、速槍の担い手が真田信繁である。織田家三槍の一角、そう呼ばれる日は近いだろう。