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28話

 天正十一年 九月 紀伊国 高野山 真田信繁



 遂に手に入れた帳簿。世に蔓延る悪を断罪する免罪符。童の小さな勇気が、私を此処まで運んでくれた。

 後は、これを殿へ送り届けるのみ。

 その筈だった――



「ギャッハッハッハァァァ!!! 」



 狭い穴を進む中、突如として響いた笑い声。その声音は、ゾッとする程の悪意に満ちていた。

「…………っ! 」

 最悪の想像が脳裏を過ぎり、急いで穴を抜けて外へ躍り出る。確認すべき事は、置いてきていた童とあの笑い声の持ち主。片膝を立てたまま、警戒しながら周囲を見渡す。

(右には居ない。左は…………居た)

 即座に、右手を背後に回して穴に隠していた槍の持ち手を握る。瞳を細ませながら敵を睨み付ける。

 そこには、坊主頭に袈裟姿の大男が、童を抱えてこちらへ視線を向けていた。



 ***



 粘つくような視線。血走った瞳に、煤で汚れた身体。一見隠れ潜んでいた坊主にも見えるが、その鍛え抜かれた身体は隠せていない。僅かに見える手首は太く、そこから伸びる腕には数多の傷痕が伺える。一朝一夕で出来るモノでは無い。

 私服を肥やした坊主でも、質素に暮らしていた坊主でも違う。この男は、地獄の如き戦場を経験した者だ。何より、その野心に満ちた瞳は只者では無いと確信させるには充分過ぎた。



 微塵も警戒を解かずに出方を伺っていると、男は粘ついた笑みを浮かべながら刃を振るった。

「あぅ…………っ! 」

 飛び散る鮮血。童の顔は苦痛を堪えるように歪み、切り裂かれた頬から止めどなく血が流れる。男は、そんな童の様子を満足気に眺めると、私に見せつけるように刀を下ろす。

 男が持つ刃こぼれした刀から、一滴ずつゆっくりと童の血が垂れていく。それを見た瞬間、血が沸き立つような激情が全身を駆け巡った。

「……その童を離せ、下郎っ! 」

 矛先に殺意を乗せて男を睨み付ける。即座に立ち上がり槍を構える。臨戦態勢へと入った私を見て、男は再度童の頬へ刀を添えた。

 握り手が軋む音。歯を噛み締める音。込み上げる激情の手綱を握り、今にも駆け出しそうな身体を必死に制御する。

 今、童の命はあの男が握っている。あの鍛え抜かれた腕ならば、童の細く小さな首を文字通りへし折るのは朝飯前だろう。童の安全を考えれば、今は……今は、堪えるしかないっ!



 刹那の静寂の後、ゆっくりと一歩後退る。すると、男はより一層笑みを深めた。

「ギャッハッハッハァァァ!!! 何だ? こんな薄汚い餓鬼がそんなに大切かぁ? てめぇから弱みを晒すたぁ……馬鹿な奴だなぁ!! 」

 嘲笑う男を睨み付けながら悔しげに歯軋りすると、男はソッと刀を立てて童の頬に刃を食い込ませる。

「…………っ」

 声にならない悲鳴。冷たい刀身を鮮血が伝う。怒りで腕を震わせると、そんな私の反応に確信を得たのか、男は更に笑みを深めた。

「ギャッハッハッハァ!! こんな早朝に火攻めを行うたぁどんな冷酷非道な輩かと思ったが……ククッ……とんだ甘ちゃんじゃねぇか! そうだなぁ…………この餓鬼を殺されたく無かったら、その槍で己の胸を貫いて自害しろぉ!! 」

 男は、童の頬で刀身を弾ませると、心底愉快そうな笑みでこちらを見詰める。その姿に、反吐が出る程の不快感と怒りが込み上げてきた。

「…………外道めがっ!! 」

 身体を震わせながら吐き捨てると、不意に男の顔が真顔になり、重苦しい重圧を発してきた。

「あぁん? 何を甘い事を言ってやがる。この世は所詮、弱肉強食。強き者だけが生き延び、弱き者は塵芥のように滅ぼされる。そこに過程など重要では無い。どのような手を使おうが、最終的に生き残った者だけが勝者だぁっ!!! 」

「…………っ! 」

 先程までとは打って変わって、断じて反論を許さぬとばかりに威圧感を放つ男。その声音は大地を震わし、構えていた矛先が僅かに揺れる。無意識の内に後退りしていた。



 男の言葉には、ある種の『重み』があった。ありとあらゆる苦渋を経験した者が辿り着いた答え。決して軽い気持ちから放たれた言葉では無く、確固たる信念から放たれたモノ。

 それはまるで、戦場を経験した武士のようで――

「貴様は…………一体何者だ」

 自然と口に出した疑問。それは、言うべきでは無かったのかも知れない。

 時間稼ぎとか、相手の隙を作る為に揺さぶりを入れたのならば、きっとこの男は答えなかっただろう。くだらないと吐き捨てただろう。

 しかし、そのような事を考えていないと察した男は、地獄の底から響くような低い声で答えた。

「……良いだろう。冥土の土産に持っていけぇ。俺の名は、荒木村重。天下人織田信長を裏切り、その熾烈な捜索の目を潜り抜け、今の今まで生き延びた逆賊の名だぁ」

「…………なぁっ!? 」

 男の正体は、織田家が長年探し続けていた裏切り者であった。



 ***



 荒木村重。その名は、織田家に組みしている者の中で知らない者は居ない。

「馬鹿なっ! 高野山周辺は、数年前から織田家の監視下に置かれている。荒木村重が逃げ込む可能性があったからだ! 事実、家臣を匿っていた事も直ぐに察知してみせた。その折り、荒木村重が高野山に居ない事も調査済みだ! 貴様が、荒木村重本人の筈が無いっ!! 」

「……ふん。簡単な事よ。俺が高野山へ入ったのは、ほんの一年前の事。織田家が混乱している隙を突いただけの事よ。一度確認したからであろうなぁ。闇夜に紛れて忍び込むのは、実に容易く終わったものよ」

 一年前……明智光秀が謀反を起こした時期と重なる。あの混乱の最中に動いたとすれば、一応辻褄は合う。

「荒木村重は、毛利領に居ると思っていたのだがな」

「はぁ? 俺を裏切った連中の所へ逃げ込む訳ねぇだろうが。論外だ、論外。戦況も確かめてみたが、明らかに羽柴軍に押されていたからな。むざむざ、己の首を差し出すような愚行はせんよ」

「……成程な」

 荒木の言葉で、ようやく一連の謎が解かれた。

 当初、織田家では荒木村重の所在は毛利領だと睨んでいた。それ以外の花隈城からの逃亡先を全て潰していたから。しかし、毛利家が降伏した事によって事態は一転、毛利家は荒木村重の所在を知らなかったのだ。故に、荒木村重捜索は未だに続いていた。

 だが、そもそも荒木村重は毛利領へ向かっておらず、人里離れた場所で身を隠していたなら納得はいく。



 ――そして、あのように躊躇無く十にも満たない幼子を人質に取れた訳もな。



 ふつふつと湧く怒り。先程までの発言と行動で、この男が本物の荒木村重である確信は得た。ならば、どうしても聞かねばならない事がある。

「貴様は、何も思わなかったのか…………」

「何をだ? 」

「貴様が見殺しにした有岡城の者達の事だ! 」

 身に覚えが無い。そう言わんばかりの態度に、思わず声を荒らげる。私は、荒木村重と織田家の確執に詳しい訳では無い。寧ろ、無関係と言えよう。

 しかし、あのような非道極まりない行いをしておいて、反省するどころか、今も幼子を人質にしているその性根が許せなかった。

「主君を裏切り、己が命が助かりたいが為に妻子を捨てて逃げる愚行。ましてや、腹を斬り織田様へ詫びれば助かった人質六百余名を見捨て、花隈城の戦いでは己を匿ってくれた者達をも見捨てて我先に逃げ出した。……貴様は、この行いを一切恥じていないのか! 何故貴様は、今捕らえているような力無き幼子を平気で虐げられるのだ!! 答えろ!! 荒木村重っ!! 」

 魂の絶叫。槍を持たぬ左手で指差しながら吐き捨てる。織田様による再三にわたる救いの手を払いのけ、己の命のみに固執した卑劣な行いを悔い改めよ……と。



 されど、この男には既に何も届かない。

「だからどうした。この餓鬼のような使えない屑の命で、この俺の命が救えるのだ。この餓鬼も本望であろう? 何の価値の無い人生に、ようやく人の役に立てる機会をくれてやったのだ。寧ろ、礼を言うのが筋であろう。ましてや、妻・孫・侍女・従者は主君に命を捧げるモノ。今、こうして主君が生き長らえている事を、黄泉の国で喜んでいるだろうよ」

 歪んだ笑みを浮かべるその様は、まさに悪鬼そのものであった。





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