22話
天正十一年 九月 紀伊国 真田信繁
大地を揺らす衝撃に耐えかね、思わず片膝をついて顔を伏せる。次に聞こえてきたのは、一斉に飛び立つ鳥の羽音であり、何かが爆発したかのような衝撃音であった。
「い、一体全体何が起こったんだっ!? 」
突然の出来事に動揺しながらも、直ぐに顔を上げて周囲を伺う。地震か、火事か、雷か。その答えは、直ぐ目の前に広がっていた。
燃えるような赫。天高く昇っていく黒煙。我先にと逃げ惑う鳥達に、悲鳴のような絶叫が響き渡る。この状況から察するに、これは間違いなく火事だろう。
(火の不始末か……時間帯から察するに、朝餉の支度をしていたのか……)
忌々しげに黒煙を見詰める。理由はどうあれ、あの火事が計画に大きな支障をきたすのは明らかだったから。
しかし、直ぐにそんな考えは私の中から消えていき、代わりに冷たい冷や汗が頬を撫でた。
そう……気付いてしまったのだ。あの黒煙が何処から発生しているのかを。あの方角に、何があるのかを。
「あれは……高野山の方角だ……」
私は、呆然としながらその名を呟いた。
***
呆然としながら黒煙を眺めていると、不意に足元から小枝を折る音が聞こえた。
「…………っ! 」
視線の先には折れた小枝と、後退った足跡と思わしき痕跡。どうやら、無意識のうちに後退り、小枝を折ってしまったらしい。
だが、そのおかげで正気に戻る事が出来た。
「誰かっ! 誰か居ないかっ!!! 」
周りを見渡しながら人影を探す。すると、後方より息を切らしながら駆け寄ってくる男の姿が見えた。
男は、必死の形相で私のもとまで辿り着くと、ひぃーひぃー息を吐きながら膝に手をついた。
「さ、真田殿! ひ、火が……火が……っ! 」
「んん…………まぁ、とにかく落ち着きなさい」
その慌てふためいていた挙動を見ていると、何故だか途端に冷静さを取り戻せた。どうやら、人と言うのは己より感情的な人間を見ると、一周回って落ち着けるらしい。井戸から水を汲むと、桶ごと彼に手渡してあげた。
その直後、何を思ったのか彼は桶の水を頭から被ってしまった。
「…………は? 」
あまりにも予想外過ぎる行動に唖然としていると、彼は先程の醜態が嘘のような凛々しい顔付きへと変わっていた。……彼にとっては、アレで正解だったらしい。
「報告っ! 高野山真言宗の境内より、火の手が上がり始めました! 原因は不明! 木々は燃えておらず、本堂を中心に火の手が広がっております! 現在、僧侶は総出で火消しに追われているとの事! 」
「情報元は? 」
「はっ! 高野山真言宗を監視していた物見の一人にございます。身元も確かな者であり、複数名で名簿を確認した結果、顔と名前が一致しましたので信憑性は高いでしょう。私も、この目でしかと確認致しました。間違いなく私共が用意した物見にございます! 」
「……そうか」
深々と平伏しながら報告する男を後目に、顎に手を添えながら考えをまとめる。
先ず大前提だけど、この男は間違いなく味方だ。名前は……確か六郎だったか。粉河衆の中位くらいの立場だった筈だ。見覚えがある。
ならば、先程言っていた物見の報告も信じて良いだろう。身元を複数名で確認したのならば偽装も出来ないし、物見が一人だけ帰って来た事も信憑性を高める要因の一つ。
火災発生から逆算して、等間隔で配置された物見が粉河寺まで伝令に走るならば、一人で無くては可笑しいからね。あの爆発は、火災発生から暫く経って火薬に引火したのだろう。武器庫は、総じて本堂から離された所にあるから間違いない。
そして、これは推測だけれど十中八九真実だと確信している。……あの火事は放火だ。事故や自然発火では無い。誰かが、悪意を持って境内の建物に火をつけたのだろう。
だって、運良く木々に燃え移らず建物だけが燃えるなんて都合が良すぎる。あの場所は、山のど真ん中だぞ! 故意でもなければ有り得ない。
これでは、私達が攻め込めるように誰かが隙を作ったようでは無いか。
だけど――
「それを見逃せる程…………戦場は甘くないっ」
歯を食いしばり呟く。誰の思惑か分からないし、これが罠では無い保証も無い。だけど、高野山真言宗が混乱の最中にあるのは確かであり、今が攻め込む千載一遇の好機なのも否定出来ない。
一軍を預かる将として、気に食わないと言う私情を優先する事は有ってはならない。
「真田殿? 」
私の呟きを微かに拾ったのか、六郎が首を傾げてこちらへ視線を向ける。その視線を振り払うように、私は本堂へと足を進めた。
「皆は、既に集まっているのか? 」
「ははっ! 皆様、本堂にて真田殿をお待ちしております! 」
「……そうか。御苦労であった。直ぐに出陣する。貴殿も、戦支度を済ませるが良い」
「ははっ! 承知致しました。失礼致します!」
手短に別れを済ませると、早足で本堂へと向かう。六郎は、重要な情報を速やかに報告してくれた。部下として当然の行動だけど、そのおかげで迅速に対応出来る。
本当ならば、もっとしっかり礼を言いたかったけど、今は時間が惜しい。その事を理解しているのか、六郎も足早に持ち場へと戻った。
非常に聡明な男。この戦が終わったら、是非とも召し抱えたい。そう思いながら本堂へと続く扉を開け放った。
***
幸い、私が居た井戸から本堂は差程離れておらず直ぐに辿り着いた。一同庭先に集まっており、姿を現した私へ一斉に視線を向ける。
「すまない。少し待たせてしまった」
軽く頭を下げると、一人の男が前へと出る。粉河衆の代表者だ。
「して、いかが致しましょうか? 」
「出陣する」
『…………っ!? 』
主語は無い。だが、言わんとする事を察した私は、即座に答えた。その答えに、一同驚愕の眼差しを向けてくる。
「し、しかし……山で火事が起きているのですよ? ここは、一旦避難するべきでは? 」
「だが、それではこの千載一遇の機会をみすみす逃す事になる」
「…………」
私の言葉に思う事があるのか押し黙る男。それを横目に、私は槍を天高く掲げた。
「聞け! 一騎当千の兵共よ! 先の火事は、木々に燃え移らず建物のみを焼いている。即ち、この炎は神仏が高野山真言宗へ下した罰である! 奴等の罪を浄化する聖火であるのだ!! 」
『…………っ!! 』
ざわめきが広がる。
「奴等は、仏の教えを踏みにじり外道へと堕ちた。信徒を導かず。力無き民を虐げ。酒を飲み。女を漁り。子を売り飛ばす。まさに外道だ!! 畜生にも劣る罪深き獣。その行いは、神仏の逆鱗に触れて然るべき所業。あの聖火は、その証である!! 」
槍を黒煙の方へと向けると、一同一斉にそちらへと身体を向ける。高揚感からか、誰もが頬を熱くして利き手を握り締めていた。
それを煽るように宣言をする。
「先の大戦において、近江守様の危機に神仏は雷を降らせて窮地を救った。彼の御方は、神に愛された。この日ノ本に安寧の世を築く器であると認められたのだ! そして、神仏は高野山真言宗こそが安寧の世を遠ざける悪だと聖火にて印された! 大義は我等に有り!! 我が同胞達よ。苦しむ民を救う為に、あの不届き者へ天誅を下すのだ!!! 」
『ぉぉぉおおぉおおぉぉぉおぉおおおっ!!! 』
誰もが腕を掲げながら叫ぶ。士気は最高潮にまで達し、誰もが正道を成す自分自身に酔いしれる。幼き頃に思い描いた英雄への道がそこにあったからだ。
「いざ、出陣っ!!! 」
お膳立てされた道をただただ進む。
そんな奇妙な感覚を覚えながらも、それを振り払うように私は高野山へと足を進めた。