20話
天正十一年 八月 安土 真田信繁
朱槍を片手に豪快な笑い声を上げる慶次殿の姿に肩を落としていると、慶次殿は不意に腰を下ろして手招きをしてきた。
「その様子じゃあ結構苦労したみてぇだなぁ? 水を分けてやっからこっちに来い。少しぐらいゆっくりしても構わんだろ? 」
「は、はぁ……? そうですね……では、お言葉に甘えさせていただきます」
何処か歯切れ悪い言い回しに首を傾げながらも、「確かに、そろそろ竹筒に入れていた水の残量が心もとないな」と思い、行為に甘えるかたちで側へ寄る。
すると、慶次殿は手際良く自分の竹筒から水を分けて下さった。その様子を座りながら眺めていると、不意に慶次殿がそわそわと挙動不審になる。
その様子に首を傾げていると、慶次殿は視線を天井に向けながらもこちらを気遣うような口調で話し始めた。
「あぁ〜なんだ……少しは気が楽になったか? お前さん、紀伊国から帰ってから目に見えて顔色悪かったからなぁ」
思わず顔を伏せる。
「……えぇ、まぁ」
「身売りでも見ちまったか? 」
「…………っ!? 」
慶次殿の核心を突く言葉に勢い良く顔を上げる。すると、そんな俺の様子に全てを悟ったのか、慶次殿は乱暴に頭をかいた。
「やっぱり……か。お前さんは、ちとばかし世間知らずだからなぁ。そういう知識はあれど、実際に見た事無ければそりゃ驚くわなぁ」
慶次殿の言葉は、私の心の柔らかい所を的確に切り裂いた。されど、慶次殿に対する怒りは無く、ただただ自身の不甲斐なさに打ちのめされた。
そんな俺の頭を、慶次殿は乱暴に撫でる。
「ぅわっ!? 」
「カッカッカッ! そんな顔すんな! 別に、源二郎を責めるつもりはねぇよ。……親父さんが、どんな思いでお前さんを教育したのかは知らねぇ。だから、あんま知ったような事は言えねぇけどよ。お前さんは次男坊で家を継ぐ訳じゃねぇし、真っ直ぐで善良な性格だからな。こういった汚い所を経験したら、きっと深く傷付くと思ったのかも知れんなぁ……」
「…………」
「だけどな。身売りを強要された子供を見て、眉一つ動かせねぇ奴は性根の腐った屑だ。人として、決してあっちゃなんねぇ在り方よぉ! ……だから、お前さんは何一つ間違っちゃいねぇ。俺が、保証してやらぁ!! 」
「……はい。ありがとうございますっ」
豪快に笑いながら胸を張る慶次殿に、自然と胸が軽くなっていった。その姿を見るだけで、胸の奥から気力が湧き上がってくる。
やはり、慶次殿は尊敬に値する御仁であった。
そんな尊敬の念が伝わってしまったのか、慶次殿は咳払いしながら視線を逸らす。
「んんっ! ……まぁ、なんだ。気が晴れたのなら良かったわ。正直に言うと、昨日のお前さんは見ていられなくてなぁ。自分の無力に嘆く気持ちは、俺も良く知っているからよぉ……」
遠くを見詰めるその眼差しに、思わず息を呑む。そこには、確かな愁いの色が伺えた。
「源二郎が知ってるか分からないが、俺は若い頃はやんちゃな糞餓鬼でなぁ。何かに縛られるのが耐え切れなかった俺は、自分の気の赴くままに家を飛び出して、日ノ本中を旅して回った。そこで、色んな事を体験した。血の尊さは、決してその人の尊さでは無いこと。身分に限らず善良な人間もいれば悪に染まった人間もいること。……そして、この世は力が無ければ何にも救えないって事もな」
その寂しそうな声音に、脳裏をとある仮説が過ぎる。
「…………慶次殿は、知っていたのですか? 高野山が、あのような人道を外れた愚行をしていた事を」
俯きながら尋ねると、慶次殿は一度だけ瞳を閉じた後に静かに口を開いた。
「あぁ……知っていた」
その声音は、険しい表情とは裏腹にどこまでも深い悲しみに満ちていた。
「毎年毎年、紀伊国とその近隣諸国では、多くの歳若い女子が忽然と姿を消し、多くの親を持たぬ童が商人に売買されている事実を。恐怖で身を縮める近隣の村人の様子を。汚い金で肥え太った糞坊主の事を。俺は、全て知っていた。……だが、あの糞坊主共が首謀者だって言う確固たる証拠を最後まで見付ける事が出来なかったっ! 」
慶次殿は、右手を力強く握り締めながら地面を叩き付ける。鈍い音。傷から垂れる鮮血。苦悶の表情を浮かべる慶次殿。
それは、とある一人の男の懺悔だった。
慶次殿は、昔を思い出すように天井を見上げた。
「源二郎も知っている通り、女子供の人身売買や身売りは、この日ノ本で有り触れた悲劇だ。俺は、日ノ本中を旅する中で、数え切れない程にその光景を目の当たりにしてきた。無論、目の前で行われた非道を見逃したりはしねぇ。そん時は、この槍で借金取り共を蹴散らしてきた。……だが、そんなモノ何の意味も無かった。根本を叩かなけりゃあ、その場しのぎに過ぎねぇんだ。そんな当たり前の事に、俺は何年も気付けなかったっ! 」
慶次殿は、吐き捨てるように言うと右手を額に叩き付けた。先程負った傷跡から、止めどなく血が垂れている。
(せめて応急処置だけでも……)
その一心で一歩詰め寄ると、不意に慶次殿から溢れていた暗い気配が消えていった。
「慶次……殿? 」
不思議に思った私が問いかけると、慶次殿は少々恥ずかしそうに頬をかいていた。
「あぁ〜悪い。本当は、こんな事言う筈じゃ無かったんだがな。ちと気が昂っていたらしい」
すると、慶次殿は私と向き合うように座り直し、真剣な眼差しで私を見詰めた。
「俺も小童も、奴等の所業を許す事は出来ねぇ。断罪の機会をずっと伺っていた。しかし、狡猾な奴等は一向に尻尾を見せず、俺達はいつも歯痒い思いを味わっていた。……だが、それも今日で終わりだ。源二郎が掴んだ情報は、まさに俺達が待ち望んでいたモノだった。その事実があるならば、間違いなくアレがあるからなぁ。だから……ありがとう、源二郎」
「そんな……俺は……何も…………っ」
いつに無く真剣な表情で頭を下げる慶次殿に、私は思わず言葉に詰まった。本当に、私なんかがそんな称賛される権利があるのかと思った。
しかし、慶次殿はそんな不安は杞憂だと言わんばかりに立ち上がると、奥の蔵へと歩き出した。その後を、戸惑いながらもついていく。
すると、蔵の鍵を解除しながら慶次殿は呟いた。
「そう言えば……小童との出会いは、借金取り共との騒動の現場だったなぁ。口先だけかと思ったが、自分が使えるモノ全部使って解決しやがった。あの娘は、今では安土で茶屋を開いている。ほら! あの有名な看板娘さぁ」
大きな音と共に一つ目の鍵が外れる。
「あの小童が、まさか天下に轟く織田家の嫡男たぁなぁ〜心底驚いたもんさ。そん時の俺は、御上は道草のもんなんざぁ興味が無いって思ってたからな。……愚かな話だ。身分に限らず善良な人間もいれば悪に染まった人間もいるって事。若い頃は、分かっていた筈だったのによぉ……」
大きな音と共に二つ目の鍵が外れる。
「……だから、民に心から寄り添えるその魂の輝きに、俺は可能性を見たんだ。この小童が、この正しさを失わずに成長出来たのならば、皆が笑顔で暮らせる……そんな日々が来るんじゃないかって」
――今思えば、アレは運命だったのだろうなぁ。
大きな音と共に最後の鍵が外れる。ギィギィと錆びた鉄の音が響き渡り、思わず顔を顰める。
しかし、それは直ぐに驚愕の表情で塗りつぶされた。そこにあったモノは、太刀・槍・弓矢・鉄砲・甲冑といった武具に始まり、兵糧やソレ等を運ぶ荷台等が完璧に整備された状態で並べられていた。
そう……これは、まさしく戦支度である。
「こ、これは……っ!? 」
動揺する私の肩を、慶次殿が力強く抱く。
「小童は、いざって時の為に戦支度を整えていた。そして、赤鬼隊総勢三千五百の中から、防衛を除いた二千の兵士を源二郎に預けるとまで言っている。敵地は、大軍が展開しにくい上に大軍を動かせば察知されやすい。二千って数字は、この蓄えから見ても絶妙な数だ。良く考えられている」
慶次殿の口から次々と発せられる言葉に、胸の奥から熱い思いが込み上げてくる。
こんなにも、私にとって都合が良い事が起こるのかと思った。しかし、目の前にある武具は一向に消える気配は無く、肩を抱く慶次殿から伝わる熱は幻何かじゃ無かった。
ならば、殿が私に二千の兵を預けて下さると言う指示も事実なのだろう。それを自覚した途端、自然と涙が溢れてきた
「……殿っ…………忝のぅございますっ! 」
歓喜に震える身体を、慶次殿が無理矢理自分の方へと向かせた。少々痛みが走ったが、真剣な眼差しを向ける慶次殿の前では何も言えなかった。
「今一度、源二郎に問う。お前さんは、何の為に戦う。その戦いの果てに何を願う」
有無を言わせぬ剣幕。しかし、私の答えは既に出ていた。
「私は、あの童を救う為に戦う。全てに絶望したその瞳に、今一度光を灯してあげたい。この世は、まだ希望が残っているのだと伝えたい! 誰かを護る為に槍を振う。そうすれば、少しでも殿の想いが理解出来るかもしれない。私は、あの御方の理想を理解した上で戦いたいんだ!! それが、私が戦いの果てに願うことだ!!! 」
私の誓いの言葉が洞窟内に響き渡る。
支離滅裂で理解不能。私欲全開の傲慢な考え。だが、何故だか言い切った瞬間に胸の奥に渦巻いていた黒い染みが無くなっていた。
そして、そんな私の誓いを聞き届けた慶次殿は、豪快に笑いながら頷いた。
「カッカッカッ! 良いじゃねぇか! そんぐらいの欲張りじゃねぇと、お前さんが救いたいもんは救えねぇ。ここで、大義だ何だ言ってたらぶん殴ってたぜ! てめぇの為に戦えない人間に、誰かの命を背負う資格はねぇ!! だから、お前さんは間違っちゃいねぇよ。……行って来い、源二郎っ!!! 」
「……っ! はいっ! 行ってきますっ!! 」
私は、そう力強く宣言をする。そこには、もうあの時の悩める姿は何処にも無かった。
***
殿は、私の心の在り方を嬉しいと喜んで下さった。慶次殿は、私の心の在り方を正しいと認めて下さった。
二人の尊敬する方々からの言葉は、暖かく私の心へ降り注いだ。荒れ果て、無惨な荒野と化したソレは、今ゆっくりと動き出していた。
揺らいでいた地面を固め、崩れた心を治し、新たなカタチへと変わっていく。壊れたモノは、二度と元には戻らない。失ったモノは返ってこない。
――だけど、生まれ変わる事は出来る。
胸に右手を添える。伝わってくる小さな鼓動は、確かに前へと足を踏み出しだ証だった。
***
そして、天正十一年九月一日。
私達と高野山真言宗との戦いが始まった。




