18話
天正十一年 八月 安土城 真田信繁
私が安土城へ帰還した時には、既に秋の気配が肌で感じられる夏の終わり頃だった。
同行者は居らず、私一人のみの帰還。高野山からの監視がある以上、雑賀殿は雑賀荘から出る事は叶わなかった。
……否、目を背けるのはよそう。
私は、あの童をあの場所に置き去りにした。あの場所に居れば、あの子はもっと酷い目に……っ。それを分かっていながら、私は何も出来ずに立ち去る他無かった。
――私は、どうすれば良かったんだ。
それだけが、今も胸の奥に渦巻いている。
***
近江守様への拝謁は、私が帰還した翌日に叶った。正直、心底ありがたかった。一晩あれば、少しは気持ちが切り替えられる。
ただただ、近江守様の配慮に感謝した。
翌日、近江守様の遣いとして白百合の方が訪れ、私を城まで案内して下さった。通された場所は、大広間でも評定の間でも無い。なんと、安土城の最上階天守へ通されたのだ。
「え? あ……ぁ……ぅえ? 」
思わず視線を泳がせながら、ここまで案内して下さった白百合の方を見る。しかし、彼女は一切動じた様子も見せない。その姿は、さも私がこの場所に……天守に通されるのが当然だと言っているようにも思えた。
「あの……本当に、この場所であっているのでしょうか? 」
「はい。我が君より、真田様を天守までお連れするように申し付けられております故」
恐る恐る尋ねるも即答されてしまう。どうやら間違えでは無いらしい。その事実に、思わず頭が痛くなってしまった。
天守とは、近江守様が住もう場所。織田家家中の者達でも、殆どの者が一度も訪れずに生涯を終えてもおかしくは無い。重臣様でさえ、この場所に訪れた方は少ないだろう。
つまり、それ程までに天守とは織田家の象徴であり、軽々しく扱ってはならぬ代物。私のような若輩者には場違い過ぎるのだ!
(あぁ……これでまた、重臣の方々からの圧が強くなるのだろうなぁ。胃が痛くなってきた)
しくしく痛む腹を押さえていると、そんな私を気にも止めずに白百合の方が襖へと近付く。
「我が君、椿にございます。真田様をお連れ致しました」
「…………良い」
「御意」
椿殿は短く返事をすると、静かに襖を開ける。慌てて襖の前で平伏すると、部屋の奥から近江守様の声が聞こえた。
「おかえり、源二郎。良く戻って来たね。さぁ、中へお入り? 」
「ははっ」
無礼の無いように低姿勢のまま部屋へ入ると、静かに近江守様の前で平伏する。少し見上げると、優し気な微笑みを浮かべる近江守様の姿があった。
「さぁ、話しておくれ? 源二郎が見た高野山の現状を」
その耳触りの良い声音に促されるままに、私はゆっくりと顔を上げた。
***
それから私は、紀伊国の現状と高野山での出来事を全て話した。近江守様は、私が想像している以上に聞き上手なのか、その都度最適な相槌を打たれ、気付けば夢中になって語り尽くしていた。
「――そして私は紀伊国を出発し、この安土へと帰還致しました。雑賀殿は、このまま雑賀荘にて準備を進めるとの事。報告は、以上にございます」
「……うん。分かった。源二郎、ご苦労さま」
「ははっ」
近江守様の労いのお言葉に、深々と頭を下げて応える。そのたった一言で、今の今まで渦巻いていた感情が薄れていくのを感じた。
しかし、そんな私とは対照的に近江守様の顔は晴れない。
「しかし……そうか。高野山は、そこまで堕ちていたんだね。教えは正しくとも、説く者が正しいとは限らない。人の業……否、人が人であるが故の在り方なんだろうね」
「…………」
寂しそうに俯かれる近江守様。その御姿に、不敬だと分かっていながらも、あの童の姿が重なる。
脳裏を過ぎるのは、あの痛ましい童の姿。感情を無くしてしまった童の姿。私は……私は……「源二郎」
近江守様の声に、俯いていた顔を上げる。その慈愛に満ちた微笑みを見ていると、何故だか胸の奥が締め付けられるような痛みが走り、自然と口を開いていた。
「高野山では、十にも満たない童が客人の相手をするように躾られております。おそらく、境内に女を連れ込み子を産ませているのかと」
「……根拠はあるのかい? 」
流石にソレは想定外だったのか、一瞬言い淀む近江守様。
「ははっ。私が、高野山で一泊した際に、未だ幼い童が寝床へとやって参りました。その際、他にも同じ境遇の童がいる事。日常的にその人数が変動している事。そして、その童に刻まれたおびただしい傷跡が、その全てを裏付けるに値すると愚考致します」
「…………であるか」
思わず口元を押さえる近江守様。その眼差しは、悲しみに満ちていた。
近江守様は、暫く考え込んでいると、不意に立ち上がり奥の襖を開けた。
「ついてきなさい」
「……ははっ」
慌てて近江守様の後を追い部屋を出る。辺りを見回すと、雪殿に抱えられて階段を登る御姿が。
(よもや、この先があったとは知らなかった)
心の中で感嘆の声を上げると、少しだけ胸を高鳴らせながら階段を登る。最初に見えたのは、見たことも無い置き物と、漆塗りに金箔で彩られた豪華絢爛な部屋。
「こ、これはっ! 」
派手さと雅さが紙一重で重なり合った一室。少しでも均衡が崩れれば、即座に下品な三流の一室へと転げ落ちるだろう。邪魔かと思っていた木の置き物も、こうして見れば此処にしか無い絶妙な配置に思えた。
思わず圧倒されながら立ち尽くしていると、奥の方から声が聞こえた。
「…………源二郎、早く来なさい」
「……っ! は、ははっ! 」
そこで正気に戻ると、直ぐに近江守様の元へと向かう。光を抜けた先には、私に背を向けられる近江守様と、息を呑む絶景が広がっていた。
「これが……近江守様が見られている景色」
透き通るような青空に、それを彩る入道雲。輝く水面を幾十の舟が疾走し、城下からは民達の活気溢れる声が聞こえるよう。
日ノ本で、最も栄える城下町『安土』
近江守様が、先代様より引き継いだ宝。その美しさに圧倒されていると、近江守様が私の横へと立たれた。
「此処に来ると、まるで自分自身が神にでもなったかのような錯覚に陥る事がある。実に……実に愚かなことだよ。余は、そのような力など無いと言うのに……」
「それは違います! 民にとって、近江守様は正しく神にございます! 飢える事も無く、突然家族を失う事も無く、理不尽な暴力を振るわれる事も無く、誰もが笑顔を浮かべ……て……」
段々と声が掠れていき、遂には両手を握り締めながら俯いてしまう。それは、まるで懺悔のようにゆっくりと吐き出された。
あぁ、そうだ。近江守様なら、あの童を救えただろう。このような理想郷を築いた御方ならば、小さな童一人救うのも容易いだろう。あのような豪華絢爛な部屋を作れる財力があれば、何だって出来るだろう。
私は何も出来ない。
震える両手を見る。こんなちっぽけな細腕では、散りゆく命一つすら抱けない。私は、私は……あまりにも無力だ。
そんな震える両手を、近江守様は優しく包み込んだ。
「私とて、救えぬ命があった。救えなかった命があった。救わなかった命があった。私が、本当に神であったならどんなに良かっただろうか。全てを救う万能の力があれば、どれだけ良かっただろうか」
「近江守様っ」
ソレに込められた悲痛な叫びに、思わず顔を上げた。私は、とんだ思い違いをしていた。とんだ馬鹿野郎だ。誰かを救える力があれば、それと同等以上に救えなかった命も見てきた筈だ。
この御方もまた、幼き身の上で理不尽に肉親を亡くしていたでは無いか!
それを私は――「だがね。余は嬉しいよ。源二郎が、誰かを救いたいと、身内以外のたった一度あっただけの童を救いたいと願えた事が」
「ぇ……」
私の懺悔を遮るようにかけられた言葉に、思わず近江守様へ視線を向ける。そこには、私の無礼など一切気にしていないように微笑まれる御姿があった。
「その想いは、人ならば誰もが持ち合わせていた力であり、絶えぬ戦によって失われてしまった宝だ。最早この乱世では、利の無い相手にかける情は無いに等しい。故に、源二郎よ。そなたが抱いた葛藤は間違っていない。何よりも美しいモノだよ」
近江守様の手が、私の両手から離れて頬へと添えられた。手の震えは、いつの間にか無くなっていた。
「人は動かねば何も得られない。己の願いから目を背けては前には進めない。誰かを救いたいと願う無垢な想いに対し、利や益を求めるのは不粋であろう」
――では、源二郎よ。願いを聞こう。
近江守様の声音は、ゆっくりと私の中へと入っていき厳重に閉ざされた扉を開いてみせた。
「あの子を……救いたいっ」
そんな一言を聞き、近江守様は深く頷かれた。
「では、主として臣下の願いを聞き届けよう」
この時、私はようやく殿の臣へとなれた気がした。




