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17話

 天正十一年 八月

 紀伊国 高野山 総本山金剛峯寺 真田信繁



 陽はとうの昔に地平の彼方へと沈み、僅かな灯りのみが二つの人影を映し出す。今は、おおよそ亥の刻と言ったところだろうか。こんな夜中に先触れも無く部屋に訪れた者に対し、私は当然の事ながら臨戦態勢へ入った。

 しかし、襖を開けて入って来た者は、未だ十にも満たない風貌の童。微塵も殺気の類いも感じぬその佇まいに、誤って迷い込んだ寺の子供かと警戒を解いた。

「童よ。ここは客間だぞ? 寺の者達に見付かれば、きっとお叱りを受けよう。ほら、私は黙っておくから、早く自分の部屋へ戻りなさい」

 念の為左手で鞘を持ちながらも、片膝をついて童と視線を合わせる。童が怖がらぬように、出来るだけ声を和らげながら。



 しかし、童は何を思ったのか後ろを振り向いて襖を閉めてしまった。

「おいおい……一体何をして……」

 思わず伸びる右手。されど、何の偶然か、振り返った童を照らすように月の光が隙間から差し込み、童の姿を明確に映し出してしまった事で、私の手は止まってしまった。

「そなた、その瞳は……」

 月明かりに照らされた童の顔。生気の無い薄らとした表情に、痩せこけた頬。そして、その瞳は何も映していない。

『虚無』

 そんな言葉が、一番相応しいと思ってしまう程に、その瞳には希望の焔は灯っていなかった。



 ――そう……まるで、この世の理不尽を一心に受け、心が砕けてしまったかのように。



 賊に荒らされた村の光景が脳裏を過ぎり、私は童に何も言えずに中途半端に伸ばした右手がゆらゆらと揺れる。そんな私の動揺は知った事かと、童は手慣れたように着物を脱ぎ去る。

「…………っ! 」

 一歩後退り、息を呑む。丁度、下半身を隠すようにはだけた姿は、童が歩んできた人生の全てを悟るのに充分過ぎる情報量であった。

 正確には、刻まれていた……が正しいだろう。

 あばら骨が浮き出すまで痩せ細った華奢な身体。全身に刻まれた刺し傷。所々黒ずんだ染み。歪んだ四肢。割れて血が滲んだ爪。首筋に付けられた歯型。

 そのどれもが、明らかに常軌を逸しており、昨日今日で付けられたモノでは無い事は素人目でも分かった。この童は、日常的にこのような仕打ちを受けているのだと、決して認めたく無い事実を私は認めざるを得無かった。



 ――あまりにもおぞましい姿であった。



 しかし、直ぐに正気に戻ると、私は慌てて童に駆け寄り、下半身にまで滑り落ちた着物を手に取る。

「と、とにかく隠しなさい。ほら。しっかりもっ……て……」

 そこで初めて気が付いた。童が着ていた着物が、質素と言うにはあまりにも粗悪な代物だと言うことに。

 確かに、高野山は表向きは清廉潔白な真言宗の総本山である。故に、寺の子供とは言え、人目があるところで立派な着物を着れぬだろう。織田家のような財力も無いのだ。

 だが……だが、この童の着物はあまりにも粗悪過ぎる。言うなれば、何十年も使い古した布切れ。このおびただしい身体の傷を、周りから隠す為に羽織っただけと言えた。

 その童が、光も通さぬ瞳を向けながら小さく呟いた。

「どうぞ、ご自由にお使い下さい」

「…………っ! 」

 その一言には、一切の感情が込められていなかった。ただいつも通りに、同じ言葉を繰り返すように、抑揚の無い口調で言ったのだ。

 その瞬間、何故だか涙が込み上げてきた。

 震える手を必死に動かして、童に私の羽織を着させる。途中、童は不思議そうに私を見詰めてきたが、特に何も言うことは無く私に身を委ねていた。



 少し手間取ったが、何とか童に羽織を着させる事が出来た。やや不格好ではあるが、先程よりは幾らか見られるようになったと思う。

 視線を童に合わせながら、その頬を優しく撫でる。

「そなた、名は何と申す? 」

 その問いは、特に意味のあるものでは無い。よくある会話の切っ掛けに過ぎなかった。されど、ソレはあまりにも軽率だった。

「はい。名はありません」

 息を呑む。

「名が……無い? では、親は……」

「はい。親は知りません。私は、このお寺で生まれたそうですが、生まれた年も分かりません。ずっと、皆と一緒に過ごして来ました」

 最悪の想定が脳裏を過ぎる。

「……皆とは、どれ程の数がいるのだ? 」

「はい。分かりません」

「分からない? あぁ、数の数え方が分からないのか? 」

「はい。数の数え方は教わりました。ただ、数日経てば数字が変わりますので、もう数える事は止めました」

「…………そうかっ…………そうかっ」

 裾を力強く握り締めながら俯く。



 肯定しか出来ない童。寺生まれ寺育ち。同じ場所で過ごす皆。人数では無く数字。一つ一つの要素が一本の線で結ばれ答えを導き出す。

 ……いや、こんな簡単な事は誰だろうと気付ける。父上であれば、この童を見た途端に全てを見破っただろう。私はただ、ソレを認めたくなかっただけだ。

 あまりにも情けない心の在り方に打ちのめされていると、不意に目の前の童が身を縮めて頭を下げた。

「私は、貴方様の慰みモノになるようにと申し付けられております。このまま帰れば、激しい折檻が待っております。どうか、この哀れな童にお情けを」

「…………」

 もう、何も言えなかった。

 きっと、この童の申した事は事実なのだろう。そして、私のようにソレを渋った者達へ、こう言えと教え込まれているのだろう。

 これはきっと、高野山だけで行われてはいない。噂では聞いた事もあった。ただ、私はその実態を知らな過ぎたのだ。

 その事を、嫌になる程に実感させられた。



 私は、童を抱き寄せると布団へ寝かせる。

「あの……」

 光の無い瞳が向けられる。私は、その瞳を見詰めながら強い口調で命令を下す。

「ここで寝なさい。命令だ」

「はい。分かりました」

 すると、童は抵抗する事も無く眠りについた。その様子を、私は朝になるまで見守っていた。



 安土に着いたのは、それから十日後の事だ。




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