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16話

 天正十一年 八月

 紀伊国 高野山 総本山金剛峯寺 真田信繁



 あれから八日後、私達は遂に高野山へと足を踏み入れた。山に囲まれたこの場所は、夏の日差しを和らげるように涼やかな風が吹いており、何だか神秘的な雰囲気に満ちていた。

 そんな物珍しい光景に辺りを見渡していると、前方を歩く雑賀殿から声がかかる。

「何をしているのですか? 早く来なさい」

「ぁ……は、はい! 」

 慌てて駆け寄ると、雑賀殿は声を落として耳打ちしてきた。

「既に、この場所は真言宗の領土です。一山境内地と言うのですが、この高野山そのモノが真言宗の境内なのです。当然の事ながら、至るところに監視の目があります。ですので、片時も気を緩めてはなりませんよ」

「……ははっ」

 その真剣な声音に小さく頷いて返す。今一度、緩んだ気を引き締め直して、先を行く雑賀殿の後に続く。

 晴れやかな青空と小鳥のさえずりが聞こえる境内は、嫌な静けさで満ちていた。



 暫く歩いていると、前方に風情溢れる大門が見えてきた。その前には、私達を待つように一人の僧が立っている。

「鈴木様、お久しゅうございます。本日は、この鎮海が案内人を務めさせていただきます」

 深々と頭を下げる鎮海氏に対し、雑賀殿はにこやかな笑みを浮かびながら近付いて行く。

「これはこれは、鎮海殿お久しゅうございます。先日は、大変お世話になり申した。こちらは、その礼にございます」

 そう言って懐から厚みのある袋を取り出すと、鎮海氏に握らせる。すると、鎮海氏が中身を探るように何度かソレを握り締め、その感触に満足したのか満面の笑みを浮かべた。

「ややっ! これはこれは、誠に有り難きこと。鈴木様は、まさに敬虔な信徒の鏡ですな。その真摯な御心、確かに承りましたぞ」

 鎮海氏は、ごく自然な動きでソレを仕舞うと半身になって先を促すような仕草を見せる。それはつまり、このように不当な金品の受け渡しが常日頃から行われている事に他ならない。

 思わず眉を細めてしまうと、雑賀殿が一瞬だけこちらを見た。その視線で我に返ると、一度だけ深呼吸をして気を整える。

 今、私が不満を顕にしても損でしかない。雑賀殿とて、必要経費だと割り切っているのだ。ただ私は、近江守様への報告事項が増えたとだけ考えれば良い。



 ただ……古の偉人足る弘法大師が説いた真言宗。ここは、その総本山なのだ。彼の高名な高野山真言宗の僧侶が、ここまで堕ちてしまったのか。そう思うと、無性に切なくなる。

 無論、私の故郷でも欲深い僧侶はいた。諸国には、借金取り紛いな輩も多くいると聞く。だが、その宗派の総本山でも、斯様な僧侶足りえない性根の持ち主がいた事実に、故郷に居た一心に仏に祈りを捧げる民の姿が脳裏を過ぎってしまったのだ。

 これが、乱世の常なのか。はたまた、人の性なのか。あの時、宗教を毛嫌いしていた近江守様の心境を少しだけ理解出来た気がした。



 しかし、私は未だに宗教と言うモノを理解していなかった。理解出来ていなかったのだ。その醜悪さを。その業の深さを。



 ***



 その後、鎮海氏に連れられて境内にある建物へと入る。人払いを済ませているのか、居心地悪い静けさが広がっていた。

 慣れた様子で先行く二人。事前に聞いていた通り、雑賀殿が来る時はいつも同じ場所へ通されているようだ。

『本堂からは少し遠く、何かあれば駆け付けられる場所。その位置取りが、高野山にとっての雑賀を表している』

 雑賀殿は、苦々しい表情を浮かべながらそう言っていた。つまり、高野山は雑賀殿を信頼してはいないのだ。元々信頼していないが、あちらから下に見られるのは癪に障るのだろう。

 視線を向けた先に居る雑賀殿は、そんな煮えたぎる感情を抱いているとは思えぬ程に、涼やかな表情を浮かべながら鎮海氏と談笑されていた。



 そんな中、不意に雑賀殿から声がかかる。

「源二郎、此処へ来なさい」

「ははっ」

 そそくさと雑賀殿の横へ座ると、雑賀殿から鎮海氏へ私を紹介された。

「鎮海殿。こちらは、新しく鈴木家に迎えた源二郎にございます。堺の商人の子で、中々利発な子なのですよ? 」

「ほうほう……これが噂の……」

 舐め回すような視線に耐えながら、なるべく鎮海氏を見ないように素早く頭を下げる。

「鎮海様、お初にお目にかかります。源二郎と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

「ほうほう……これはこれは、中々礼儀正しい青年ですなぁ。源二郎殿、よしなに頼みますぞ」

「ははっ! 」

 深々と平伏しながら考える。

 これは、一種の通過儀礼だ。本題へと入る前に、私の紹介を済ませたのだろう。なにせ、私は商人の子を養子にしたと言う設定。これからの話の展開を予想すれば、自ずとその答えは導きだされる。

 そして、予想通り鎮海氏から本題を切り出された。

「しかし、商人の子を養子にするとは……やはり、織田様はお許しになりませんでしたか? 」

「……はい。先の仕置き通り、中郷・宮郷・南郷の三群は手放すように……と」

 雑賀殿は、努めて平静を装うように呟くと、鎮海氏は顔を手で覆いながら悲しみを顕にした。

「あぁ! なんと嘆かわしい事か! 数多の犠牲の果てに勝ち取った領土を、我が物顔で奪い取るなど非情にも程がある! 何が天下泰平か! 流れた血を、死者の無念を見て見ぬふりをするなど、人を人とも思わぬ所業よぉ!!! あぁ、彼の君は人の心を知らぬのか!! 」

 大粒の涙を流しながら大仰に嘆く鎮海氏。その姿に、思わず怒りが込み上げてきた。



 私は、慶次殿達に比べて近江守様との付き合いは浅い。だが、そんな私でも分かる事がある。近江守様は、これまで一度たりとも犠牲者を無下に扱った事は無い。

 確かに、天下泰平を成し遂げる迄に多くの戦をしなくてはならないだろう。おびただしい血が流れてしまうだろう。死者からは怨念を、遺族からは呪詛を吐かれるだろう。

 大義の為だ。仕方が無い犠牲だ。犠牲は最小限に抑えた。相手が敵対したからだ。降伏勧告はしていた。救いの手を伸ばしていた。

 ざっと考えただけでも、これだけの言い訳を作る事が出来る。己の行為を正当化出来る。だが、近江守様はソレをしなかった。あらゆる呪詛を一心に受けながらも、ただひたすらに未来を見据えていた。

 私には、どうしてそこまで出来るのか理解出来ない。私には、己の身を削ってでも民を救いたいと一心に願える事は出来ない。



 ――だけど、その在り方は美しいと思った。



 それ故に、先程の鎮海氏の発言は、私の逆鱗に触れるモノであった。

 貴様に、一体何が分かるのか。詭弁ばかり述べて、一向に動こうとしない者達に、近江守様の苦難を語る資格は無い!

 私は、そんな煮えたぎる感情を必死に抑えるように、裾を力強く握り締めていた。



 ***



 その後も、つらつらと織田家を非難する発言をする鎮海氏。結局、話が終わった頃には日も暮れており、そのまま一室をお借りする事になった。

 夕餉を済ませ、身を清めた後に床へ入る。明日の朝には出発し、打ち合わせ通り雑賀荘に帰還する。そして、頃合いを見て安土へ出発し、近江守様へ報告するのだ。



 今後の予定を頭に思い浮かべていたその時、不意に襖の向こうに気配を感じて飛び起きる。

「何者か! 」

 枕元に置いていた刀に手を伸ばし瞬時に構えると、襖がゆっくりと開いていき小さな童が顔を出した。



 ***



 この童との出会いが、私の人生を大きく変える事になる等、この時の私は思いもしなかった。




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