15話
天正十一年 八月
紀伊国 雑賀荘 雑賀屋敷 真田信繁
ふと、食欲を刺激する香りに意識が戻る。
「……ん…………んぁ……」
寝惚けた眼を摩りながら周囲を伺うと、鮮やかな炎が踊る囲炉裏が見えた。吊るされた大釜からは、味噌の香ばしさが嫌でも伝わってくる。
大きく鳴る唾を飲み込む音。視線が釘付けになりながら、恐る恐る囲炉裏へ近付いていくと、突如として襖が開かれた。
「…………っ!? 」
びくりと、身体を震わせて視線を向けると、そこには大皿を持った雑賀殿の姿があった。
「おや? 源二郎、起きましたか。もう直ぐ夕餉の支度が整います故、少々お待ち下さいね」
「ぁ……は、はい。ありがとうございます」
しどろもどろになりながらも、夕餉の支度を済ませて下さった事に礼を言う。若干、視線が揺らいだのは内緒だ。
残りの料理を取りに戻る雑賀殿の背中を見ながら、何かが気になってしまい首を傾げる。
(……んん? あれ? 夕……餉? )
些細な違和感を感じて視線を外へと向けてみれば、既に陽が落ちていたのか、辺りはすっかり暗くなっていた。記憶の片隅にある最後の景色は……。
そこでようやく思い出した。時間帯は早朝。海釣りばかりしている日々に疑問を感じた私は、雑賀殿に掴みかかってしまったのだ。
直後、誠意を持って謝ったのだが、首筋に強烈な一撃をくらって倒れてしまった。その時、薄らと怒りに震える雑賀殿の声が聞こえ……て。
ふと視線を感じて辺りを見渡せば、こちらに振り返って微笑む雑賀殿の姿が。その一切笑っていない瞳を見てしまった瞬間、背筋に冷たいモノを感じて、思わず視線を逸らした。
(……うん。もう、この事を考えるのはよそう。触らぬ神に祟りなし……だよね)
ちなみに、雑賀殿お手製の煮付けは、得意料理と言うだけあってとても美味でした。
***
夕餉を済ませ、熱い茶でひと息入れていると、遂に雑賀殿が本題を切り出した。
「さて、高野山へ行く前に、源二郎には紀伊国の現状を教えておきます」
「はい! 宜しくお願い致します」
姿勢を正して集中する。ようやく使命を果たせると思った私は、先程まで感じていた満腹感による眠気が一気に覚めていったのを肌で感じた。
雑賀殿は、そんな私の様子に満足気に頷かれた。
「紀伊国の民にとって、織田家と高野山の間に不穏な空気が流れているのは周知の事実。交渉が難航していると知るや否や、各地の有力者は親織田派と反織田派に分かれました。それは、この雑賀とて無関係ではございません」
そう言うと、雑賀殿は胸元へ手を伸ばして一枚の地図を取り出した。実に大雑把な作りだが、碁石を用いてそれぞれの勢力の配置を表している為、すんなり頭の中で思い描けた。
「雑賀の勢力圏は大きく分けて五つ。雑賀荘・十ヶ郷・中郷・宮郷・南郷。その中でも、雑賀孫市を継承する鈴木家は、海側の雑賀荘と十ヶ郷を勢力下に置いています。山側の中郷・宮郷・南郷は、太田党の勢力下ですね。その隣りに根来衆。そして、高野山の勢力下になります」
「ふむふむ」
雑賀殿は、何処からともなく取り出した筆で、それぞれの勢力下を丸く囲う。他にも勢力はあるそうだけど、一先ずこの勢力図を覚えた方が良さそうだ。
しかし、雑賀殿は「太田党」と書かれた場所を墨で消してしまった。
「ですが、既に状況は変わってしまいました。先の戦で太田党は全滅。雑賀の勢力圏は鈴木家が統一致しました。……先代雑賀孫市の命を犠牲にして」
「…………っ!? 」
思わず地図から目を離して雑賀殿へ視線を向ける。
すると、雑賀殿は筆を置いて顔を上げた。何処か自嘲気味に笑うと、事のあらましを話始めてくれた。
「織田家と本願寺の戦い。それが、全ての始まりでございます。雑賀は、本願寺側について織田家と敵対。長きに渡り激戦を繰り広げましたが、最終的に旗頭である本願寺が織田家に敗北。雑賀は、その責を問われて織田家の報復を受けました」
「それは……」
思わず言い淀むと、雑賀殿は「気にしないで下さい」と、首を横に振る。
「織田家に恨みはございません。勝つか負けるか、己の全てを掛けた戦いの果ての結末。それに物言いを付けるほど恥知らずではありません。ですので、源二郎が気に病む必要はございませんよ? 」
「そう……ですか。分かりました」
二度、三度と頷いて応える。すると、茶化したように雑賀殿は笑った。
「それに、雑賀が今も尚残っているのは、織田家の重臣であった明智光秀が謀反を起こした為。織田家に刃向かって窮地に陥り、織田家の不幸で救われた。乱世とはそう言うものです。故に、いちいち気にしてはいけませんよ? 」
「……では、そのように」
その言葉に、内心そんなものかと納得する。否、納得するしかない。当事者である雑賀殿が納得しているのだ。それを、横から口出す事は無いだろう。
雑賀殿は、軽く咳払いをすると話を戻した。
「では、話を戻しますね? 織田家の混乱に伴い、共に私達を攻めていた太田党と根来衆は立ち往生してしまいます。彼らは、あくまでも援軍の立場。それ故に、織田軍が退いてしまったが為に混乱に陥ってしまったのです」
「なるほど。織田軍がいなければ、互いの兵力は互角。無理に攻めればただでは済まない」
「左様にございます。千載一遇の好機と見た先代雑賀孫市は、側近五十名を率いて敵陣を奇襲致しました。先代雑賀孫市並びに側近諸共全滅致しましたが、土橋守重などの太田党と根来衆の主力を討ち取り、結果として鈴木家の危機は去り領土が広がる事になりました」
目を細める雑賀殿に、私は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。遺された者達の辛さ。それが、伝わって来てしまったから。
しかし、雑賀殿は動揺したのは一瞬で、直ぐに立ち直ると地図上の中郷・宮郷・南郷の三つの地域を丸で囲う。……強いなぁ。
「これにより、雑賀と根来衆は完全に敵対。まぁ、元々好んではいなかったので大丈夫ですが、このままでは戦になります。そこで、近江守様に仲裁を頼み、雑賀は中郷・宮郷・南郷を手放す事で和睦。この中郷・宮郷・南郷は、大和守様の家臣が治める手筈となっております」
「……しかし、それでは雑賀殿は損をしただけではありませんか? 先代が命懸けで勝ち取った領土を、こうも容易く手放して良いのですか? 」
首を傾げながら疑問を口にすると、雑賀殿は笑いながら右手を横に振った。
「いやいや、流石に領土が広がり過ぎて満足に治められませんよ。今の雑賀には、ここまでの領土を維持する能力も人手も足りていません。寧ろ、織田家に間に入っていただけた方が良いのですよ」
「…………なる……ほど」
何やら切実な悩みを感じたが、変に欲張らないところは素直に尊敬出来る。己に過ぎたるモノを追い求めた者達の末路は、総じて悲惨な最後を迎えるものだ。
そこでふと、気になった点を見つけた。
「……ん? では、高野山との関係はどうなっているのでしょうか? 」
「良好ですよ? 客観的に見れば味方でしょう」
「…………っ!? 」
思わず目を見開いて距離を取ろうとすると、雑賀殿は即座に「まぁ、演技ですが」と真相を話してくれた。
「今の雑賀は、客観的に見ると、織田家に攻められ、根来衆との戦の果てに勝ち取った領土を奪われた被害者です。故に、早い段階から高野山から手を貸すように使者が参りました。しかし、既に私は近江守様に忠誠を誓った身。その申し出を、快く利用する事に決めました」
と言うと、雑賀殿が地図上の碁石を動かす。
「雑賀と根来衆は一応和睦済み。織田家と雑賀は臣従関係。根来衆と織田家の仲は良好。高野山と織田家は敵対。根来衆と高野山は宗教的に敵。雑賀と高野山の仲は表面上は良好」
「……まさか」
「先日、私は雑賀孫市として安土へ行きましたが、表向きでは先の仕置きへの不服申立てとなっております。領土を失っている訳ですから、高野山側も特に反対の声は上がっておりません。源二郎は、その帰りに商人から引き取った設定です。戦支度をする為には、織田家に把握されていない商人との繋がりが必要ですからね」
――その矛先は、織田家ではありませんが。
にっこりと微笑む雑賀殿に、思わず頬を引き攣らる。前に言っていた監視とは、高野山の者達だったんだ。雑賀殿の建前を鵜呑みする訳にはいかなかったのだろう。
しかし、全て雑賀殿に読まれていた。私に教えたって事は、もう準備が出来たからだろう。
その予想は正しく、私と雑賀殿は、この八日後に高野山へと足を踏み入れた。




