14話
天正十一年 八月
紀伊国 雑賀荘 雑賀屋敷 真田信繁
近江守様との謁見から半月程経過。準備を整えた私は、雑賀殿が居を構える紀伊国雑賀荘へと足を踏み入れた。
近江守様から直々に下された指令。様々な思惑が交差する未知の領域。宗教と言う実態の無い霞のような相手を前にして、私はどうしたものかと気に病んでいた。
私の判断で多くの犠牲が出ると思えば、正直良い気はしない。本当に、私が善と悪を見抜けるのか。私で良かったのか。今まで経験した事が無い指令に不安が隠せない。
だが、私は一人では無い。この身には、英傑足る父上の血が流れ、英雄足る慶次殿の教えがある。友もいる。仲間もいる。案内人足る雑賀殿もいる。そして……近江守様の慈愛も。
ならば、何を怖がる必要があるだろうか!
胸に手を置いて空を見上げる。
(必ずや使命を果たす)
そんな確固たる決意を胸に秘め見上げた空は、どこまでも澄み渡っていた。
しかし、そんな決意とは裏腹に、事態は思わぬ展開へと進んでいく。現実とはそう容易くは無い。そんな当たり前の事。もっと早く気が付けば良かった。
***
雑賀荘に到着してから、五日が過ぎた今日この頃。
秋の気配が全く感じられない灼熱の太陽に照らされ、辺り一面には生命の源足る大海原。周りを見渡せば、弾け飛ぶ汗を物ともせずに、日焼けした上腕を晒しながら地引き網を引く漁師達。
『せいっ! せいっ!! せいっ!!! 』
うるさくも逞しい声が水面を揺らし、それに合わせるように竿を動かす。そう……私達は岩場にて朝から釣りをしていた。
「……おっ! 」
手応え有り。ひょいひょいっと、小刻みに動かしながら竿を手繰る。何十、何百と繰り返した一連の流れは、一端の釣り人然とした熟練の動きである。
そうこうしている内に、水面下に魚の影が浮かび上がる。その刹那、神速の域に達した竿捌きにて、一気に魚を釣り上げる。
宙に舞う魚。片手で糸を手繰り寄せ、速やかに針を外して魚を桶に入れる。これで四匹目。上々の成果に頬を緩めていると、横で釣りをしていた雑賀殿がひょっこり顔を出した。
「おや? もう、こんなに釣れたのですか? どうやら、随分と手馴れた御様子で……元々経験があったのでしょうか? 」
「いや〜川釣りは毎日のようにやっていましたが、海釣りは此処に来てからですよ。貧乏暇なしと言うか……私の家は、織田家ほど裕福ではありませんから、食い扶持は自分で稼がないといけなくて」
苦笑いを浮かべながら竿を投げる。織田家の財力は桁外れだと実感した一番の出来事は、家臣ならば飯が毎日用意されていた事。これには、同期達も驚いていた。同じ釜の飯を、皆で一緒に食べるのだ。時々だけど、一刀流門下の人達や白百合の人達とも一緒に食べる。
他のところも同じか分からないけど、赤鬼隊ではソレが常識。おかげで、釣りをするのは久しぶりだった。
そんな思い出に浸っていると、私の桶を覗いた雑賀殿が、にっこりと微笑んで魚を撫でる。
「これはこれは、中々の大きさですね。うん。うん。今日は煮付けにしましょうか」
「いやいや、またですか? 雑賀殿は、本当に煮付けがお好きなのですね〜」
雑賀殿の世迷言に苦笑しながら返す。しかし、雑賀殿の瞳には一点の曇りも無い。……どうやら、晩飯は五日連続で煮付けになりそうだ。
(やはり、湊町生まれだと魚料理が好物になるのだろうか? )
そんな疑問を脳裏に描きながら水面へ視線を向ける。ゆらゆらと揺れながら青く輝く海。潮風を胸いっぱいに吸い込みながら、深く深く息を吐く。
穏やかな日常。鳥のさえずり。初めての海釣りに、昨日は地引き網を体験させて貰えた。まさに、充実した夏の休日――
「――って、違っがぁあああぁぁぁうぅ!!! 」
勢い良く竿を岩場に叩きつけて、雑賀殿に詰め寄る。折れた竿を見た雑賀殿が、「あぁ〜勿体ないなぁ」なんて呟くが、そんな些事など無視して胸元を掴んで前後に揺らす。
「なんで釣りなんかしているんですか! 私達は、高野山の調査をしなくてはいけないんですよ! 近江守様直々の命令なんですよ! こんな呑気に優雅な休日を楽しんでいる場合ですかっ!? 」
涙目で雑賀殿を揺らしていると、ぽんぽんと腕を叩かれ動きを止める。すると、残念な子を見る目で雑賀殿が溜め息を吐いた。
「真田……いや、源二郎。貴方は、私の養子と身を偽って紀伊国へ入ったのですよ? 見込みが有りそうな商人の子を、私が貰い受けたと言う設定で」
「……設定って言っちゃうんだ」
思わず口を挟むも、咳払いで華麗に無視された。
「んん。雑賀……と言うより鈴木家は、貿易で家を潤してきました。故に、金勘定が出来る商人の子を養子に貰い受けても可笑しくありません。……まぁ、少々歳をとりすぎていますが」
「はぁ……? 」
「兎に角、そんな貰い受けたばかりの養子を、安土から帰国早々に高野山へ連れて行けば、自分から怪しんで下さいと言ってるようなものです。故に、ここ数日釣りに興じながら相手の出方を伺っていたのですよ」
「…………っ! 」
やれやれと溜め息を吐く雑賀殿に、思わず顔を赤らめて俯く。雑賀殿は、ちゃんと理論を組み立てた上で行動していたのだ。近江守様の指令を確実に成し遂げる為に。
だと言うのに、私はただただ休日を謳歌していただけ。これでは、雑賀殿が呆れて当然ではないか。
私は、雑賀殿の胸元から手を離すと、勢い良く土下座をして非礼を詫びた。
「大変申し訳ございませんでした!!! 」
腹の底から声を張り上げて詫びる。その声量は、自分が思っている以上に出てしまったのか。慌てて鳥は飛び立ち、漁師達はざわめきながら視線を向ける。
少し目立ち過ぎたかと思ったのもつかの間。目の前から凄まじい怒気が感じられたと同時に、首筋を衝撃が走る。
「…………なぁっ!? 」
意識が暗転する最中、微かに雑賀殿の声が聞こえた気がした。
***
意識を失う源二郎を見ながら、孫市は肩を震わせながら怒りを抑える。
「だから、敵の監視があるって言ってるだろうが! …………はぁ、致し方ない。運ぶか」
溜め息混じりに源二郎を背負い歩き出す孫市。その姿には、苦労人の気配が漂っていた。
「正直者の好青年だが、馬鹿正直過ぎるぞ」
孫市は歩く。そんな呟きを溜め息混じりに吐きながら。




