13話
天正十一年 八月 安土城 真田信繁
理不尽な圧力に嘆きながらも、それを何とか堪えて頭を上げる。額には大粒の汗が滲み出ており、着替えた筈の袴が冷や汗で湿っていく。
私のような若輩者が近江守様と大老様方の覇気に耐える事が出来たのは、一重に私がその対象では無かっただけだろう。
巻き込まれたとばっちりを嘆きながらも、その些細な幸運に心底救われた。
深く息を吐いて呼吸を整える。
織田家と高野山の確執の原因は知っているが、当時の状況を知らない私には近江守様の心中を察する事は出来ない。
しかし、そうも言ってられない。私は、既に近江守様に忠義を誓った織田家家臣の一人。武士として、主君の為に身命を尽くさねばならない。
「それでは、近江守様は前右府様が進めていた高野山制圧戦を再開される……と? 」
先ずは、最も確率の高い方針を出す。あの事件以降頓挫していた高野山制圧戦。それを再開させる事が、前右府様の後を継ぐ意味でも自然な流れだからだ。
確か、アレは約二年前のこと。十万を超える大軍が、一気に紀州へ雪崩混んだ。戦力差は明白。織田家の勝利は時間の問題。誰もが、織田家の勝利を確信した。
されど、結果は痛み分け。
それ以来、近江守様は交渉を続けていたと先に語っていた。だと言うのに、私を雑賀殿の養子だと偽装してでも高野山へ送り込もうとした。
であれば、交渉は難航している可能性が高い。そうなれば、一気に武力で制圧するのが一番手っ取り早いだろう。それだけの武力と経済力を、織田家は持っているのだから。
しかし、近江守様は首を振って否定した。
「残念だが、事はそう容易いモノでは無い。源二郎が想像した通り、織田家と高野山との交渉は難航している。だが、別段奴らを滅ぼしたい訳では無い」
「して、その心は」
「余が望むは戦無き泰平の世。生きとし生けるものが、理不尽に命を奪われる事が無い理想郷。乱世の理を捨て、全ての事柄はあるべき姿へ返す」
――僧侶が握るは槍に非ず。僧侶が導くは地獄に非ず。経典を片手に、数珠を片手に悩める民に寄り添う。それこそが、僧侶のあるべき姿である。
『そうであろう? 』と、近江守様が視線を向ければ、同意するように丹羽様と滝川様を膝を叩く。
『然り! 然り! 然り!! 』
それに続くように、私も平伏したまま賛同する。
「ははっ、誠に正しき御考えかと! 」
「うむ。であるか! 」
私達の賛同に、近江守様は満足気に頷かれると、手元に置かれた大きな球体へ手を伸ばされた。あれは確か、宣教師の献上品だったか。
「宗教の歴史は古い。種類は多々あれど、人類史において国と宗教は隣り合わせであった。だが、遥か古より、宗教が政に絡んで良い事があったか? 碌な例が無かったであろう? 愚者は身をもって思い知らされた痛みからしか学べぬが、賢者は歴史より学ぶ事で同じ過ちをしないように回避出来るものだ」
からからと、乾いた音が響き渡る。
「政教分離」
『…………っ!? 』
その呟きに、思わず目を見開く。されど、近江守様は私達の驚きに気付いた様子を見せず、ただただ球体を回し続けた。
「僧侶は、民に説法を説いていれば良い。槍を持った理由が武士にあるならば、その責を余が背負う。他勢力を恐れるならば、余が守れば良い。余の庇護下に入れば良い。であれば、僧兵の類いは即刻取り潰して然るべきであろう? 最終的には、僧侶共が政に口出しするような愚行をしないようにさせるつもりだ」
そこでふと、球体を回す手が止まる。
「その旨を文にしたため、高野山へ使者を遣わせたのだが、奴らは一向に余に頭を垂れない。余の情けを受け入れない。……実に、気に食わぬ。丁重に使者を寄越して断りを入れるのが、余計に話を拗らせているのだ。現状、奴らは正式に交渉の場に立っている。理由も無く攻めては、織田家の威信に関わる」
「な、なるほど」
深く溜め息をつく御姿を見ながら、兎にも角にも同意するように頷く。正直、近江守様の御考えは、今まで聞いてきたあらゆる思想とは一切被らぬモノ故、話の半分も理解出来なかった。
されど、ここで疑問を述べても角が立つのみ。後で、父上に文を書いてみよう。
相槌を打ちながら考えをまとめていると、不意に前方から歯を食いしばる嫌な音が聞こえた。視線を向ければ、丹羽様と滝川様が般若の如き表情を浮かべている。
なるほど。いつも冷静な御二方が、何故ここまで怒り狂っているのかがようやく分かった。そして、近江守様が私に命じたい指示も。
「では、私は高野山の現状を見てくれば良いのですね? 織田家に仇なす敵か否か……を」
すると、近江守様は然りと頷く。
「その通りだ。物事を公平に見定められるそなたが適任だと判断した。何も、敵で無いのであれば良いのだ。僧侶としての務めを全うしているのならば文句は言わぬ。その時は、朝廷を動かして和睦をしよう」
――だが、非道悪行の限りを尽くす罪人であるならば、この手で断罪する事となる。
冷たい眼差しと共に、小さな指先が真っ直ぐ私を貫く。
「見極めよ源二郎。高野山の僧侶共が、善か悪かを見極めるのだ! 全ては、そなたの裁量に任せる。鈴木は、源二郎を補佐せよ。これより、余の配下となるならば、己の価値を示してみよ! 」
『ははっ!! 』
深々と頭を下げて平伏する。遂に、大任を任される時が来た。身が震える程に緊張するし、血が滾る程に高揚感に包まれる。
しかし、そんな自分を冷静に見つめる心の中の自分自身がいて。そんな自分が、強く警報を鳴らしていた。
顔を上げた先には、離れ行く近江守様の小さな背中だけが映っていた。
***
近江守様の確固たる意思が、何に遮られる事も無く脳裏へ響き渡る。あまりにも清く正しい姿。その背には後光が差して見える。
人は善い者と悪い者がいる。それは、武士に限らず商人や農民、そして僧侶にすら当たり前のように存在している。
僧侶は、俗世を離れて説法を説くのが本懐である。なるほど。近江守様の考えは正しい。
だが、ソレを奴らが受け入れられるかが、凄く不安で仕方が無い。だって、ソレは今まで当たり前の事だったのだから。
民を先導して一揆を起こしたり、借金のかたに歳若い娘を攫う。確かに外道だ。その姿を目の当たりにすれば、思わず眉を細めてしまうだろう。
だが、それだけだ。止めようとは思わない。そんな光景は日常茶判事であり、ソレを止めようとも思えなかったから……。
そんな負の流れを、近江守様はここで断ち切ると宣言された。絶対なる正義を掲げて、悪を断罪せんと立ち上がった。
こうなれば、奴らとの戦は避けられない。奴らが、せっかく手に入れた甘い蜜を手放すとは思えない。
私は、近江守様に任を任された時、運命が定まってしまったと感じていた。決して避けられぬ滅びの運命が。
故に……だろうか。
あの日の父上の言葉が蘇った。
***
清濁併せ飲んでこその王……綺麗事、理想論で事は成らない。されど、理想も掲げられずして何が王か。
彼の御方は、暴君に非ず賢王の器である。暴君の一面を悪とし、負の一面として切り捨てた者。
それでは駄目だ。全てを背負わねばならない。誰かが肩代わりしてはならない。潰されるか糧とするかの二択。
既に、決断の時は迫っている。
乱を鎮めるのは暴君である。
国を鎮めるのは賢王である。
民を鎮めるのは聖王である。
暴君と賢王を兼ね備えた者が、覇王である。
天下泰平の世を築くのは、聖王である。
天下一統を成し遂げるのは、覇王である。
今の世に、覇王は二人。
羽柴秀吉と徳川家康である。




