11話
天正十一年 八月 安土城 真田信繁
うるさいくらいに脈打つ鼓動を、鋼の精神で耐えながら乙女の名を口に出す。
「つ、椿殿っ! 」
白の生地に彩られた椿が、彼の麗しき乙女の名を表す。その仕草は数多の視線を釘付けにし、その美しき音色は数多の心を癒す。
あぁ……なんて美しい人だろうか。
(大丈夫かな? 声、裏返って無かったかな? )
そんな不安を抱えながら直立不動で待っていると、椿殿は特に気にした様子も見せずに笑いかけて下った。
「ふふっ。今日も、朝早くから鍛錬をなさっていたのですか? 真田様は、噂に違わぬ真面目な御方なのですね? 」
上品に口元を隠しながら微笑む姿に、思わず胸が締め付けられる。高鳴る鼓動。熱くなる頬。ソレ等を誤魔化すように視線を逸らした。
「い、いや〜そんな大した事では……」
そう。大した事じゃない。武士として、真田家を継ぐ者として当然の事をしているまで。褒められるような事では無い。
――だと言うのに、何故こうも胸が弾むのだろうか。
胸元に手を伸ばしながら考える。しかし、ソレは考えてはならぬと目を逸らした。
何故かは分からない。だけど、そうした方が良いと思って。
そんな思いに沿うように、そっと椿殿から視線を逸らして要件を問う。その頬に、僅かな熱を帯びさせて。
「……して、此度は何用でしょうか? 」
すると、椿殿は胸元へ手を伸ばして一枚の文を取り出した。……大丈夫。なにも見てないよ。
「此度は、殿からの命を受けて参りました。『身を整えた後に登城せよ』との事。こちらが、その旨が記された文にございます」
その指令を聞くと同時に、すかさず片膝を立てて深々と平伏する。
「真田源二郎、承知致しました。速やかに支度を整え、登城致します」
椿殿から文を受け取ると、丁重に胸元へ仕舞う。殿の要件は分からないけど、それは私が考える必要は無いモノ。やましい事はしていないからね。
考えるべきは、速やかに支度を整える方法。近江守様直々のお呼び立てなのだ。待たせるなんて有ってはならない!
文を仕舞い終わると、土を払いながら立ち上がり椿殿と向き合う。
「椿殿、文は確かに受け取り申した。わざわざ御足労いただき誠に忝ない」
軽く頭を下げて礼を言う。近江守様の指示とは言えども、わざわざこんなむさ苦しい場所まで来て下さったのだ。時間が無いとは言え、客人に茶も出せぬ無礼を恥じるばかりだ。
しかし、椿殿は私の不始末を咎める事はせず、柔らかな微笑みを浮かべておられた。
「いえ、殿の御命令であれば、ソレを全身全霊で成し遂げる事は臣下として当然の事にございます。故に、真田様がお気になさる事はございませんよ? 」
「椿殿…………」
(可憐だ……)
幻覚だろうか。椿殿が微笑むと、周囲に色鮮やかな花々が咲き誇っている。爽やかな香りまで漂ってきた。
再度、高鳴る鼓動に胸を締め付けられながら余韻に浸る。この想いが、良い事なのか悪い事なのか、どこから来ている感情なのかは分からない。
だけど、凄く幸せに満ち溢れていた。
そんな夢現で椿殿を眺めていたからだろうか。椿殿が発せられたその言葉に、思考が完全に停止する。
「では、私も真田様に同行致しますわ。殿より、真田様を謁見の間へお連れするように承っております故、どうか御承知下さいませ」
「え…………ぁ、はい」
(椿殿が、私の部屋へ……? )
頭から煙を出したまま頷く。ぎこちない動きで、私が居を構える長屋へと足を運ぶ。勿論の事ながら、椿殿を連れて……だ。
――え、え…………どゆこと?
そんな素朴な疑問は、誰に答えて貰えることも無く宙へと溶けていった。
***
ぎこちなく去っていく源二郎と、涼しい顔でついていく椿。そんな二人の様子を見ながら思う事は、同期の者なら皆が同じであった。
「源二郎ってさ。本当に分かりやすいよな」
一人が切り出すと、ソレに同意する声が続く。
「んだな〜」
「絶対、椿様の事好きだよね」
「でも、妙に鈍いところもあるよな」
「あれ、誰がどう見ても脈無いよな」
『それな』
皆が同時に頷く。脅威のシンクロ率である。
本来であれば、ここで話題は別のモノへと変わる。この先は、あまりにも口に出すには重すぎる故にだ。
しかし、この時の彼らは激しい鍛錬で疲労困憊になっており、ついつい口が滑ってしまった。
「この前、椿様に源二郎の事どう思うか聞いてみたんだよね。父親と兄貴が戦功挙げて一気に領土も増えたから、真田家って織田家家臣内でも地位を上げたし。その次期当主なら、凄い優良物件だろ? 」
『…………っ! 』
(この馬鹿! なんて事聞いてるんだ! )
そんな罵声を心の中で浴びせても、既に起こった事は変えられない。であれば、続きが気になるのが人の性。
「し、して……答えはどうであった? 」
三郎が、妙にかしこまった口調で問いかける。緊張の瞬間。誰も彼もが固唾を呑んで見守る中、ソレは静かに告げられた。
「とっても、いい人だと思いますって」
「…………それ、どうでもいい人と同義では? 」
『………………』
答えは出た。
彼らがゆっくりと後ろを振り返ると、遠くの方に源二郎達の後ろ姿が見える。付かず離れずの距離感を保つ両者の間には、一体どれほどの距離があるのだろうか。
見届けた彼らの背中に哀愁が漂う。
心優しき同期の初恋は、一体どんな結末を迎えるのだろうか。未来は、神にしか分からない。
されど、彼らの思い描く未来は同一であった。
(その時が来たら優しくしてあげよう)
慈愛の眼差しを向ける彼らの事を、源二郎は未だ知らない。
***
さて、そんな源二郎だが、特に長屋でイベントが発生する事も無く、正装に着替えた後に謁見の間へ通されていた。
そこには、織田家当主三法師を上座に、傍を織田家大老丹羽長秀と滝川一益が固める。それ以外には、記憶に無い狐顔の怪しげな男がいるのみであり、かなりの少人数と言えよう。
この時点で混乱に陥っていた源二郎だが、三法師の言葉で一気に混乱の極地へと叩き落とされる。
「真田源二郎。そなたは、これより鈴木源二郎幸村と名乗るのだ」
「…………ぇ」
さて、源二郎の運命や如何に。




