7話
夕刻より執り行われた宴も終わり、名代達が用意された屋敷へ辿り着いた時には、下弦の月が怪しく夜空を照らしていた。
そんな夜も深まった頃合い。羽目を外して酔いつぶれた者や、主に付き合わされて疲れきった者達が深い眠りにつく丑三つ時に、未だ眠らぬ者達がいた。
そこは、徳川家に割り当てられた屋敷の最奥。月明かりすら通さない一室にて、二人の男の顔を僅かな灯りが映し出す。
その者達の名は、徳川家当主徳川家康。そして、その重臣本多弥八郎正信。
闇に潜む者達は、静かにその牙を研ぐ。
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天正十一年 七月 安土城 武家屋敷 徳川家康
一つの灯りしか無いこの一室にて、弥八郎と向かい合う。宴の疲れもあるが、事は徳川家の行く末に関わるモノ。自然と眠気は覚めていた。
「殿、先の件にございますが……「待て」
話を切り出す弥八郎を手で制し、二度手を叩いて合図を送る。すると、襖の向こうに影が映り込んだ。半蔵だ。
「首尾はどうなっておる? 」
「はっ、東門に三名。西の木陰に一名。北の岩場に二名。南の瓦に三名。二軒隣りの屋敷には、およそ一個小隊。武家屋敷全土を周回する四部隊。徳川家に付けられた監視は、毛利家に次ぐ数となっております」
淡々と答える半蔵。その報告に、弥八郎の表情に薄く影が差す。
「…………予想より多いな」
「はっ、織田家大老羽柴筑前守並びに、近江守直属の配下が独断で動いていると推測されます。されど、その部隊間には確かな連携が伺えます。おそらく、彼らはこの状況が来る事を想定し、緻密な鍛練を幾度も重ねたのでしょう」
半蔵の報告に、みるみる弥八郎の顔が青ざめていく。心配性な弥八郎のことだ。おそらく、最悪の想定が脳裏を過っているのだろう。
だが、そのある種の臆病性こそが、窮地を乗り越える重要な要素。ワシを守る側付きには、まさにうってつけな能力。
故に、辺りの警戒を弥八郎に任せ、ワシは思考の海へと飛び込んだ。
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屋敷を取り囲む訓練された兵士達。隙の見当たらぬ完璧な連携。どうやら、理想に取り憑かれた王の瞳を惑わす事は出来ても、その両翼に阻まれてしまったようだ。
……腹立たしいが、これでワシはろくに動けなくなった。奥州や関東の者達と繋がりを持つ計画もあったのだが、誰が何処に入ったのか筒抜けの今、下手な行動は自らの首を絞めるに等しい。ここは、大人しく屋敷に滞在しよう。
(しかし……な)
辺りを見渡しながら心の中で呟く。
真新しく、この日の為に建てられたと言っても過言では無い立派な屋敷。特に、織田家と古くから親交のある徳川家に割り当てられた屋敷は、最上級の品質と待遇になっている。
だが、裏を返せば織田家が用意した罠の上で眠るのに等しい。この床下や天井裏に、何が仕込まれているか分かったモノでは無い。
もしや、この広大な武家屋敷全体が一つの罠として造られたのか。最悪の場合、速やかに始末出来るように。
であれば、間者のみならず隠し通路の類いも警戒せねばならぬ。この壁一枚隔てた向こうに、何が広がっているか分からぬからな。
……だが、ワシが用意した小姓達がおれば、この一室くらいならば密談を行える。
***
「そう、容易くはいかない……か。ここは、奴らを称賛致そう。……もう良い。下がれ」
「御意」
音も無く闇に溶け込む半蔵を後目に、胸元を緩めて溜め息を吐く。
「流石に、全てがワシの理想通りとはならぬ……か。致し方なし。道化が、使い物になっただけ良しとしよう」
あの道化の顔を思い浮かべていると、弥八郎も同意するように続く。
「左様でございますな。よもや、あれほど気性の荒い男が、公の場で頭を下げるとは思いもしませんでした。僅か一年で猛獣を手懐けるとは……流石は、殿にございますな」
乾いた笑い声が静かに響く。段々と瞳が死んでいく弥八郎。その顔には、一年間の苦労が滲み出ているようだ。
「はぁ…………それには……ワシも同意じゃ」
そんな弥八郎に当てられたのか、腹の底から絞り出すように呟く。
モノは使いよう。一手しか動けぬ歩でも、王を討ち取れる。いつの世も、権力者を陥れるのは身内……か。
あの怪物が晒した唯一の弱点。民を束ねる最も尊き長所は、自らの首を晒す急所へと一転。それを、黙って見過ごす程ワシは甘くは無い。
『埋伏の毒』
単純、されど敵方に甚大な損害を与える故に、古来より敵を切り崩す策として重宝されてきた。
ワシは、織田家を切り崩す布石として、初手にこの手札を切った。あの童ならば、必ず罠と分かっていても手を伸ばすと信じてな。
一年もかかったと取るか、一年で為し得たと取るか。それは、これまで積み重ねられた心労によって推し量れよう。
――だが、一つ言えるのは、芸を仕込むのならば猿の方が余程容易いであろうな。
***
茶番劇とも言える布石を思い返し、何故かこちらまで精神的な損傷を与えられたが、薄れる意識を鋼の精神で押さえ込み本題へ入る。
「だが、織田家打倒は一手で為し得る事は絶対に不可能。幾重にも策謀を張り巡らせ、奴の首が強固な護りの外に出た瞬間を狙って斬り落とさねばならぬ」
「ははっ、誠にその通りかと」
そうだ。何も、童の周りを取り囲む全ての護りを剥がす必要は無い。その首に、この刃が届く微かな隙間で良いのだ。
「次は、その翼を斬り落とす。狙うは、羽柴筑前守秀吉。織田家大老の一角を落とさねば、ワシ等に勝機は無し。直ちに、筑前守の周囲を洗え! 奴の過去、人間関係、趣味嗜好その全てを調べ上げよ! 」
「御意っ! ……では、これにて失礼致します」
深々と平伏した後に、直ぐ様動き出す弥八郎。その後ろ姿に、追加の指示を出す。
「それと、我が家臣達に噂話として広めて貰いたいモノがある。『織田家が、蝦夷地開拓へ蠣崎氏と繋がった』と、それとなく伝えよ。あくまでも、噂話として……な」
ワシの声に反応し、姿勢を正して聞き届けた弥八郎は、困惑した表情を浮かべる。
「……しかし、それでは家臣団に織田家の威光を轟かせてしまうのでは? 」
「今は、それで良い。今は……な」
思わず口元を緩めると、弥八郎の瞳に怯えが浮かべ上がる。その瞳に映る我が身を眺めながら、込み上げる愉悦に浸る。
一つの悪手が勝敗を決める状況下。最早、盤面は織田家優勢だと誰が見ても分かる。馬鹿でも分かる。ここから戦況をひっくり返す術など無いと。
そう、正攻法では勝てぬ怪物に勝つには邪道しか無い。搦め手、策謀、己の積み上げてきた叡智を全てを駆使して、怪物の意表を突く。
そんな手段はただ一つ。
場に伏せていた悪手を、最善手へと反転させること。
勝負の決め手は、ワシがどれだけ布石を仕込めるか。
そうさなぁ…………残された時間は、あと一年と言ったところかのぅ。
「ワシが布石を仕込み終わるのが先か。童が天下を統一するのが先か。くっくっくっ……血が滾りよるわぁ!!! 」
握り拳を掲げて安土城を睨む。
許さぬ。赦せぬ。止まらぬ。止まれぬ。
血戦にて雌雄を決する他、道は無し。
――さぁ、怪物退治の始まりじゃ。




