3話
天正十一年 七月 安土城
夏の陽射しが大地を照らす今日この頃、安土城下は過去最高の盛り上がりを見せていた。
本州のほぼ全てを制した織田家の貿易ラインによって、全国各地から名産品が出揃い、民達も小遣い片手に出店へ走る。富裕層が集まるエリアに目を向ければ、京を代表する豪商今井宗久が南蛮渡来の品々を売り捌いている。
「安いよー安いよー! 本日限りの特売だぁ!!! 古今東西何でもござれ。今買わなきゃ損だよぉー!!! 」
「あら? 本当に安いわぁ」
「これが、相模名物鯵の干物だ! 中々味わえない海の幸! 本場の味をご賞味あれ!!! 」
「ちょっとそこの嬢ちゃんっ! おいらと茶屋できゅうけ「何やってんだい、あんたぁ!!! 」ほげぇっ!!? 」
漁師らしき肌の焼けた男が干物を売り捌き、商売上手な男の掛け声に一人の女性が足を止める。鼻の下を伸ばした中年の男が、年若い女性に手を出して妻らしきおばちゃんにしばかれる。
まさに、お祭り騒ぎと言えよう。では、何故これ程までの盛り上がりを見せているのか。
それは、今日七月二十三日が、西国最強の大名毛利輝元と足利幕府第十五代将軍足利義昭の両名が登城する日だからだ。
今日、この両名が織田家の軍門に下る事によって、天下泰平への道は一気に縮まる。そんな歴史的瞬間に立ち会うべく、全国各地の大名家の名代が安土へ集まっているのだ。
となれば、奥州や関東の者達には滞在する場所がいる。屋敷は織田家が用意しているが、毛利家が登城するより早く訪れた者は暇になるだろう。
そこに目を付けた商人達が出店を開いた結果、あっという間にご覧の有様だ。金は天下の回りもの。暴動さえ起きなければ、統治者として願ってもない好機さ。
「それに、殆どの民が理解していないとはいえ、天下泰平へまた一歩近付く今日という日を喜んでくれる事が、ただただ嬉しい」
天守閣より城下町を見下ろしながら呟くと、いつの間にか傍で寄り添っていた松が、優しげな微笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「彼らが安心して商いを出来るのも、全て殿の御威光の賜物かと。安土ならば、平和に暮らせると移住を望む者もいるのですよ」
「……であるか。皆が笑顔で暮らせているのなら、それだけで報われるよ」
そう微笑みながら返すと、松は花のような笑顔を浮かべた。
「はい! 私も、斯様な光景を見ることが出来て幸せです! まさに、夢のような理想郷でございます」
そこで話を区切ると、松は真剣な表情を浮かべながら片膝をついて平伏した。
「そして、今日この日、天下泰平という殿の願いが、また一歩成就へと近付きました事を心より御祝い申し上げます。…………それでは、定刻となりました。一同準備は出来ております」
「うん。では…………行こうか」
「はっ! 」
松の手を借りながら階段を降りる。あと数分後には、毛利輝元と足利義昭と対面することになる。
まさに、歴史的瞬間。否が応でも緊張してしまう心を落ち着かせようと、お師匠から貰った扇を握り締める。
すると、白と黒二つ一組の鈴が風に揺られ、俺の背中を押すように優しく鳴り響いた。
ところで、松はどうやって音を立てずに階段を登ったのだろうか。…………うむ。考えるのは止めよう。忠義故……なんて言われたら頭が痛くなるしな。
***
そして、遂にその時が訪れた。
「近江守様のぉ〜おなぁ〜りぃ〜」
独特なテンポで小姓が俺の到着を知らせると、間髪入れずに襖が開かれる。松と雪達が護衛として壁際に控えている事を確認すると、俺は上座へと足を進めた。
「…………っ」
俺が、姿を現したと同時に感じる視線。皆が皆、平伏している筈なのだが、強烈な怒気にも似た視線を強く感じる。
今まで感じた事の無い気配に、若干動揺しながらも何とか堪えて上座へ座る。横には、急遽越後国から帰還した権六を筆頭に、織田家重臣達が軒を連ねる。後方には、小早川隆景を筆頭に毛利家家臣団もいた。
そして、正面には二人の男性。一人は、二十代後半と思われる気弱そうな優男。もう一人は、四十過ぎの髭を生やした中年の男。
伝え聞いた風貌から察するには、前者が毛利輝元であり後者が足利義昭だろう。そして、俺に対して怒気を放っているのが足利義昭だ。
まぁ……織田家とは因縁があるし、俺の顔とじいさんの顔は似てるからなぁ……。致し方ないと思うよ。
(さて、気を取り直して……と)
軽く服の乱れを直して正面を向く。
「…………良い。面を上げよ」
その一言が、謁見の始まりを告げた。
皆の準備が整った事を確認すると、早速本題を切り出す。
「では、本題に入ろうか。毛利家は、織田家に無条件降伏し、その後の沙汰を織田家当主に一任する。相違無いな? 」
「ははっ。何一つ相違ございませぬ」
深々と平伏しながら、輝元は即座に認めた。その隣りでは、義昭が悔しげに唇を噛み締めている。その様子を眺めながら、最終的に決定された沙汰を言い渡す。
「では、これより沙汰を言い渡す。毛利家の領地は、安芸・周防・長門の三カ国のみとし、石見国は織田家直轄地とする。そして、毛利家には九州制圧の先陣を任せる。正確な日取りが決まり次第追って連絡を寄こす故、万全の準備を整えよ」
――最後に、足利義昭は織田家預かりとする。
「以上である。織田家の為に、日ノ本の民の為に日々精進し、余に永遠の忠誠を誓え」
「…………ははっ」
輝元は、一瞬言葉を詰まらせたものの、特に反論する事も無く受け入れた。あまりにも呆気ない終わりに意気消沈していると、不意に輝元の手元が視界に入る。
強く強く握り締められた裾は、じわりと赤い染みを作りながら悔しげに歪む。キツく噛み締められた口元は、どうしようも無い絶望と、今は亡き先祖への謝罪、家を守らねばならない責務、そんな様々な感情が渦巻いているのが伺えた。
毛利家は、これによって約五十万石の大名となった。その石高は、全盛期の半分以下。更には、此度の無条件降伏によって、多くの国人衆の信用を失い影響力激減。頼みの石見銀山も奪われた。
毛利家にとって、あまりにも屈辱的な沙汰。本拠地である安芸国は守れたものの、今まで勝ち取ってきた領土をことごとく奪われたのだ。
それは即ち、これまで流れてきた数多の犠牲を足蹴にされたも同義である。弱肉強食が世の常なれど、あまりにも無慈悲な沙汰。
されど、輝元は歯を食いしばって耐えた。数年前とは、既に状況が違う。毛利家と織田家の兵力差は、もうどうしようも無い程に開いた。全面戦争になれば、数え切れない程に犠牲が出る。
それが、分かっている故に、輝元は必死に堪えていたのだ。こんな幼子に頭を下げて、己のプライドを投げ捨てて、ただただ多くの血を流させない為に頭を下げていたのだ。
――彼は、誰よりも優しき王の器だった。
それを悟り、せめてもの償いとして、これから訪れるであろう一揆の制圧軍を織田家が派遣しようと提案しかけた瞬間、今まで黙っていた足利義昭が怒りに任せて立ち上がった。
「ふ、ふざけるなぁあああっ!!! 余は、決して負けを認めぬ!!! 決して、織田家を許さぬっ!!! こんな呆気なく終わってたまるかぁああぁあぁぁあああっ!!! 」
義昭の怒りの咆哮は、大広間に響き渡り襖を激しく揺らした。一刀斎や雪たち護衛の者達は、即座に刀を抜ける体勢へ移行。織田家と毛利家の家臣達も、片膝を立てて周囲を伺う。
大広間は、あっという間に一触即発な状況へと移り変わってしまった。




