2話
天正十一年 七月 安土城
『毛利動く』
その一報は、安土城へ帰還早々に伝えられた。ようやく終わった上杉征伐に続いて、西国最強の大大名毛利家との対峙。休む間も無く押し寄せる大戦の予感。
されど、家中の者達に動揺は見られなかった。
何故ならば、もし動くとすれば、このタイミングしか無いと分かっていたからだ。
畿内・中国地方に位置する者達は残っているとはいえ、織田家当主を筆頭に四大老が不在の今、虎視眈々と隙を伺う毛利家ならば間違いなく手を出す。
それ故に、わざと背を向けたのだ。毛利輝元諸共、毛利家の主力を一網打尽にする機会をつくる為に。
しかし、その想定は水の泡となって消え去った。他でも無い、小早川隆景の言葉によって――
***
「毛利家を、織田家の傘下に加えていただきたい」
そんな小早川の発言に、ザワりと家臣達に動揺が走る。中には、立ち上がらんとする者もいたが、それを視線で制すると、今一度、小早川隆景を見据えた。
見事な立ち振る舞いで、堂々と俺を真っ直ぐに見詰めるこの男。藤から受けた報告とは、あまりにも掛け離れた姿だ。
それ故に、小早川隆景を取るに足らないと評した藤へ視線を向けると、なんとも悔しげに唇を噛み締めていた。
その様子に、おおよその事情は察した。おそらく、藤は一杯食わされたのだろう。頼りない姿を晒してから、一気に評価を覆す見事な立ち振る舞いで皆からの評価を上げる。じいさんも若い時にやったアレだ。
単純ではあるが、一度付けられた評価を覆すのは並大抵なことでは無く、殆どの者達が前評判通り押し潰される。それ故に、覆した時の破壊力は想像を絶する。
それが、狙ったのかそうで無いかは別として、なまじ発言力のある藤が流した噂は、そのまま小早川に利用されてしまったのだろう。
であれば、あの表情も頷ける。
さて、問題は毛利家の申し出を受けるか否かでは無く、小早川の真意を探ることだな。
「……それは、毛利家の総意か? 対等な不戦条約もしくは、同盟国として友好条約を締結する選択もあった筈だ。何故、自ら傘下へ下ろうとするのだ? 」
皆の視線が集中する中、疑念の目を小早川に向けながら問いかける。すると、小早川は全く動じることも無く、笑いを混じえながら即座に答えた。
「はっはっは。これはこれは、御戯れを。天下一統を掲げるならば、いずれ全ての同盟国は織田家の傘下に下るのは自明の理にございます。であれば、最初から主従関係を結んでも、さして問題はございませぬ。寧ろ、その方が織田家にとって都合が良いでしょう」
「…………」
小早川の言葉に、俺は何も答えない。答えてはいけない。織田家当主として、かなり痛いところを突かれた。
否定も肯定もしない俺を見詰めたまま、小早川は続きを語る。
「そして、南蛮や唐の脅威を考えれば、一刻も早く天下を統べるべきであり、日ノ本において天下を統べる器の持ち主は、近江守様しかおりますまい。我が殿も、某と同様に考えておられまする」
南蛮・唐。確か、ヨーロッパと中国だよな。じいさんも、油断の出来ない相手だって言ってたし、毛利家も奴らの脅威を知っていたのだろう。
しかし、一つ解せぬことがある。
「…………何故、天下を統べる器が余だけだと思うのだ? それでは、貴様自身が己が主君を力不足だと言っているに等しい。親族とはいえ、貴様は、あくまでも家臣の身の上。ちと、口が過ぎるのでは無いか? 」
俺の意見に同意するように、左近も力強く頷く。幾ら交渉上の物言いとはいえ、あまりにも無礼過ぎるだろう。
しかし、小早川の瞳には一切動揺が見られなかった。
「毛利家は、天下を望みませぬ」
「……何故だ? 」
まるで、天下は要らぬとばかりに断言する姿に、思わず眉を動かす。本気で天下を狙う俺にとって、先程の発言は馬鹿にされたように思えたからだ。
そんな俺の怒気を受けながらも、小早川は涼しい顔で続きを語る。
「……天下を望まぬ理由は、ただ一つにございます。我が殿、毛利家十四代当主毛利輝元は、国を治める器はあれど、天下を統べる器はございませぬ。器無き者が、己の許容を超える重荷を背負った時、必ず多くの人命を巻き込んで自滅致します。それは、統治者としてあってはならぬこと。それ故に、某は安土へ参りました」
小早川の言葉に、一同唖然とした表情を浮かべる。確かに、小早川の言葉は的を射ている。
血筋のみで選ばれた愚王が、悪戯に国をこねくり回して、最終的に国を傾ける。そんな暗君となる話は、歴史を見返せば腐るほどあるものだ。
しかし、己が主君に対して、ここまで器では無いと言い切るなんて……。
「……輝元には、優秀な叔父上が二人もおられる。そなた等が、輝元を支えて天下を狙う道もあったのでは無いか? 」
小早川を指差しながら問いかけると、小早川は自嘲気味に軽く笑った。
「一人でございます」
「……一人? 」
「えぇ、一人にございます」
キッパリと言い切る小早川に、思わず首を傾げながら再度問いかけるも、小早川の答えは変わらなかった。
その姿に、天井を見上げながら息を吐く。その言葉に込められた意味を悟ってしまったからだ。
***
『毛利動く』
この一報は、白百合隊第一席桔梗から送られたモノだ。俺は、越後国へ行く前に、白百合の者達を毛利家領内へ大量に忍び込ませていた。一年間の不戦条約が途切れる間際での、当然の警戒と言えよう。
それ故に、桔梗は領内の不審な物の流れを迅速に発見出来たのだが、桔梗の報告を精査する内に、一つの疑問が浮かび上がった。
動いている物の数があまりにも少なく、偏っていたのだ。
誠に、織田家と戦うつもりであれば、間違いなく全面戦争になるにも関わらず、集められた兵糧は一個中隊程度。場所も、毛利家重臣吉川元春の領内へ集中している。
小早川の動きも不審であり、まるで吉川の動きを阻害するかのような立ち振る舞い。
この状況下で導き出される答え。
それは、内乱だけであった。
***
思いもよらぬ事態に混乱しながらも、ようやく考えがまとまった俺は、視線を下ろして小早川へと向ける。
「毛利家の申し出は、実に有り難きこと。天下泰平を願う新たな同士の誕生を、心から祝福しよう」
「ではっ! 」
一瞬、小早川の表情が色付く。
されど、それを遮るように、冷たい声音が被せられた。
だが――
「此度の案件は、貴様が交渉役では不足だ。毛利家当主毛利輝元並びに、貴様等が匿っている足利義昭。この両名を、貴様が責任を持って安土城まで連れてまいれ。話はそこからだ」
「……っ! ははっ、承知致しました」
深々と頭を下げる小早川を横目に、大広間を後にする。
慌てて追ってきた家臣が、人質として小早川隆景を囲うべきだと進言して来たが、それを即座に却下した。
別に、小早川を人質にする気は無かった。逃げたければ逃げれば良い。その時は、約束を反故にした武士の風上にも置けぬ卑怯者だと恥を晒すだけ。
それに、俺の瞳には約束を反故にするような奴には見えなかった。もし破られたら、ソレを見抜けなかった俺が悪いしな。
***
そして、七月二十三日。
毛利輝元・足利義昭両名は、安土城へ登城した。




