41話
天正十一年 六月 越後国
翌朝、未だ皆が寝静まっている頃、俺達一行は険しい山道を歩いていた。誰も道の整備をしていないのだろう。獣道すら見当たらない。先頭を行く若者は、ナタを片手に草木を切り開いて道を作っていた。皆が皆、歩きづらそうにしている。
特に、先頭を行く若者が汗だくになっている様子に、少し申し訳無くなり眉が下がる。
実は、俺は実際に歩いている訳では無いのだ。
こんな薄暗い山道を登るのは、この幼児の身体には非常に危険が伴う。もし、転んで怪我でもしたら、同行した皆に処罰が下される可能性もある。ただでさえ大老達に無断で外出しているのだ。もう手遅れかもしれないが、リスクは最小限に抑えておこう。
そんな訳で、俺は松に抱かれた状態で目的地へ目指していた。周りを見てみれば、赤鬼隊の若者が汗を流しながら苦しそうに歩いている。
段々と気温が上がっていく状況に、武士と言えども辛いのだろう。であれば、俺を抱えている松の負担も相当な筈だ。
(松は、大丈夫そう…………だな)
松の顔を見ながら呟くと、俺の視線に気付いたのか不思議そうに首を傾げる。
「殿? どうなされましたか? 」
「……いや、何でもないよ」
短く答えながら前を向く。一般的に考えれば、年若い女性が、子供とは言え何十キロもある重量物を抱えながら山道を進むのは、かなり苦痛な筈だ。
しかし、松は一切汗もかかずにケロッとしている。子供一人抱えても余裕そうな笑みを浮かべ続ける様子は、やはり日頃から鍛えている証だろう。この細腕で、大したものだ。
「……ふぅ…………ふぅ…………ふぅ…………」
しかし、歩いて無くても疲労は感じる。
風も無く、湿度が高い季節故か無性に喉が渇く。知らず知らずのうちに、呼吸が荒くなってしまっていた。
少し水分補給をしようかと考えていると、スっと竹筒が口元へ寄せられた。
「殿、こちらをお使い下さいませ」
「……うん。ありがとう」
短く礼を言うと、竹筒を傾けて喉を潤す。まるで、俺の思考を読み取ったかのような松の行動が椿のソレと重なってしまい、思わず椿の顔が脳裏を過ぎる。
椿には、もう半年近く会っていない。元気でやっているのだろうか。誰かに迷惑をかけていないだろうか。
そんな父親みたいな感傷に浸りながら、遠くの地にいる椿を思って空を見上げる。
星々が煌めく夜から、太陽が大地を照らす朝へと移り変わっていく様子が地上からでも良く分かる。
大体ではあるが、爛々と輝く朝日が昇るまで、あと二時間程先だろうか。周りの者達も悟ったのか、歩く速度が自然と上がっていく。
これならば、予想より早く目的地へ着くだろう。もしかしたら、綺麗な御来光を見ることも出来るかもしれない。
しかし、俺達の目的は御来光を眺めることでは無い。高丸と雪の生まれ故郷へ訪ねる為だ。二人と交わした約束を守る為に。
***
その後も、誰一人無駄口を叩く事も無く、ただひたすらに山道を進む。
傍を固めるのは、慶次率いる三十名の赤鬼隊に高丸と雪。更には、完全武装した勝蔵が殿を務める。これは、越後国を攻略したとは言えども、未だ完全に統治した訳では無く、先の戦の残党兵がいる可能性を加味した上での編成であった。
そんな三十余名が、真剣な表情を浮かべながら進むものだから、一行の周りには異様な緊張感が漂っていた。
しかし、それも致し方無いことだろう。
高丸と雪の過去は、この場にいる全ての者達が周知している。
その悲劇を知り、どのような感情を抱いたかは分からない。だが、あの二人の帰郷を軽く捉える輩は、誰一人いないと断言出来る。
此度の帰郷は、二人にとって人生のターニングポイントになり得る重要なモノ。それは、口に出さずとも、誰もが察していた。
そして、遂にその時が来る。
「…………ぁ」
小さく息が漏れる声が聞こえたかと思うと、前方を歩いていた雪が一足飛びに駆けていく。先程まで俯いていたとは思えぬ俊敏な動き。この道なき道を、勝手知ったる動きで前へ前へと進んでいった。
瞬く間に遠くなっていく背中を呆然と眺めていると、雪に続くように集団から一つの影が勢い良く飛び出す。高丸だった。
最初は、急に動き出した二人に驚き、思わず固まっていたが、直ぐに二人の行動からこの先に何があるのかを悟る。きっと、この先に二人にとってかけがえのない大切な場所があるのだ。
「松」
「はっ」
松の名前を呼ぶと、何も言わずにゆっくりと俺を地面へ降ろす。足場の悪さに気を付けながら進んでいると、周囲の警戒をしていた慶次と勝蔵が傍へ寄って来た。
「若様。某達は、周囲を固めておきます故に、どうぞ御安心下さりますよう……」
「うん。ありがとう」
深々と平伏する勝蔵を横目に、隣りに立つ慶次へと視線を向ける。俺の視線に気付いたのだろう。慶次は、歯切れ悪そうに頭を掻きながら呟く。
「小童ぁ。彼奴らぁ……ちっとばかし無理してそうでよ。俺はぁ…………正直に言うと、此処に来させるのは反対だったんだが……な」
視線を逸らしながら呟く表情には、仲間を想う兄貴分気質な慶次の性格が滲み出ていた。
きっと、慶次は二人が傷付く事を良しとしなかったのだろう。普段の言動はアレだが、仲間への心配りは欠かさない男だ。軽く捉えてはならない二人の過去に、慶次もどう扱えば正解か分からなかったのだろう。
そんな慶次を安心させるように、微笑みを浮かべながら手を取る。
「余に任せてほしい」
「…………………………頼む」
慶次は、唇を噛み締めながら頭を下げた。その姿を後目に、俺は足を進める。その場所に辿り着いた時、そこに居るのは高丸と雪、そして俺だけだった。
***
立ち尽くす二人の前には、朽ちて倒壊した小屋と思わしき残骸。かろうじて家の面影が見えるソレは、十年と言う残酷な時間の流れを感じさせる。
雪は、覚束無い足取りで一歩、また一歩と家へと近付き周囲に散らばっていた残骸を手に取る。そして、ソレを胸元へ寄せると、涙を流しながら崩れ落ちた。
「……ぅう…………ぁぁ…………うぅ…………」
雪の様子を見守っていた高丸は、瞬時に雪の傍へ駆け寄り、その小さな身体を抱き寄せる。
「雪っ…………ごめん。ごめんなぁ……ごめんなぁ…………ぅぅ……ぅう…………」
その高丸も、唇を震わせながら涙を流していた。その涙に宿る想いの丈は、きっと二人にしか分からない。当事者である二人にしか。
十年前、村人によって殺された両親を埋葬する事も許されず国を出た二人。仕方が無いことだった。あのまま家に居たら、二人は村人に殺されていた。生きる為に、妹を守る為に決断した高丸は間違っていない。
しかし、その決断を高丸自身が許せなかった。両親を見捨てた罪が自責の念となり、高丸の身体を鎖のように縛り付けていたのだ。
雪もまた、己のせいで両親が殺され兄が苦しんでいると嘆いている。当時の年齢では、何も出来なかったと理解していながらも、感情がそれを許さないのだ。
そして、今まで溜め込んでいた二人の想いが、倒壊した家を見て溢れ出してしまった。『ごめん。ごめん』と謝り続ける様子は、慶次が危惧していたソレだった。
このままでは、二人の心が死んでしまう。そう思った俺は、泣き崩れる二人の前に立ち、膝を地面につけて視線を合わせる。そして、懐から小箱を取り出すと二人に見えるように差し出した。
「高丸、雪。二人に受け取って欲しい物があるんだ。どうか、顔を上げておくれ? 」
優しく諭すように語りかける。
『…………殿』
俺の声に反応するように、二人はおずおずと顔を上げた。しかし、どこか怯えたように視線が泳いでいる。辛い現実から逃れるように。
しかし、次に発せられた俺の言葉に、その怯えた姿は直ぐに消え去った。
「これは、二人の御両親の遺品だよ」
『…………っ! 』
小箱を開けて中身を見せる。そこにあった物は、一つの櫛。何の飾り気の無い櫛。されど、二人にはソレに心当たりがあったのだろう。目を見開きながら、口元を震わせる。
「この場所は、白百合の皆が見付けてくれたんだ。二人を此処に連れて行くと決めた時、事前に危険が無いか下調べもしてくれた。この櫛は、その時に見付けた物なんだよ」
他の物が朽ちていく中、この小箱だけは大きな損傷も無く見つかった。まるで、時が止まっていたかのように、ひっそりと残されていたそうだ。
そう伝えると、雪が右手を震わせながら小箱へと伸ばす。雪が落とさないように小箱を握らせると、止めどなく溢れる涙が櫛を濡らした。
高丸は、そんな雪を抱き締めながら櫛の事を語る。
「この……この櫛は、父さんが木を彫って作ったんです。慣れない作業で……何度も何度も失敗して……そのせいで生傷が絶えませんでしたが、雪の為に夜なべして作っていました。母さんは、毎日この櫛で雪の髪をといて……ぅう……」
高丸の語る内容に、思わず目頭が熱くなる。こんな偶然が、本当にあるのだろうか。偶々無事だった品が、二人にとってかけがえのない宝物だったなんて……。
否、きっと偶然では無い。
「きっと、二人を待っていたんだ」
『……ぇ? 』
こちらを見詰める二人を、真っ直ぐに見詰め返す。
「いつか必ず帰って来る二人の為に、御両親がこの櫛を残したんだ。これからも、二人を見守る為に。この先も、二人が前へと歩いて行けるように、家族の絆を残したんだよ」
呆然とする二人の手を握り、三人で小箱を包むように手を重ねる。
「こんなにも高丸と雪の事を愛している御両親が、二人を恨んでいる訳が無いよ。今もずっと、これから先も二人を愛している」
――だから、もう自分を許してあげなさい。
『あ…………あぁ…………ぅわぁあぁあああああぁぁぁあぁああぁあぁっ!!! 』
子供のように泣き崩れる二人を、優しく抱き締める。きっと、高丸と雪の未来は明るい。何故なら、こんなにも二人を愛している存在が見守っているのだから。
この何一つ装飾の無い不格好な櫛は、二人にとってどんな高価な着物や茶器より価値があるんだ。何故なら、この櫛こそが両親から注がれた愛のカタチなのだから。
昇り始めた朝日は、まるで二人へ降り注ぐ御両親の愛のように二人を照らした。
そんな二人を見守るように、番の小鳥が近くの木に止まっていた。調和のとれたその囀りは、二人の未来を祝福する鐘の音のようであった。
***
翌日、毛利家との一年間の不戦条約が解かれた。




