34話
天正十一年 六月 新潟 新発田重家
黒丸に跨り、戦場を一直線に駆け抜ける。そんな俺達の前を塞ぐ勇敢な者もいたが、一度最高速度にまで加速した黒丸の前では、為す術も無く吹き飛ばされるのみ。
俺は、ただただ必死に手綱を握り締めながら、黒丸に跨り続けた。
勿論、左手一本では、しがみついていないと振り落とされてしまうのもある。だが、それ以上に、この地獄絵図の如き惨状から、目を背けたかったのが、嘘偽りの無い気持ちだった。
昔、一度だけ寺で見た絵巻。そこに記されていた餓鬼が蔓延る世界が、目の前で繰り広げられているのだ。到底、この世のモノとは思えぬおぞましいその有り様に、本能的な恐怖を感じていた。
一体、この戦いはどうなってしまうのか。
それは、戦場に立つ者ですら分から無いだろう。
その後、数多の敵兵を薙ぎ倒しつつ、必死に戦場を駆けていると、次第に人が少なくなり、俺達は無事に戦場を抜ける事が出来た事を悟る。
「……黒丸。もう少しだけ頑張ってくれ」
優しく首筋を撫でると、黒丸が鼻息を荒くしながら右側へ進路を変える。その方向には、大きな岩が見える。裏手に回れば、この身を隠す程度の物陰はあるだろう。
正直、そこまで立派なモノでは無い。方向次第では、簡単に見つかってしまうだろう。大きく見積もっても、数人が隠れられる程度の物陰だが、そろそろ止血せねば命に関わるからな。贅沢は、言ってられん。
視線を向けてみれば、砕かれた篭手が真っ赤に染まっている。そこから流れ落ちる血が、太腿にまで赤い道を作っていた。
「最悪……傷口を焼かねばならんな」
やはり、手早く応急処置を済ませて新潟城へ向かうのが得策……か。俺は、唇を強く噛み締めながら手綱を引いた。
***
そして、時は現在へと戻る。
手早く応急処置を済ませた俺は、陽の傾き方から野宿を決意。岩を背に、片膝を立てたまま瞳を閉じた。
もし、今直ぐに新潟城へ出発すれば、道中で完全に陽が落ちてしまうだろう。夜間の移動は、非常に危険を伴う。であれば、早朝まで身を隠して体力を回復させるのが得策だと判断したからだ。
岩に身を預けながら、不意に瞳を開けて空を見上げる。夕焼け色に染まった空は、刻一刻と姿形を変え、今にも星々の煌めきが顔を覗かせようとしている。
正直、危険を顧みず強行する手段も考えた。
視線を右腕に移すと、荒々しく布で止血された様子が見える。しかし、良く見れば止血に使用した布が、じわじわと赤色に染まっていく様子が伺える。
そんな状態の右腕を見て、思わず寒気で身体を震わせる。隠密に徹している今、火をおこす事は出来ない。六月とは言え、雪国である越後国は夜になると格段に冷える。前日まで雨が降っていたのだから、それも致し方ない事だろう。
それ故に、この状況に不安を感じざるを得ない。暖も取れず、いざという時に傷口を焼けないこの状況で、本当に朝まで持つのか……と。
「はぁ…………」
思わず溢れる溜め息。敵兵のみならず、落ち武者狩りにでも見付かれば即座に討ち取られる現状。まさに、絶体絶命。悪い予感ばかり頭に浮かんでは消えていく。
そんな不安に押し潰されそうになっていると、不意に左側から衝撃が襲う。
「ぅおっ!? 」
その予想だにしない衝撃に体勢を崩しながらも、何とか転ばないように耐えて視線を向ける。すわ敵襲か! と、身構えるも、そこには鼻息を荒くしながらこちらを見下ろす黒丸の姿があった。
黒丸は、先程見付けた湧き水を飲みに行かせた筈だが、もう満足したのだろうか?
「黒丸? もう、水と草を食べ終わったのか? 」
首を傾げながら問いかけると、黒丸は一度大きく鼻息を吹くと、その場に座り込んで寝息を立て始めてしまった。
凡そ戦場でする行動とは思えぬ大胆な姿に、思わず苦笑が漏れる。
「そうだな。此処で慌てふためいても、無駄に体力や精神力を浪費するだけ。であれば、未来の事は神に任せて、俺達は気楽に行くとするか」
そう言いながら、黒丸の首筋を優しく撫でる。その瞬間に、煩わしいと言わんばかりに身動ぎして手を振り払われる。その普段と変わらぬ対応に苦笑しながら、ゆっくりと黒丸にもたれかかった。
何気無い相棒の気遣いが、胸の奥に住み着く恐怖や不安を晴らしてくれた。
早朝、陽が昇り始める直前に出発する。後は野となれ山となれ。既に、賽は投げられているのだから。
俺は、瞼をゆっくりと閉じた。
***
翌朝、目を覚ました俺は、周囲の状況に耳をすましながら身体を伸ばす。注意深く見渡しても敵兵の姿は無く、どうやら無事に朝を迎える事が出来たみたいだ。
しかし、見上げた空模様に顔をしかめる。
「……よりによって、晴天……か」
昇り始めた太陽が地平を照らし、白みがかった空が鮮やかに色付いていく。
ここ数日続いていた不安定な天候が嘘のような快晴。普段であれば喜ばしい事だが、今の状況では最悪の気候と言っても過言では無い。
周囲に視線を向ければ、遠くの方まで見渡せた。こうも視界が良好だと、遠目からでも地を駆ける俺達の姿を視認する事が出来るだろう。上杉軍の追っ手から逃れる為にも、曇り空の方が好ましかった。
「…………致し方無い」
悔しげに唇を噛み締めながら、黒丸に跨って出発する。このまま突っ立っていても状況は変わらん。
であれば、一足飛びに駆け抜けるのみぞ!
両手で頬を叩き、気合いを入れ直す。そんな俺に同意するように、黒丸が嘶いた。
手綱を強く引き、新潟城へと駆けて行く。微かな希望を胸に抱きながら。
***
されど、運命はどこまでも公平であった。
黒丸と駆け抜けること数刻、俺達は新潟城の目の前まで来ていた。早朝だったからか、はたまた運が良かったのか。出発してから、一回も敵兵に見付かる事無く新潟城へ辿り着けた。
「良く頑張ったな。黒丸。あと、もう少しだ」
黒丸の首筋を撫でながら呟くと、安堵の溜め息を吐く。未だに危機的な状況に変わりは無いが、それでも、この窮地を乗り越えた事実に安心感を覚えてしまったのだ。
それ故に、その一撃に気付く事が出来なかった。
――ヒュンっ!
空を切り裂く音。大きく体勢を崩す黒丸。大きく揺れ動く視界。明らかに、黒丸の様子がおかしい。特に違和感を感じた左側に視線を向けると、そこにはおびただしい鮮血に濡れる左脚があった。
「黒丸っ!!? 」
普通では有り得ない光景に動揺するも、何とか手綱を引いて黒丸に指示を出す。少しでも速度を落とさねば、落馬の衝撃で黒丸の脚が完全に壊れてしまう。そうなれば、命を絶たねばならん!
しかし、そんな願いも虚しく、黒丸は左脚から崩れ落ちるように地に伏せた。
激しい衝撃が全身を襲い、凄まじい土煙が辺りに立ちこもる。朦朧とする意識の中、俺の瞳には新潟城の門から出てくる軍勢が写っていた。上杉家の旗を掲げる軍勢……が。
***
その頃、新潟を駆ける一陣の軍勢がいた。
秀吉の誤算。官兵衛の策謀。蘆名の混乱。数多の未来が枝分かれする決戦。最早、神に運命を委ねるしかないと思っていた。
だが、まだあの男が残っていた。
新潟で起こっている異変に、いち早く気付き二の矢を放ってみせたのだ。
先頭を駆ける男の背には、六文銭の旗印。
男は、優秀と言われていた。齢十八の青年であったが、その穏やかな気性と文武両道を実践出来る優秀さに、家臣は主家の将来に夢を見た。
しかし、男は天才では無かった。
頭脳は、父に劣る。槍術は、弟に劣る。
否が応でも引き合いに出される父と弟。
『素晴らしい好青年だ』『うむ。……だが、弟君の方が才気があるな』『殿の血を継いだのは、残念ながら弟の方じゃな』『…………兄上』
脳裏に焼き付いて離れない皆の顔。
凡人は、どんなに努力しても天才には敵わない。
そんな事は、この男が一番分かっていた。
それでも、男は努力し続けた。
諦めない限り、必ず道は開かれるのだと――
その男の名は、真田信幸。




