33話
天正十一年 六月 新潟 新発田重家
刀を振りかざす敵兵。この絶体絶命の状況に、己の最期を悟った俺は、ゆっくりと瞳を閉じた。この覆せない戦況に、諦めてしまったのだ。
しかし、一向に訪れない痛みに、恐る恐る顔を上げる。視線の先には、俺を庇うように立ち塞がる勘五郎の姿があった。
「…………勘……五郎? 」
瞳に写るのは、いつも傍で支えてくれた背中。その背中から伸びる血染めの刀が、俺に何が起こったのかを悟らせた。
勘五郎は、俺を庇って斬られたのだ。
それを理解すると、目の前の光景が鮮明に色付いていく。右肩から骨を断ち切るよう振られた刀が、胸元にまでくい込んでいる。滴る血が、刀の先端から一雫ずつ地面に染みをつくる。
誰がどう見ても致命傷だった。
「勘五郎っ! 」
そんな状況に、堪らず手を出して勘五郎に駆け寄ろうとする。
このままでは、勘五郎が死んでしまう。俺のせいで、また大切な人が死んでしまう。それが、堪らなく怖かった。
しかし、それを制するように勘五郎が叫んだ。
「義兄上っ! 来ないでくださいっ!!! 」
普段とは掛け離れた声量に、思わず身体を止めてしまう。中途半端に伸ばした手が、虚しく震えていた。直ぐそこにあるのに、何故だか一向に前へ進まなかった。……進めなかった。
勘五郎は、そんな俺を一瞥する事は無く、自らの身体に刺さった刀に視線を向けたかと思うと、一思いにその刀身を握り締めた。
苦しそうに唸る勘五郎。刀を動かせず焦る敵兵。何度も何度も、敵兵の蹴りが勘五郎の身体を痛め付けるも、勘五郎は一切動じる事無く刀を握り締め続けた。
一蹴り毎に揺れ動く身体。骨が軋むような鈍い音が、離れた俺にまで聞こえる。それを耐え続ける勘五郎の姿は、残った生命力の全てをこの一瞬に燃やし尽くすかのように思えて、堪らず叫んでしまった。
「もう止めてくれっ!!! このままでは、このままでは! 勘五郎が、死んでしまうぞ! 俺は……俺は…………そんなことっ……」
抑えきれず流れる涙。何とか立ち上がろうと、残された左腕に力を込める。もう手遅れなのは分かっていた。俺がすべき事も分かっていた。
だが、このまま勘五郎を見殺しにする選択は無い。大将としてでは無く、一人の義兄として見捨てる訳にはいかなかった。
「くっそぉおおおおっ!!! 動け動け動け動け動け動けぇぇぇぇぇぇぇっ!!! 」
――嫌だ。
その一言が頭を真っ白に染め上げる。
もう……建前とか、面子なんてどうでも良い。周りから、『みっともない奴だ』と、蔑まれても構わない。
小刻みに身体を震わせながら、ゆっくりと立ち上がる。少し動かすだけで、全身を鋭い痛みが走る。それでも、俺は必死に堪えた。
俺は、もう二度と大切な人を失いたくない!
「嫌だ!! 待ってくれ!! 頼む、待ってくれっ!!! もう……もう、誰にも死んでほしくないんだっ!!! 」
恥も外聞も無く、嗚咽混じりに叫ぶ。弱々しく伸びた左手が、視界の端で揺れている。
こんな状態で、一体何が出来るのか。
勘五郎の命を無駄にする気か!
そんな幻聴を振り払うように、一歩足を踏み出した。勘五郎を助ける。その一心で、進み続ける。
もう、ほとんどの感覚が鈍り、視界の端が暗転するように弾ける。それでも尚、前へ進むことを止めない。
そんな極限状態の中、不意に声が聞こえてきた。
『…………義兄上』
不思議と耳に残る優しげな声音。その声が聞こえた時、周囲の音が遠ざかっていった。
俺は、ゆっくりと声のする方へ視線を向ける。そこには、今も尚、敵兵の前に立ち塞がる勘五郎の背中が見える。
先程と、差程変わらぬ光景。しかし、俺には、確かに勘五郎が少しだけ振り返ったように見えた。
薄らと微笑む勘五郎の口元が、ゆっくりと開いていく。
『さようなら。…………義兄上』
その一言一句を、涼やかな風が運ぶ。溢れ出す感情が、限界寸前だった身体を突き動かした。
「勘五郎…………っ! 」
しかし、その直後に甲高い音が鳴り響き、思わず身体を止めてしまった。勘五郎に視線を向ければ、右手を口元に添えている。
今のは、勘五郎の指笛か?
そんな疑問もよそに、遠くの方から凄まじい土煙が近付いて来た。その予想外の事態に目を白黒させながら膠着。その近付いて来るモノの正体を見極めようと目を凝らす。
美しい黒毛に、鍛え抜かれたトモ。その大きな身体には、数多の戦場を駆け抜けた勲章が刻まれている。
そう……俺の愛馬である黒丸が、そこにいた。
「何故……此処に……黒丸が? 」
訳も分からず、呆然と呟く。
黒丸は、もう随分前に戦場から遠ざけた筈だ。こんな混戦で騎乗していては、あっという間に敵に囲まれてしまう故にだ。
その黒丸が、敵兵を薙ぎ倒しながら颯爽と戦場を駆けている。まるで、『主人を助ける為に現れた』と、言っても過言では無いその姿に、思わず手を広げて黒丸を待ち構える。
黒丸は、俺の姿を視認すると、徐々に速度を落とし、そして目の前で立ち止まった。息を荒くしながらも、真っ直ぐにこちらを見詰める瞳には、確かな意志を感じられる。
「すまん。ありがとうな。黒丸」
首筋を撫でながら礼を言う。すると、早く乗れと言わんばかりに、鼻息を荒くしながら手を振り払われてしまった。
そんな黒丸に急かされるように跨ると、最後に勘五郎へ視線を向ける。そこには、今にも戦場から逃げ出しそうな俺を討ち取らんと騒ぐ敵兵を、必死に抑える頼もしき背中があった。
その背中に声をかける事も無く、手綱を引いて黒丸に指示を出す。次の瞬間には、黒丸が凄まじい土煙を上げながら走り出す。
後ろは、振り返らなかった。
振り返らずとも、勘五郎の勇姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。勘五郎は、己の命が尽きるその時まで戦い抜くと分かっていたから。
一度でも振り返ってしまえば、勘五郎の元へと戻ってしまいそうになるから。
俺は、新発田家当主として、生きて新潟城へ戻らねばならないと分かっていたから。
だから、俺は必死に戦場を駆けた。
一雫の想いを戦場に刻んで――
夜明けは、未だ遠い。
***
貴方と出会えて幸せでした。
戦場で、果敢に敵陣へ突入する貴方に、何度も勇気を貰いました。その分、肝を冷やす事も多々ありましたが……それ以上に、楽しかった。
初陣を終えた日の夜。貴方は、私の為に、こっそり蔵から酒を持ち出しましたね。次の日、先代様に叱られましたが、貴方の優しさが何よりも嬉しかった。
死ぬのは怖い。まだ、貴方の隣りで戦場を駆けたかった。だけど、気付いたら貴方を庇っていた。その事を、疑問に思う事は無かった。斬られた瞬間に、自分の気持ちを察してしまったから。
庇うなんて当たり前だった。忠義故では無い。ただ、貴方を守りたかった。だって、自分の命より貴方の命の方が、私にとって重かったから。
だから、私はこの選択を悔いる事は無い。
貴方の傍に居られて、貴方に頼って貰えて、貴方を守ることが出来て、私は幸せでした。




