32話
天正十一年 六月 新潟 新発田重家
砕け散る鎧。刀身が半ばから折れた愛刀。血塗れた篭手は、最早真っ黒に染まり固まっている。切り裂かれた右腕は、既に感覚が無い。
敵兵に見付からないように物陰に行くと、片膝を着き、口を使いながら布で右腕の止血を試みる。視界が揺れているのは、度重なる戦いの疲労からか、はたまた血を流し過ぎたせいか。
鼻を刺激する強烈な臭いに顔を歪めながら、黙々と布で右腕である縛り付けた。
ようやく止血を終え、立ち上がらんと膝に力を入れる。ふらふらと、思うように動けない。しかし、此処は戦場。何処から敵兵が現れるか分からない。これ以上、致命的な隙を見せる訳にはいかないのだ。
歯を食いしばり、何とか重心を整えようと刀を抜く。地面に突き刺した刀で身体を支え、視線を周りに向ける。
そこには、地獄が広がっていた。
「な……んという……こと…………だ」
折れた刀身を片手に、何度も何度も倒れ伏す敵兵を刺す者。動かなくなった味方の衣服を剥ぐ者。仲間を庇うように、重なり合って死んでいる者。絶叫を上げながら、敵兵と切り結ぶ者。笑い声を上げながら、狂ったように槍を振り回す者。
――あまりにも……おぞましい。
未だかつて、これ程までの惨劇があっただろうか。一寸先には、濃厚な死の気配が漂い、数多の絶叫と絶望が幾重にも重なり合う。そこに、人としての尊厳は無く、狂気に染まった者達が意味の無い殺戮を繰り返す。
そこには、武士も百姓も無い。己が、何の為に武器を振るっているのかも定めていない。味方が目の前で死んでいても、一切見向きもしない。
数多の戦場を経験した俺ですら、目の前の光景を見て吐き気を催す。此処にいる全ての人達は、最早正気では無いのだ。……否、正気のままでは耐えられなかったのだろう。
自ら狂った者の末路は、想像に難くない。
刻一刻と山の向こうへ沈む太陽。山々の間から照らす夕日が、大地を真っ赤に染め上げる。その色は、夕陽によるものか、はたまた戦場で流れた血のよるものか。
地獄絵図。
この状況を、表す言葉はソレしか思い付かない。
上杉軍と戦ったのは、未だ陽が昇りきっていない早朝。そこから、蘆名軍が襲来したのは昼前のことだ。それから、ずっと終わる事の無い戦いを続けている。いつまでも、いつまでも血を流し続けている。
この戦いの果てに、一体何を得られるのか。どれ程の大切なモノを失わなくてはならないのか。
思わず見上げた空は、憎たらしい程に赫かった。
***
時は、一刻程前に遡る。
上杉軍との戦い。蘆名軍の襲来。三つ巴の大混戦。度重なる予想外の事態に、戦況は目まぐるしく変わり、その状況を瞬時に見極め最適な指示を出す。
だが、一刻……二刻と時は流れ、絶え間無く続く選択の末に、次第に流れる時間の感覚が段々と薄れ、思考は鈍っていった。
当たり前だ。人は、こんな長時間集中力を保つ事は出来ない。ましてや、一つの悪手が死に直結する極限の中、全ての選択に最善手を出し続けるのは不可能に近い。遅かれ早かれ、悪手を出してしまうのは容易に想像出来た。
そう……俺は、間違えてしまったのだ。
最悪の状況で。
左から迫る蘆名兵。数は二人。周りの状況から、こちらへ駆け付けられる仲間はいない。であれば、片方の重心を崩すのが上策!
『新発田ぁああああっ!!! 』
刀を構えながら低空を疾走するように、蘆名兵が突撃する。その瞳には、確実に俺を殺さんとする殺気が込められており、思わず槍を握る手に力を込める。
「ぬんっ!!! 」
歯を食いしばり、迫る蘆名兵を薙ぎ払わんと槍を振るう。槍は、轟音をたてながら左側の蘆名兵に直撃。直後に響く鈍い感触を感じながら、隣りの蘆名兵諸共吹き飛ばす。
『ぐはぁっ!? 』
泥にまみれながら吹っ飛ぶ蘆名兵の姿に、とどめを刺さんと槍を構える。
しかし、俺は此処が混戦の最中だと失念していた。目の前の蘆名兵以外にも、この戦場には多くの兵が入り乱れているのだ。
「義兄上っ! 」
勘五郎の切羽詰まった悲鳴が聞こえたと同時に、右腕に激痛が走る。
「がぁあああぁぁあぁあっ!!? 」
篭手の隙間を縫うように、水平に刀が腕を貫通する。堪らず絶叫を上げると、腕の内部を捩じ切るように刀が回転する。
「ぎぃいぁぁああぁあっ!!? 」
今まで経験した事の無い痛み。視界が分規則に揺れ、堪らず地面に倒れ伏す。あまりの痛みに気絶する事すら許されない俺は、唇を噛みしめながら顔を上げる。そこには、気味の悪い笑みを浮かべた中年の男が、刃こぼれした刀を振りかざしていた。
――あぁ……此処で終わりか。
悟ってしまった最期に、ゆっくりと瞳を閉じる。最早、己の命が助かる道は無い。であれば、無様に足掻くのはよそう。
もう、無理なのだ。
蘆名軍は、縦横無尽に戦場を掻き乱し、新発田軍は対応に追われる。その隙を、上杉軍が確実に攻め立てるのだ。
後手後手に周り、着実に傾いていく兵力差。千二百人の仲間達は、千……八百……五百……と、数を減らしていった。もう、誰が生き残っているのかも正確に分からぬ。
結果として、蘆名軍と上杉軍に挟まれた新発田軍は、その単純な兵力差に押し潰されていた。
瞳を閉じる前、最期に見えた光景が鮮明に脳裏を過ぎる。あの時見えた光の道筋は……瞳に写っていた勝利の道筋は、完全に絶たれていた。
絶たれていた……筈だった。
凄まじい風切り音が鳴り響き、直後に鮮血が宙を舞う。低い唸り声が聞こえたかと思えば、吐血したような咳が聞こえた。
待てども待てども一向に振り落とされない刀。生暖かい液体が顔を汚し、ゆっくりと口元まで垂れてくる。
血だった。
口元を手で拭い、瞳を開けて確認する。鮮血で真っ赤に染まった右手が、これが幻覚では無い事を示していた。
痛みは無い。俺が斬られた訳では無い。
なら、誰が――
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、両手を広げて俺を守る背中があった。
「…………勘……五郎? 」




