10話
時は、四月十七日明朝へ遡る。
松倉城の異変を感じ取った小国実頼は、上杉家当主上杉景勝の右腕として名高い兄・直江兼続の指示を乞う為に、四千五百の兵を率いて春日山城へと向かった。
この日は、朝から冷たい雨が降っており、軍の士気は最悪に近かった。絶えず降りしきる雨で体温を奪われ、指揮する小国実頼からの怒号が容赦なく浴びせられる。
こんな状況で士気が上がる筈が無い。
結局、小国実頼の指示に背ける訳も無く、兵士達は休む事も無く足を動かし続けた。
険しく細い山道を、視界不良の中ひたすら進む。この天候で足が取られ、余計に体力を使わされる。それでも、兵士達は休みを与えられる事は無かった。
その判断が、小国実頼の最大の悪手であった。
***
天正十一年 四月 越中国 天神山城 小国実頼
冷たい雨が降りしきる中、俺は思い通りに進まぬ行軍にしびれを切らしていた。
「まだ山を下れ無いのかっ!!! 天神山城を出て、既に一刻以上過ぎているのだぞ!!! 」
胸の奥から沸き立つ怒りに身を任せ、横にいる家臣へ拳を振り落とす。その瞬間、拳から伝わる鈍い音と、肉を潰したような気色悪い感触に苛立って舌打ちをする。
すると、殴り飛ばした家臣が、泥にまみれながら必死に頭を下げてくる。
「も、申し訳ございませ……っ! 」
続く言葉を言わせぬように、足を振り下ろして顔を泥の中へ埋める。苦しそうに藻掻く様に、少し気が紛れた。
「と、殿! お止め下さいませ! し、死んでしまいますぞ! 」
そう言って歩み寄る家臣に、殺気を込めながら睨む。
「黙れ。それとも、貴様が代わりになるか? 」
「……っ! 」
すると、家臣は身体を震わせながら視線を逸らす。所詮口だけな男を鼻で笑うと、更に足へ力を込めた。
暫くそのまま踏み付けた後に、ようやく足を退ける。すると、男は苦しそうに何度も何度も深呼吸を繰り返した。
「…………ひゅっ…………ふぅ…………ひゅっ……」
その惨めな姿が癪に障り、男の髪を掴み吊り上げる。すると、怯えた表情を浮かべながら、うわ言のように謝罪を繰り返す。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「黙れ」
「ひぃっ!? 」
殺気を込めながら睨むと、口元を両手で押さえて後退る。その完全に萎縮した態度に、周りの者達も同様に顔を青ざめる。
「何度同じ事を言わせたら気が済むのだ? 俺は、謝罪など求めておらぬ。"いつまで時間を掛ければ気が済むのだ"と、問うておるのだ。俺の疑問は、間違っておるか? 」
「ひっ! ひぃいいいっ!? 」
男は、俺の問いに答える事も出来ずに、失禁しながら気を失った。そのあまりにも情けない姿に、腹の底から怒りが込み上げてくる。
「織田家との戦いは、時間との勝負でもある。我等は、一刻も早く春日山城まで行かねばならんのだ! であれば、この距離の下山に、これほど時間が掛かるなど言語道断っ!!! 貴様等には、栄えある上杉軍としての誇りが無いのか!? 」
周囲を睨み付けながら怒鳴り散らすと、兵士達は一斉に姿勢を正して頭を下げる。
『も、申し訳ございません!!! 』
先程と全く変わらない謝罪に、再度苛立ちを覚えるも、流石にこれ以上時間を無駄に出来ないので必死に堪える。
「……チッ! これ以上、無駄な時間は掛けられん!!! 索敵を最低限に抑え、先鋒部隊千人を迅速に下山させよ!!! 後列部隊は、先鋒部隊の通った道を進めば良い! さすれば、今よりも速く下山出来るだろう。……良いなぁっ!!! 」
『は、ははっ! 承知仕りました!!! 』
兵士達は、仰々しく頭を下げると、先程とは比べ物にならないくらいの速度で進み始めた。
全く、初めからそうすれば良いのだ。これでは、二度手間では無いか!
内心悪態をつきながら、足を動かし続ける。ふと視線を向ければ、先程より雨足が強まっており、ほんの少し先すら良く見えなくなっていた。
しかし、これ以上時間は掛けられん。多少無理してでも進まなくては! 早く、兄上の元へ馳せ参じ無ければ! 逸る気持ちが、足を浮き立たせる。
一応ではあるが、伏兵の存在を注意しなくてはならない。だが、特に問題は無いだろう。最低限で構わん。
何故ならば、現在の織田軍は、魚津城と松倉城にかかりきりになっており、まだ天神山付近にはいないからだ。
ならば、安心して進められるってものよ!
***
物見からの情報を過信し、無理矢理行軍を推し進める小国実頼。その横暴な態度は、遥か前方の兵士達にまで知れ渡り、更に士気が下がっていく。
それでも、下山しない事には始まらないと、嫌々足を動かし続け、遂に木の隙間から映る視界に、開けた大地が見え始めた。
「や、やった! 地上だ! 」
「あっ……ちょ!? おまっ…………」
ようやく下山出来た喜びからか、一人の青年が集団から飛び出す。
「おい! 俺たちも続くぞ! 」
「えっ? ……いや、しかし…………」
「俺も、もう限界だ。とっとと下山して、足を休ませようぜ? まだまだ本陣は、上の方だろうしよぉ」
「……んだな」
「おい! 勝手なことを………………」
一人、また一人と足早に集団を飛び出す。それを止める声も上がったが、その青年に続く者達の声に上書きされてしまった。
……それこそが、彼等の最大の不運である。
ソレに気付いた者は、奇しくも最初に飛び出した青年であった。
「……ん? なんだ……あれ? 」
視界に入る黒い影。ゆらゆらと漂いながら、段々と大きさを変化させる。青年は、見間違いかと雨で濡れる顔を拭い、再度視線を向ける。
その瞬間、額を槍が貫いた。
「…………えっ? 」
青年は、呆然とした表情のまま絶命。悲鳴一つ上げる事無く倒れた同僚に、周囲に居た者達が騒めき立つ。
「一体何ご………………と……………」
周囲を見渡し異変を調べる。その一動作が、命取りになってしまった。彼は、気付いてしまったのだ。己に迫り来る脅威の正体に。
「え…………お、織田…………」
固まった身体。凍り付いた思考。乾いた喉。そんな一瞬の隙を、戦場で晒してしまった事が彼の死因であり、その隙を見逃さないのが鬼である。
「全軍行進っ!!! 目の前の雑兵を飲み込み、一気に天神山を駆け登るぞっ!!! かかれぇかかれぇぇぇぇぇぇっ!!! 」
『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!! 』
『丸に二つ雁金』の旗を背に、鬼の号令が響き渡る。総勢一万五千。織田家筆頭大老柴田勝家が、その猛威を振るわんとしていた。




