29話
天正十一年 一月 安土城 羽柴秀吉
上杉征伐。
織田家にとっても、三法師様にとっても分岐点に成り得る最重要事項。様々な思惑が交差する中、儂は少しでも良い結果へと繋げるべく、権六殿の屋敷へと出向いていた。
幸いにも、権六殿が上杉征伐の方針を固める前に報せる事が出来た。儂は、その事実に安堵の溜め息をこぼしてしまう。
間に合った……そんな想いが、胸の内を縦横無尽に駆け巡る。此度の上杉征伐では、儂は直接戦う事は出来ないが、少しでも力になりたかった。
特に、権六殿には以前の雪辱を果たして貰いたい。これは、儂の嘘偽りの無い本心。儂にとっても、因縁深い上杉家。この胸に宿る熱い想いは、決して戦場で戦う兵士達に劣らぬ想いだ。
今から六年前。未だ鮮明に脳裏へ焼き付いている雪辱の記憶。あれは……冷たい雨の降る日であった。
***
手取川の一戦。
軍神上杉謙信と、織田家が真っ向からぶつかり合った初めての戦。膠着状態が続いていた両家が遂に相反し、これからの織田家を左右すると言っても過言では無い戦い。絶対に、負けてはならない戦いだった。
しかし、儂は愚かにも、権六殿との仲違いから勝手に陣を離れ、織田軍は上杉謙信に完膚なきまでに叩き潰された。
七尾城の凄惨な反乱も、進軍を阻害する一向一揆勢も、誰一人帰らぬ斥候も、全ては上杉謙信の策略がもたらしたもの。
情に厚い権六殿が七尾城救援を急ぎ、情報を重んじる儂がソレに反発する事も予想通りだったのだろう。
終始、儂らは上杉謙信の手のひらの上をぐるぐる回っていただけなのだ。
何たる屈辱か、無様な姿を晒した己自身にも、無性に腹が立つ。この借りは必ず返す。煮えたぎる憤怒を身に纏い、そう決意したのだ。
***
そして、遂にやってきた雪辱を果たす一世一代の機会。その熱い想いが、今までに無く頭を冴えさせる。
これからの展開を想い描きながら、感慨深く頷いていると、権六殿が不意に疑問を投げ掛けてきた。
「して、藤吉郎はどうするのだ? お主も上杉征伐に参加するのか? 」
そんな事を聞いてくる権六殿に、手を振りながら否定する。
「はっはっはっ、流石に大老が三人も抜ける事は出来ませぬよ。此度は、大人しく留守番をしております」
「そうか……」
少し気落ちする権六殿。ともすれば、権六殿も儂と同じく手取川の一戦の借りを返したかったのかもしれんな。
であれば、儂の頼みも聞いてくれるやもしれん。
そんな打算を胸に秘め、儂は本題を切り出した。
「儂は、上杉征伐が完了次第、三法師様と共に春日山城へと向かう予定にございます。儂の仕事は、戦後の後始末でございましょう。今後、北陸地方を織田家が円滑に支配する為に、精一杯精進するつもりでございます」
「そうかそうか。儂は、そういった調整は、ちと苦手でな。助かるぞ」
権六殿は苦笑する。武闘派揃いの柴田軍ならではの悩みだろう。それに相槌を打ちながら、一つのお願いをする。
「はっはっはっ、万事お任せ下さい。人には向き不向きがございます。こう言った仕事は、まさに儂向きの仕事。喜んで引き受けましょう。……そこで、権六殿に一つ御願いの儀がございます」
「ん? なんだ? 」
首を傾げる姿を後目に、儂は深々と頭を下げる。
「権六殿には、奥州勢とも親交があると聞き及んでおります。是非とも、伊達家との繋ぎをしていただきたいです。どうか、御願い致します」
「……? ………………っ! 」
その時、権六殿は最初は不思議そうに首を傾げていたが、暫くすると儂の意図に気付いたのか、目を見開いて驚きを顕にしていた。
数拍の静寂。
権六殿は、儂に何かを告げようと口を開くも、その言葉は声になる事は無く宙に溶けていく。それでも、何度か言葉にしようとするも、結局形にはならず、遂には顔を伏せてしまった。
「…………以前ならば、"何を企んでいるのだ"と、お主を問いただしたのだろうな」
権六殿は、自重気味にそう呟くと、目元に手を寄せて身体を震わせる。
「………………正気か? 」
どこか、震えた問いかけに、笑顔で答える。
「正気でございます。これが、儂の仕事でございますから」
儂の答えに納得がいかなかったのか、権六殿の伏せていた視線が儂を貫く。
「藤吉郎以外にもやれる者はおる。それこそ、儂が行えば良いではないか」
権六殿の提案に、首を振って拒絶する。
「権六殿は、織田家筆頭家老。織田家の大看板にございます。そんな御方が汚れ仕事をしては、下の者に示しがつきませぬ。斯様な汚れ仕事は、儂のような外道に任せれば良いのですよ。生憎、武士の誇りも無い獣故に、批難を受けようがどうと言うことは…………」
――ドスッ!!!
続く言葉が出る前に、儂の視界は反転した。鈍い音が響くと同時に、頬を衝撃が襲う。仄かに滲む血の味が、権六殿に殴られた事を示していた。
「権六殿……」
「戯けた事を申すなっ!!! 外道だと……獣だと……? 巫山戯るな! 織田家の為に手を汚す者を、他でも無いお主がそんな言葉で表すな! 」
権六殿は、再度振りかぶって握り拳を叩き込まんとする。しかし、その拳は儂に届くことは無く、空中で急速に力を失い下へと落ちていった。
「…………権六殿」
力無く崩れ落ちる権六殿の肩に手を置くと、普段では到底考えられないか細い声が聞こえてきた。
「何故…………織田家の為に、三法師様の為に、そこまで己自身を犠牲に出来るのだ…………」
情に厚い権六殿らしい呟きに、儂は自然と答えを告げた。
「儂のような六つ指の鼠を、上様は何も気にする事は無く召し抱えて下さった。異形の獣だった儂を、上様は人間に戻して下さったのです。その恩は、儂の生涯全てをかけても返せませぬ。その上様の意志を継いだ三法師様の為に、この命を懸ける事は、儂からすれば当然の事なのですよ」
民を……儂のような下賎な身の上の者達を、分け隔て無く愛せる三法師様ならば、きっと儂の夢を叶えられる。
生まれや環境で、その者の未来が左右される事の無い未来を。もう二度と、身分が低い者達が足蹴にされる事の無い未来を、儂が願って止まない輝かしい未来を叶えてくれる。
――その未来に、儂の姿は無くても構わない。
そんな想いを胸に、儂は鬼となるのだ。
***
羽柴秀吉が決意を固める頃、安土城下町に構える屋敷の一室で、一人の男が火鉢にて暖を取っていた。
何を考えているのか分からない無表情。その顔を見た者が、思わず後退りしても可笑しくない不気味な雰囲気を漂わせる男の手元には、一枚の文が握られている。
「上杉家が、降伏宣言とは……な」
――実に、面白く無い。
そう呟くと、文を火鉢にくべる。パチパチッと、火花が弾ける音が静かに響き渡る。
男の名は――
黒田官兵衛。
これにて、第三章は完結となります。次話より、第四章開幕となります。第四章は、上杉征伐に始まり、戦争パート多めとなります。
いよいよ、天下統一への戦いが本格的に始まります。どうか、今後も三法師を応援して上げてください。
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