28話
天正十一年 一月 安土城 羽柴秀吉
天守閣を後にした儂は、その足で権六殿の元へと向かう。背後から聞こえる苦悶に満ちた呟きを一身に受けながら、ただただ足を動かし続ける。
後悔はある。やり直す事が出来るならば、どんなに良いだろうか。それでも、進み続けなくてはならない。立ち止まる事は許されない。
儂は、この命にかえても三法師様を王にする。
***
城下町に構える屋敷の一つに、権六殿の住居がある。儂が着いた頃には、既に陽は落ちて辺り一帯を深い闇が覆っていた。
普段であれば、既に床に就く頃合いではあるが、館には多少の灯りが照らされていた。上杉征伐の調整をしているのだろうか、少々申し訳無く思うがこちらも火急の用。早速、取り次いで頂こう。
門へと足を進めると、すぐさま門番がこちらへ駆け寄ってくる。
「そこの御仁、足を止めなされ。こちらの屋敷は、織田家筆頭家老柴田修理亮様の物。斯様な夜分遅くに何よ……う!? 」
灯りに照らされて、闇夜に儂の顔が映し出される。どうやら、この門番は儂の顔に見覚えがあるようだ。おそらく、権六殿の傍付きであろう。
「ち、筑前守様っ!? な、何故此処に…………はっ! さ、先程は失礼致しました。何卒無礼を御許し頂きたく存じます」
慌てて平伏する男の肩に、柔らかく手を置く。
「いえいえ、火急の用とは言えども先触れを出さなかった儂の落ち度。お主は、門番としての責務を果たしたに過ぎぬ。頭を上げなされ」
「は、ははっ! 」
ようやく頭を上げた男に、にっこりと微笑んで取り次ぎを頼む。
「では、権六殿へ取り次ぎを頼みたい。藤吉郎が火急の用で参った……と」
「ははっ! 少々お待ち下さいませっ! 」
駆け足で去っていく姿を見送りながら、深い溜め息をつく。先触れを出すのを忘れる等、普段の儂なら決してしない落ち度。大老として不甲斐なし。反省せねば。
バシッと、勢い良く頬を叩いて高揚した気分を落ち着かせる。深く深い息を吸って、長く吐き出す。
一連の流れを終える頃には、何とかいつものように取り繕う事が出来ていた。
ふぅ…………どうやら、儂も人の子だったらしい。天守閣から暫く歩いたと言うのに、未だに動揺しているのか鳥肌が立っている。
散々、猿だの鼠だのと言われていたが、心まで獣であったならどれだけ良かったか…………。
ふと見上げた夜空には、欠けた月が輝いていた。
***
あれから、そう時を待たずに、門番は一人の女中を連れて戻って来た。随分息が荒れていて、余程急いでいた事が伺える。
「お、お待たせ致しました。どうぞ中へお入りくださいませ。こちらの者が御案内致します」
「筑前守様、お初にお目にかかります。お栄と申します。どうぞこちらへ、柴田様の元へ責任を持って御案内致します」
深々と頭を下げる女中に、儂も礼を言う。
「忝ない。是非ともお頼み申す」
「ははっ」
女中は、短く返事をすると屋敷の奥へと進んでいく。その後を辿りながら、軽く息を吐く。少々手間取りはしたが、幸いにも権六殿の元へ通して貰える事になった。
誠に有り難い事だ。日を改めて、彼等には礼を言わねばならないな。
程なくして権六殿と対面が叶った。儂の予想通りと言うべきか、権六殿の周りには数多くの文が乱舞しており、上杉征伐の調整を行っている事が伺える。
ご好意で出された白湯で喉を潤すと、儂は此度の無礼を詫びた。
「火急の用とは言えども、先触れも出さずに、夜分遅く伺いました事、誠に申し訳ございませぬ。此度の無礼、平に御容赦くださいませ」
深々と頭を下げると、権六殿は特に気にした様子も無く、話の先を促した。
「まぁ……良い。藤吉郎が、斯様な初歩的な誤ちをする等、余程の要件だったのであろう。詫びは良いから、本題に入ってくれぬか」
思案顔で尋ねる声に、即座に答える。
「誠に忝ない。此度の上杉征伐。三法師様の御方針を伝えに参った次第」
そこまで言うと、権六殿は速やかに姿勢を正してみせた。
「三法師様は、"上杉家を滅ぼし、天下に覇を唱えよ"と、申しております。上杉の死をもって、奥州勢と関東勢を織田家傘下に組み込ませよ……と」
空気が、冷たくなっていった……。
***
権六殿は、顔を伏せながら暫く考え込んでいたが、不意に顔を上げたかと思うと、眉間のしわをゆっくりと解していく。
「成程……な。確かに、それは火急の用だ。藤吉郎。三法師様の方針転換をいち早く伝えに来て下さった事、誠に忝ない」
深々と頭を下げる権六殿。それに対し、儂は首を横に振ってみせる。
「いえ、大したことはございませぬ。勤勉な権六殿ならば、指令が下った直後から計画を煮詰めると思い、三法師様の御方針が変わったならば、直ぐにでも報せるべきだと判断した故にございます」
「……藤吉郎の洞察力には、毎度驚かされる。まさにそのとおりだ。正直、助かったぞ」
顔をほころばせる権六殿を見て、己の想定が正しかった事を悟る。
やはり、当初の計画では上杉景勝を切腹させずに、本領安堵か改易にて上杉家を残す方針だったようだ。
上杉景勝に実子がいなく、切腹させては御家断絶になってしまう故に、慈悲のある沙汰を下されるおつもりだったのだろう。
しかし、それでは北条家が納得しない。三法師様の最大の後ろ盾は北条家だ。関東地方に多大な影響力を持つ北条家がいるから、関東勢の調略が効果を発揮するのだ。
もしも、此度の上杉征伐にて、織田家と北条家の間に罅が入る事でもあったならば、天下泰平の道程は更に険しいモノへとなっていただろう。
権六殿が、その事を分からぬ道理は無く、こうして夜遅くまで頭を悩ましていたのだろう。誠に、権六殿の苦労が目に浮かぶようだ。
権六殿は、ようやく肩の荷が降りたのか、不意に溜め息をこぼして白湯を口に含む。そして、一息つくと、姿勢を正して儂と目を合わせた。
「上杉征伐の件、然と承知致した。我が軍の全力を尽くして、織田家に従わぬ者共を根絶やしにしてくれよう。だが、戦の習わしとして、最初に降伏を促す。武田家の姫君の件もあるからな」
「えぇ、承知致しました。それならば三法師様も、納得致しましょう」
権六殿の言葉に賛同を示す。様式美ではあるが、決して疎かに出来ぬモノ。三法師様も、最後に慈悲を与えたとなれば、少しは気分が晴れるだろう。




