26話
天正十一年 一月 安土城 羽柴秀吉
一方その頃。三法師が北条家と宴を楽しんでいる裏で、羽柴秀吉の元へ一人の女性が招かれていた。
「……失礼致します」
小さくも鋭い声音が、襖越しに相手へ到着を伝える。小さな声は警戒の証。周囲に人の気配が無い故に、些細な音も響いてしまうからであろう。
女性は、相手の返事も待たずに、音も無く部屋へと入っていく。間髪入れずに閉じられた襖の周りには、誰一人いない。密会が、ここに成立した。
『……………………』
暫しの沈黙。慎重な二人は、自らの耳をすませて間者の類を探る。そして……なんの気配が無いことを確認すると、堪らず秀吉の口から息が零れた。
「儂の召集に、良くぞ応じてくれた…………」
「…………」
陽は昇っていても、どこか薄暗い部屋に灯る行灯が二つの影を照らしていく。秀吉の対面に座る女性。その容姿は、白き精霊の如き浮世離れしたモノ。
その女性の名は…………雪。
***
儂が礼を言うと、雪殿は一切の感情が抜け落ちたような表情を浮かべながら、淡々と平伏する。
「礼は結構にございます。私は、あくまで三法師様に忠誠を誓った身。その三法師様の身に関わる事であれば、こうして参上するのは当然の事」
礼は尽くすも、一定以上のところまで踏み込ませないその姿に、思わず"変わらないな"と、苦笑いをする。
「それで良い。雪殿は、あくまで三法師様の懐刀。儂のような家臣達に、媚びを売る必要はないじゃろうて」
「…………はっ」
雪殿の態度を特に気にする事は無く、すんなりと話を流す。そんな儂の態度に、雪殿は若干怪しむように目を細めていた。
"何か……裏があるのでは無いか? "
雪殿の表情は、そんな心の声がはっきり聞こえるように読み取れる。まだまだ交渉術が未熟な若者らしい青さよな。
だが、実のところ儂は全然気にしていない。むしろ好ましく思うまである。
若き日のあの頃……上様の傍には荒くれ者しか居らなんだ。農家の四男坊やら五男坊やら……礼儀の『れ』の字も知らぬ荒くれ者ばっかし……な。
其の癖、上様以外の者に頭を下げる事を嫌がる悪癖を持つ者も多く、見下されていると思えば直ぐに頭に血が上る奴ばかりだった。
度重なる侮辱に堪忍袋の緒が切れた又左が、上様の傍付きを斬り殺したのは最たる例だな。
故に、そんな荒くれ者達と接してきた儂からすれば、雪殿の態度は見ていて微笑ましいもの。怒りなど、微塵も感じぬよ。
むしろ、三法師様の懐刀として、対面する全ての者を敵と思い万が一に備えるその心構えは、賞賛に値する。
「して、三法師様の御様子はどうであった? 」
儂は、不思議そうに首を傾げる雪殿を後目に、話の先を促す。すると、釈然としない態度を取りながらも、雪殿は渋々口を開いた。
「三法師様は、未だに危うい状態かと。多少は肩の荷が降りたのか、顔色は良くなりましたが、無理をしているのが伝わってきます」
「左様か……」
雪殿は、寂しげに言葉を紡いでいく。
「三法師様は優しい。三法師様にとって、身分差など意味の無いことなのでしょう。どんな下賎の者であっても、分け隔て無く接するその御姿は何よりも美しく尊いモノでございましょう」
「それは、儂も眩しく思うばかりだ」
雪殿の言葉に、力強く頷いて相槌を打つ。三法師様の民への姿勢は、若かりし頃の上様を思い出させる。
上様は、才能や実力のある者ならば、どんな身分の者でも受け入れた。三法師様は、守るべき民ならば、どんな身分でも受け入れている。
方向性は違えども、その根本にあるのは慈しみの心。埋もれゆく才を見出そうとするのも、朽ちていく命を救おうとするのも、等しく優しさだ。
その尊いモノを、三法師様は持っておられる。誰もが、願って止まないモノを。
――だが、忘れてはならない。優しさとは、危うさと表裏一体だと言う事を…………。
その事実は、壮絶な過去を送ってきた雪殿は分かるのだろう。辛そうに顔を歪ませながら続きを話していく。
「ですが、問題が一つございます。それは、その優しさを敵にまで向けてしまっている事でございます。血が流れる事を恐れ、無闇矢鱈な殺戮を控え、必要最低限の犠牲で抑えようとする。そのこと自体は正しい。されど、三法師様は自らの手のひらから零れ落ちる命を、敵味方関係無く憂いて涙を流しておられる。"たった一つの犠牲も出したく無い"と、"救えなくてすまない"と、嘆いておられるっ…………。三法師様は、あまりにも優し過ぎます」
――このままでは…………いつかきっと、自らの優しさに殺される。
そんな雪殿の嘆きは、静かに儂の耳へと入ってきた。これこそが、雪殿の本心。大老の中で、唯一武士としての性質を持たぬ儂だからこそ、明かされたモノであろう。
同じ日陰者故に見抜けた本質。儂が、雪殿の本心を察したように、雪殿もまた儂の思惑を察しておる。故に、儂に話したのだ。全てを託す為に。
その事実に、儂は宙を見上げた。
固く……固く口を閉ざしたまま…………。
***
雪殿の懸念は正しい。このままでは、いつの日にか、三法師様は自責の念に押し潰されてしまうだろう。そうなった者の末路は、とてもでは無いが言葉で表すことは出来ない程に悲惨だ。
理想を夢見る幼子が、廃人になっていく姿なんて誰も望んでいない。見たくない。
このままでは、織田家は滅びる。自壊と言う、あまりにも救われない終わり方を迎えてしまう。
それは、何としても阻止しなくてはならない。他でも無い、三法師様の為にも儂が手を汚さなくてはならないのだ。
自ら手を汚し、己の理想を棄てる事になってしまった男がいた。
…………上様だ。
己の弟を殺したあの日。上様は、変わってしまわれた。尾張国を、家族を、家臣達を守るために情を棄て去った。
いつしか理想は野望へと変わり果て、数多くの戦を繰り返し、日ノ本全土に上様の威光を轟かせた。
――天下統一なんて、求めていなかったのに。
日に日に壊れていく主君を、儂は見ている事しか出来なかった。前へ前へと進み続ける姿を、儂は見ている事しか出来なかったのだっ。
上様は、歩みを止める事が出来なかった。立場が止まることを許さなかった。今まで目を逸らしてきた犠牲者の呪詛が、日ノ本の闇に蠢く悪意が上様の身体を縛り、心身共にすり減らしていったのだ。
その結果どうなった?
上様は記憶を失い、奇妙様は命を落とし、幼子に全ての責務を押し付ける事態にまでなってしまった。
全ての責務とは、上様が考えていた日ノ本統一から、その後の政策のこと。
上様が日ノ本を武力で統一し、奇妙様が熾烈な粛清で大名家・公家を縛りつけ、三法師様が溢れる慈愛で心を掌握する計画は崩れ、その全てを三法師様がやらねばならなくなった。
本来持ち合わせてはいなかった熾烈さを、三法師様は無理矢理付け加えた。その結果、あんな状態にまで追い込む事になってしまった……。
儂は、己が恥ずかしくて堪らない。
もう見ているだけなんて、儂には耐えられない。
あの頃とは違い、今の儂には力がある。三法師様の為に、動くことが出来るのだ。天下泰平を築かんとする三法師様の願いを叶える為にっ!
その為に、先ずは三法師様の心を救わねばならない。その重荷を、降ろさせなくてはならない。その重圧に、押し潰される前に……だ。
故に、三法師様には、ここで折り合いを付けさせなくてはならない。犠牲を許容させなくてはならない。情や理想だけでは、この乱世を終結させる事は出来ないのだと認めさせなくてはならない。
例え、儂が嫌われようとも――




