幕間 一
天正九年三月 京 某所 織田信忠
二度目の馬揃からはや数日。今日は、珍しく父上から茶会の誘いを受け、指定された寺まで向かっていた。護衛や付き人も最低限のみ。もっぱら、密談のような条件であった。
(確かに、京は父上の支配下にある。とはいえ、ここまで護衛を減らすのは些か無用心かと思うが……。父上の事だ、何か深い理由があるのだろう)
人目を忍んで暫く歩き、定刻通りに寺に到着。すると、既に父上は到着しているようで、直ぐに蘭丸が案内をしてくれた。
親子とはいえ、目上の方を待たせているのは少々拙い。家臣達なら、今頃慌てふためいて父上への謝罪の言葉を考えているところだ。
しかし、俺は父上の悪癖に溜め息を吐くのみ。父上は、その場の思いつきで予定を早める所がある。無駄な時間を嫌う故だろうが、それを相手に伝えないのは少々問題になっていた。
勿論、相手を試す為にわざとこうした策を講じるのは構わないのだが、偶に何も考えずにこうした事態を招く事があるのだから一層タチが悪いと言えよう。そして、今回の場合はおそらく後者だ。
とはいえ、説教は次の機会で良い。
「左近衛中将様、こちらで上様がお待ちでごさいます。我等は、別室に控えております故、何か入用がございましたらお声掛けくださいませ」
「うむ、ご苦労であった」
「はっ」
蘭丸が立ち去ると、辺り一帯を静寂が支配する。誰の気配も感じられない事から、蘭丸達が父上の指示を忠実に守っている事が感じられた。
しかし、斯様な人払いをしてまで私に一体何の御用だと言うのか。一通り思案してみたが、中々答えが出ない、ここは、素直に父上から伺った方が早いか。
「父上、失礼致します」
「うむ、入るがいい」
「はっ」
室中へ入り、父上の顔を伺う。すると、父上はいつも身内に向けている穏やかな表情を浮かべていた。どうやら、私の想像通り意図的に先に来ていた訳では無さそうだ。
一先ず、安堵の溜息を吐きながら辺りを見渡す。室内は、質素ではあるが統一感があり、落ち着いた雰囲気の感じられる良い部屋だ。安らぎの場としては満点だろう。
その時、ふと父上の横に目を向けると茶道具一式が揃っていた。どうやら、父上自ら茶を点てて下さるようだ。普段は、利休に任せているのに随分と珍しい。父上の茶を飲むのは、一体いつぶりのことだろうか。
「よく来たな、奇妙。外は冷えておったろう。先ずは、茶を飲んで温まるが良い」
「はっ、忝のうございます」
正直、父上の心意気は嬉しかった。春の足音が聞こえてきたとはいえ、未だ寒さを残す日々が続いている。今朝も一段と冷え込んでいた為、移動中に身体はすっかり冷えてしまっていた。
作法に則り、一口飲む。茶には個性が出ると教わったが、……中々どうして、父上の茶には基本に忠実なようで、どこか私を思いやる気持ちに溢れた温かい味わいを感じた。
父上は、名物狩りをする割に家臣へ褒美として茶器を渡していた影響か。他の者には、父上は茶の湯自体に興味が無く、政治的に利用しているだけと思われている。
しかし、実はそれは誤り。父上は、亡き祖父 織田信秀と傅役であった平手政秀から、幼き頃より三道を学ばれている。二人共、尾張では知る人ぞ知る文化人であり、京より蹴鞠の名手を呼んだ事もあったそうだ。
そんな父上が、茶の湯に興味が無い訳がないだろう。名物狩りは、ただの趣味だろうがな。父上は、好きなモノは人だろうが物だろうが関係なしに集めたがる悪癖があるからな。
「加減は如何かな? 」
「大変、結構でございます。……ふぅ。父上の茶をいただいたのは、一体いつぶりでしょうか。大変、懐かしゅうございました」
「そうさな。奇妙に茶の湯を教え始めた時故、十五年程経つだろうな」
もう、そんなに経つのか。懐かしいはずだ。あの頃は、美濃を取ったばかりだったかな。いやはや、随分と遠くまで来たものだ。
父上と暫し談笑し、昔を懐かしみながら茶を楽しむ。互いに忙しく、ここ数年はこうして時間を取ることは出来なかった。それ故に、この貴重な時間を楽しみたくも思った。
だが、それもここまでだ。時間は有限。そろそろ、本題を切り出さねば。
「……父上、本日は何用でしょうか? このような人払いを済ませるなど、只事ではございませぬ。何か、ございましたか? 」
先ず、考えられるのは公家関連。そして、毛利家や上杉家といった敵国の動向か。
しかし、どうやらそれではないらしい。
「……うむ、三法師の事でな。どうじゃ、あの子は元気にしておるか? 」
「? 三法師でしたら、未だに不貞腐れて部屋にこもっておるそうですが」
「全く、あやつは。気持ちは、分からんでもないがな。公卿達にも困ったものよ。……傍に控えておるのは、あの乱波か? 」
「えぇ、そうですが。彼女は、三法師に固く忠誠を誓っておりますし、心配はご無用かと」
確か、松……だったか。三法師も、随分心を許しているようだし、そのような信頼出来る家臣も今後必要になるだろう。良い傾向だ。人を信じられぬより全然良い。
だが、父上の顔は晴れない。
「乱波の事は、気にしておらん。問題は、三法師の方じゃ。聞いたぞ。その乱波に、わざわざ母と同じ名を付けたそうではないか。……少々、厄介かも知れん」
「厄介……で、ございますか? 」
「はぁ……。お主、余が松姫と三法師の仲を知っておらぬとでも思っていたのか? 」
「――っ」
父上の呆れ混じりの眼差しを受けた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
実の所、お松と三法師があまり良好とはいえない仲だとは気づいていた。
三法師は、尋常ならざる子だ。未だ、二つとは思えん卓越した知能。どんな者でも受け入れる器。人を惹きつける魅力。澄んだ瞳と図太い胆力には、高い理性を感じさせる。
……お松は、そんな三法師を受け入れることが出来なかった。
「お松からしたら、教えてもいない事を理解している化け物と思っておるのでしょう。母親として、可愛くないのやも知れませぬ」
項垂れる。時間が解決することを祈るしかない。俺は、半ば諦めていたのかもしれない。俺だけでも、三法師に愛情を注いでやらねばと。
しかし、事態を楽観視していた私が愚かだったことを思い知らされる。父上は、そんな私を見兼ねて呼び出したのだろう。ふと真顔になると、父上は重苦しそうに話し始めた。
「お前は、どう思っているのだ。このままで、本当に良いと思っているのか」
「……ぇ」
「手遅れになってからでは、遅いのだぞ」
「――っ」
それは、今まで聞いてきた父上の言葉の何よりも重く、そして実感の込められた声音だった。
父上は、目を閉じたまま天井を見上げる。
「余とて、母とは未だに和解しておらぬ。安全の為と体のいい言い訳をしているが、実際は敵に利用されぬように城へ閉じ込めているだけ。偶に、人を遣わせて様子を伺うのみよ」
自嘲気味に呟く父上。そうだ。父上も、若かりし頃は誰にも理解されず、尾張の大うつけだと皆に馬鹿にされていたと聞く。最終的には、実の弟と家督を巡って争い、……実の母から何度も命を狙われたとも。
「……奇妙、コレは時間などでは解決せぬぞ。寧ろ、傷の浅いうちに修復せぬと手遅れになる。あの子が、傍に控える者にわざわざ【松】と名付けた事を軽いモノと考えてはならぬ。……最悪、母代わりとして心の拠り所にする可能性もある」
「!? ま、まさか――」
絶句。そんな馬鹿なとは思ったが、それを否定出来ないのが今の現状だ。
(……もしかすると、これは三法師なりの助けを求める声だったのかもしれない。気付いて欲しいと、不器用に叫ぶ心の声が歪なカタチとなって現れていたのか。……クソッ、何故気付いてやれなかったのだ! )
父親失格。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
己の愚かさを悔いて歯噛みしていると、父上の右手が肩にかけられた。
「人は、母の愛を知らなくても生きていける。余のようにな。……だが、やはり歪むのだ。他とは、何処か違う存在になる。欠けた存在にな」
「欠けた……」
「そうだ。その不完全な在り方に魅力される者もいるが、やはりそれは正しくないのだ。……余はな、勘十郎を殺して以降、母とは完全に袂を分かれた。それでも尚、血の繋がりを重視し、多くの妻と子を作った。……愚かなことよな。失った愛を求め、誰かをその代わりにするなど」
「父上……」
「……良いか、奇妙。一度しか言わぬ、良く聞け。この状況を変えたいと願うのであれば、お前が動くしかない。他人に任せるな。逃げるな。お前が、二人を救うのだ! 」
「お、れが……」
「お前は、どうしたいのだ! 自分の言葉で述べよ! 」
「――っ! 俺は、俺は――家族に、なりたい。本当の家族に! 三人で! 」
溢れた想い。涙が零れる。情けない。だが、父上はそんな俺に慈愛の眼差しを向けた。
「であるか。ならば、良い」
「ちち、うえ……」
「岐阜へ戻ったら、もう一度親子で語り合うと良い。余は、母とあまりにも関わり合う事が少な過ぎた。拒絶されることを恐れて避けたのだ。人の想いは、口にせねば伝わらぬというのにな。……お前は、余のようにはなるなよ」
「――っ! 父上、忝ない……っ」
涙で、前がよく見えない。このような状況になってしまうまで問題の本質に気付かず、お松と三法師を苦しめてしまった事が情けなくて仕方がない! このまま放置すれば、父上の言う通りになっていただろう。それは、最悪の未来だ。
――だが、まだ間に合う! 間に合うのだ。父上の言葉を、経験を、苦悩を、願いを無駄にしてはならぬ。俺が、動くのだ!
お松は、武田家との同盟が破棄されても、俺を愛しているからと残ってくれた優しき心を持っている。三法師は、茶々姫と遊んでいる時は年相応の笑顔を見せている。決して、化け物では無いのだ。
きっと、すれ違っているだけだ、ならば、俺は父として夫として二人の仲を取り持ってみせる。
俺達は、家族なのだから。




