21話
天正十年 十二月 安土城 宮本雪
――なんて優しい人なんだろう。
小さな身体を震わせながら涙を流す殿の後ろ姿に、思わずそんな言葉が零れた。
きっと、優しさが一つに固まったら、こんな人になるんだろうなって思う。
殿は、生まれながらの天下人だ。元は尾張一国にも満たない家だったらしいけれど、祖父の代で日ノ本全土に轟く大大名に成り上がった家の御曹司。
普通なら、私達のような下々の事なんて、貴方様のような御方が気にする必要は無いのに。いつも私達の事を気にかけてくれる優しい人。
私達の前に立つのでは無く、横に寄り添って『共に進もう』と、慈愛に満ちた眼差しを向けてくれる優しい人。
そんな殿が、私達は大好きだった。
故に、こんな痛ましい姿を黙って見ていられなかった私は、すかさず殿の正面に回り込み、その小さな手を労わるように包んだ。
「た、確かに天下泰平の為に犠牲が出てしまった事は事実でございましょう。ですが、成果に対して犠牲者数は限りなく抑えられております。きっと、殿の御指示が無ければもっと多くの民が息絶えていたことでしょう。殿は、十二分に頑張っております。そんな気に病む必要は…………」
続く言葉が……出てこなかった。
儚げに俯くその姿が、今にも消えていってしまいそうに見えて仕方が無かった。
「数……そう、数なのだ。余は、愛すべき民達の事を数で見てしまっているのだ。余の采配で三千近くの敵勢を討ち取ったと聞き、余はその三千の民の姿が見えて来なかった。ただただ、三千と言う数にしか見えなかったのだ。人を数で見るようになったらお終いだと、己を戒めてきたと言うのに、結局そういう視点を持ってしまった……」
唇を強く噛み締め、激しい自己嫌悪に陥っている姿に、自分の失態を悟って冷や汗をかく。
やってしまった……何とかして話題を変えなくては。
「で……ですが、公家達の件は別でございましょう? 彼等は、罰を受けるに相応しき大罪人。己の手を汚さずに、他者を闇へと引き摺り込む畜生。そんな者達に悪意を感じる事は間違いでは無く、大切な家族を害された殿には復讐する正当な権利が有りましょう! 貴方様は間違ってはおりません! 彼等は、罰を受けるべき者達だったと、百人に聞いてもそう答えましょう。そんな彼等の帰りを待つ家族を憂いて慈悲を与えたのならば、これほど尊い御心は無いでしょう。胸を張ってくださいませ! 貴方様は、間違っておりません!!! 」
だんだんと言葉に熱が込もり、殿の両肩に手を置いて己の想いを紡ぐ。
もう泣かないで……そんな悲しい顔をしないで。
しかし、私の願いも虚しく、殿の表情に光が差すことは無かった。
「違う……違う……余は……間違えた……。余が想い描く理想郷を築きたいならば、最初から公家達への復讐なんて考えてはいけなかった。暗躍などさせないように、先に手を打たねばならなかった。それに、公家達への沙汰も酷いものだよ。結局、慈悲深いなんて上っ面だけで、公家達の未来を縛る首輪をかけた外道に過ぎない。何も知らぬ子供達や、未来を生きるまだ見ぬ子供達まで巻き込んでしまった…………。こんな事をしたかった訳では無いのに…………余は、どこで間違えてしまったのだろうな…………」
「殿っ……」
泣き崩れる殿を抱き締めながら、必死に嗚咽を堪える。この小さな身体に、どれ程の重荷を背負って来たのかなんて、きっと私には想像も出来ない。……それ故に、余計な事を言って殿を傷付けてしまった。
違う……違うの。本当は、こんな事を言いたくなかったの。あぁ……私にもっと学があったら、殿の心を癒すことが出来たのかな? 殿が抱える悩みを解決出来たのかな?
ただただ抱き締める事しか出来ない自分が、どうしよう無く情けない。もっともっと、私は殿に……三法師様に伝えたいことがあるのに。
「三法師様が国を治めるようになってから、人攫いや餓死で死ぬ子供達はいなくなりました」
「…………」
ゆっくりと、三法師様の背を撫でる。
「松達が諸国の農村を見廻り、親から暴力を振るわれている子供や迫害を受ける子供を保護したおかげで、何百人と言う命が救われました」
「…………」
思い浮かべるのは、彼女達の隠れ里。決して裕福とは言え無い暮らしだったけれど、皆が皆心から笑顔を浮かべていた。
私のように迫害を受け、心を閉ざしてしまった子供達が、今では年相応の笑顔を見せてくれるまでになったの。
それが、どれ程素晴らしいことかっ。
「先日、京で団子屋を営む若い夫婦が安土城下町にて店を開いておりました。一年程前に、三法師様に命を救われた事があったそうです。松も、良く覚えておりました」
「ぁ…………」
一瞬肩を揺らした三法師様は、おずおずと顔を上げる。涙で濡れる頬に、優しく右手を添えて視線を合わした。
「借金のかたに人攫いに襲われていたところを、三法師様に助けていただいたそうでございます。涙ながらに、あの日の事を語っておりました。『生涯、この御恩は忘れない』と、申しておりましたよ? 今では良縁に恵まれ、お腹に赤子を宿していました。心から幸せそうに微笑んでおりました」
「あの時の娘が……」
声を震わせる三法師様の耳元へ、そっと囁く。
――三法師様が繋いだ命でございます。
「…………っ! 」
目を見開く三法師様の頭を優しく撫でる。
「三法師様がいなければ、生まれて来なかった命が確かにあるのです。三法師様がいなければ、息絶えていた者達がいるのです。……私だって、三法師様に助けていただけ無ければ、今ここにおりません」
そう……私のような異形の忌み子が、お天道様の下で天下の往来を大手を振って歩く事が出来る。それが、どれ程凄いことか知って欲しい。
この安土城下町に、多くの民がいる中で差別も迫害も一切無いことが、どれ程尊いことか知って欲しいの。
「間違えたなんて言わないでくださいませ……。どうか、救えなかった命だけでは無く、救った命も見てくださいませ! 三法師様の掲げてきた願いが、どれ程の笑顔をつくってきたか知ってくださいませ! 皆が皆、三法師様が掲げる希望光り輝く未来を夢見ているのです!!! 」
「雪……」
三法師様を抱き締めていると、遂に我慢出来ずに涙が溢れてきてしまった。
どうして気付いてあげられなかったんだろう。こんな小さな身体で、人一倍頑張って重荷を背負っていたのに、どうして私達は気付いてあげられなかったのっ。
ごめんねぇ……ごめんねぇ……もっと、感謝を伝えれば良かった。もっと、抱き締めてあげれば良かった。
ずっと三法師様に甘えてばかりで……三法師様一人に全てを背負わせてっ。
どうして三法師様のような優しい人ばかり辛い目に合うのかな……家族を失った心痛も癒えぬままに、一生懸命身を粉にして奮闘している三法師が、どうしていつもいつも自分を犠牲にしなくちゃいけないのっ。
可笑しいよ。そんなの可笑しい。
私達はね。三法師様にも幸せになって欲しいの。年相応に笑って欲しいの。今まで頑張ってきた分、三法師様には報われてほしい。
その尊い願いを捨てないで欲しい。諦めないで欲しい。きっと、その願いは三法師様にしか叶えられない。
家族を奪った怨敵にも情をかけられる三法師様だから、私達は信じられるの。
三法師様は否定したけれど、あの姿こそが三法師様の本性なの。どんな人間であっても土壇場で本性が出るけれど、三法師様は命を奪いたくないって思った。ほんの少し湧き出た悪意を嫌悪しつつも、決して目を逸らさず逃げ出さず嘘をつかずに向き合った。
言葉にするのは簡単だけど、それを実行出来る人なんて殆どいないよ。三法師様は、特別な人なの。誰よりも優しくて、私達の希望の光なのよ。
「未来に不安があるのならば、私達が支えます。三法師が決して道を踏み外さないように、ずっとずっと傍で支えます。だから……だから、夢を諦めないでくださいませ! 間違っていたなんて言わないでくださいませ! 私達がっ! 私達が支えますから! 三法師様に助けられた私達が支えますから! だからっ…………」
涙ながらに想いを紡ぐ。支離滅裂な言葉でも気にしない。私には、もうこの想いを伝えることしか出来ないから…………。
どれ程時間が経っただろうか。
今まで俯いていた三法師様が、ゆっくりと顔を上げる。その表情を見て、私は涙混じりに頬が緩んだ。だってそこには、私が大好きな笑顔を浮かべた三法師がいたから。
この笑顔を守りたい。
その想いは、織田家家中の者達の総意だ。
その為だったら、私達は何でもやってみせる。
もう……三法師様の手を汚させはしない。
だから……頼みましたよ。
羽柴様。
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