20話
天正十年 十二月 安土城
すっかり気温も下がり、本格的に冬の景色が安土全土を染めていく中。俺は、天守閣から琵琶湖を見下ろしていた。
今日は風もあまり吹いておらず、穏やかな水面が陽の光に揺れている。耳をすませば、小鳥のさえずりが心を癒し、城下町から聞こえる民の活気溢れる声が頬を緩ませる。
最近は激動の日々だったからか、こんな有り触れた日常の一場面が、特別なモノに思えてくる。
貧富の差、身分の差はあれど、民が心から笑顔を浮かべて明日を迎えられる日常。当たり前のように、明日の話が出来る日常。
前世では、当たり前のことで有り、この戦国時代では、己の与り知らぬところで唐突に奪われてしまう幻想。いつ壊れてもおかしくない薄い硝子の上に、彼等の生活が成り立っていた。
俺は……俺は、そんな現実を信じたくなかった。夜道を歩けば人攫いに会い、遠くの町まで商売に行けば山賊に会い、飢饉が来れば大勢の者達が死に絶え、戦に駆り出されれば生きて帰って来れるかも分からない。
『また明日』
この世界は、そんな些細な約束でさえ、守れる保証は無いのだ。
故に、俺は頑張ってきた。民が、理不尽に命を脅かされる事の無い日常を築くために、今まで必死に頑張ってきた。
目の前に広がる俺が守りたかった穏やかな日常。是が非でも観たかった光景だと言うのに、何故か心に影が差し込んだかのような気持ちになる。
――俺の進む道は、此処で合っているのだろうか。
そんな想いが胸を掻き乱し、思わず苦悶に満ちた表情を浮かべていると、そんな俺の元へ一つの影が近寄ってきた。
「今日は、些か冷え込みますね…………殿」
「雪……」
視線を向けると、そこにはおぼんを片手に微笑む雪の姿があった。
「殿、失礼致します」
雪は、一言断りを入れると、横に座り湯呑みを差し出してくる。
「白湯でございます」
「……あ……あぁ、ありがとう」
差し出された白湯を受け取り、おずおずと口に含む。ほのかに漂う湯気と共に、温かな湯が身体の中へと入っていく。
湯呑みを手元に戻して、ほっと一息つく。俺が火傷しないようにと調整された白湯は、心と身体を同時に温めてくれるようであった。
そう思うと、手元にある湯呑みが、何故だか特別なモノに見えてくる。俺の事を想う気遣いが、何だかこそばゆかった。
だからだろうか…………優しげな眼差しを向けてくる雪に、ついつい弱音を零してしまった。
「…………罪無き善人を救いたい。理不尽に命が奪われる乱世を終わらせたい。皆が、笑顔を浮かべながら過ごせる泰平の世を築きたい。そして、幸せになって欲しい者達の中には悪人も含まれる…………例え、罪を犯した悪人であっても、罪を償えば平和を謳歌する権利はある。その機会を与えるのが、余の務めだ。………………その思いは、嘘偽りの無いモノだった」
――だが…………。
「余は、公家達を許せなかった。父を……皆を……大切な家族を奪っていった公家達の事が、憎くてたまらなかった。あれ程までに綺麗事を喚き散らしておきながら、いざ自分の事になると怒りで視界が染まり、耐え難い憎悪が脳裏を駆け巡っていった」
――織田家当主として、天下泰平の世を目指す者として……不甲斐ないばかりだよ。
自嘲気味に呟くと、あの夜の出来事が脳裏を過ぎる。月明かりに照らされながら、松と語り合ったあの夜。俺は『悪人達も救いたい』と言った。その想いは、願いは間違っていない……筈だった。
だが、父上を失い……母さんを失い……じいさんの記憶から俺が失われたあの日。俺の中で、何かが壊れる音がした。
十兵衛が炙り出した公家達の名前を見た時、心に憎悪の火が宿っていった。悪人に対して、罪を償う機会を与えるのが使命だと言っておきながら、俺は公家達を許す気は無く、その場で切り捨てるつもりだった。
許したく無かった。
あの日……本来であれば、公家達の背後に控えていた一刀斎が、俺の合図と共に公家達を切り捨てる予定であった。
しかし、合図を送る寸前。目の前にいる公家達にも、帰りを待つ家族がいる事に気付いた。気付いてしまった……。
その瞬間、思わず右手が震えた。
『我に返った』
そんな表現が、一番俺の心を表しているだろう。
あれ程までに胸の内を駆け巡っていた殺意が薄れ、どうしようもない自己嫌悪に陥っていく。『復讐』と言うたった二文字の言い訳で、これまで掲げてきた願いを簡単に捨ててしまった自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
ギリギリで公家達の処刑を踏み留める事が出来たが、正直あの第二案を用意して無かったらどうなったか分からない。
十兵衛が……蜂屋達が託してくれた願いを、俺は踏みにじってしまったのだ。彼等は、復讐なんて望んでいなかった筈なのに。
「長宗我部家を服従させる為に、彼等の兵を策に陥れ虐殺した。三千近くいた長宗我部軍は、その殆どが討ち取られたと言う。俺は、それを聞いた時、たかが三千近くの命で四国全土が手に入ったと思ってしまった」
握り締めた湯呑みの中に、酷い顔をした自分が映る。
「公家達を粛清する為の布石。その為だけに、俺は長宗我部家に進軍し、無闇矢鱈に三千の命を散らしておいて、悪びれも無く己の行為を正当化させようとした。天下泰平の世を築くため等と宣いて、俺は公家達への復讐と言う私情から虐殺を行った。なんとまぁ、浅ましきことよ。こんな体たらくで天下泰平を願うなど、己自身が恥ずかしくてたまらぬっ」
頬を伝う雫が、湯呑みに映る己を揺らす。堰き止めていた感情の蓋が、勢い良く決壊して止める術が無かった。
理想と現実。
全てを許すと言いながら、己の感情を我慢する事が出来ずに復讐に走った。天下泰平を築くためだと宣いながら、敵勢の死を許容する。全てを救う事なんて出来ないと知りながら、切り捨ててしまった命を憂いて涙を流す。
矛盾だらけの思考に、脳が焼け切れそうになっていく。様々な感情が胸を掻き乱し、自分が立っている場所さえも分からなくなっていた。
進むべき道は正しい筈なのに。俺の願いは間違っていない筈なのに。一度立ち止まった足は、一向に進もうとしない。
目の前広がる険しい道のり。まるで嵐の中をコンパスも無く、手探りで進むような日々に思わず膝をついてしまった。
とうの昔に、身も心も擦り切れていた。
「余は……どうしたら良いのだ」
消え去るような小さな弱音が、儚く宙へと溶けていく。誰に聞かれる訳もなく、ただただ消えていくだけだった言葉は、幸か不幸か白き少女の耳へと入っていった。




