7話
天正十年 八月 尾張国 清洲城 徳川家康
織田家の当主が代替わりして幾ばくか経ち、安土城にて三法師を補佐する者以外は、既に自領へと戻り内政に励んでいた。
かくいうワシもその一人であり、織田信忠の葬式後には浜松城へ戻っておった。
――諸国の大名家の動きを探る為に……な。
本来ならば、今日も半蔵の報告を元にこれからの方針を固めるところなのだが……織田信雄の呼び出しを受けてしまった為に、わざわざ浜松城から清洲城まで来る羽目になってしまったのだ。
「ささっ三介様、先ずは一杯」
「うむ。苦しゅうない」
杯に注がれた酒を飲み干しながら、下品な笑い声を上げる。そんな愚かな姿に、内心溜息をつく。
この尾張国のみならず、日ノ本全土を揺るがす事態の最中だと言うのに、なんとまぁお気楽なことだ。
この目の前にいる愚図には、危機感と言うものが無いのであろう。ワシとて、斯様な愚図に媚びを売る暇は無いのだ。
だが、今はどんな些細な情報も仕入れなくては、この先の世を生きる事は不可能。幸い、多種多様な接待を通して、心の声を漏らさぬ術は身に付けておる。
故に、こうして薄ら笑いを張り巡らさながら、愚図の杯に酒を注げるのだ。
杯を片手に箸を進める愚図を後目に、小姓を呼び寄せ例の酒を持ってこさせる。
「どうやら、お気に召したようで、私も一安心致しました。こちらの品は、京より取り寄せた一品でございまして、是非とも三介様に……と」
そう言って徳利を見せると、すぐさま手に取って口に含む。作法の欠片も感じられない家畜の姿に、ワシは心底軽蔑した。
「っぷはっ!!! 美味いのぅ~流石は、京より取り寄せた一品じゃな! 余の為に、わざわざ斯様な一品を取り寄せるとは見上げた忠誠心よのぉ〜あっはっはっはっ!!! 」
「…………ははっ! 」
高笑いを上げるその姿が、あの日の織田信長を思い出させる。狂いそうになるほどに、脳裏を憎悪が埋めつくしていく。
武田征伐の帰り、浜松城にて精一杯の饗応で織田信長を歓待したあの日。奴は、酒を飲みながらワシに向かってこう言い放った。
『己の保身の為に、妻子を殺すとは見上げた胆力よ。醜態を晒しながら無様に生き永らえるその姿は、何とも言い難い醜さよな』
奴は……奴は奴は奴は奴は奴はぁぁぁっ! ワシを嘲笑ったのだ! ワシが、どんな思いで妻と息子を殺したかも知らぬ癖に! 奴は、織田信長は、ワシを嘲笑ったっ!!!
あぁ、なんという屈辱か! 奴がいなければ、ワシは妻と息子を殺さずにすんだ! ワシは、この手で、口で妻と息子を殺すように命じたあの日を、生涯忘れぬ! 忘れられるものか!
あぁ……憎らしい……あぁ……この恨み、どうしてくれようか……どうやって復讐してやろうか。
あぁ……いっその事……目の前にいる愚図に。
――毒でも盛ってくれようか……。
「…………三介様、まだまだ取り寄せた酒がございます。どうぞ、心ゆくまでお楽しみくださいませ」
「うむ! 苦しゅうないぞ! 」
『はっはっはっ! 』
二人の朗らかな笑い声が、広間に響き渡る。あぁ、危ないところであった。こんなところで、この愚図を殺しても何の利も無い。逆に、織田家が得をするだけだ。
ならば……待つ。待って待って待ち続けるのだ。奴の首を取れるその日まで。
それから二刻程経ち、織田信雄の顔が真っ赤に染まり、随分と酔いが回っているように見える。不規則に身体を揺らし、目の焦点は合っていない。
……今ならば、口も軽くなっておるかな。
「そういえば……三介様は、朝廷より従五位下尾張守を賜ったとお聞き致しました。誠にめでたき事にございますな。おめでとうございます」
にこやかに杯に酒を注ぐと、織田信雄は勢いよくソレを飲み干し、思い切り畳に叩きつけた。
「……ふん! 何がめでたき事かぁ!!! 」
荒々しく肩を震わせながら、猛烈な怒りを顕にしている。余程、腹にくるものがあったのだろう。怒りに身を任せて、徳利を口元に寄せて酒を飲み散らかす。
「何が尾張守だ! 所詮、三法師が元服するまでの仮初に過ぎん! 信孝の奴は、従五位上大和守! それも、正式に大和国を賜っておるから三法師が元服しても変わりは無い! クソったれが! 何故、余が信孝の下なのじゃ!!! 」
「それはそれは……」
「それに、信孝は山城国まで任されおった! 日ノ本の中心であり、政を行う安土城の目と鼻の先。余と信孝、どちらが優遇されているかなんて、阿呆でも分かるわっ!!! 」
怒りを喚き散らしながら、暴飲暴食を繰り返す姿に、思わず笑みを浮かべる。元々仲が良くない兄弟同士、劣等感に苛まれる織田信雄は、まさに付け入る隙だらけだ。
「……確かに、三介様は不当に虐げられていると思います。もしや、大和守の策略やも知れませぬな……」
「…………何? 」
神妙な顔で呟くと、予想通り織田信雄は食いついてみせた。先の促すような視線を感じながら、ワシは更に話しを続ける。
「そもそも、齢三つの幼子が後見人も付けずに、織田家当主の座に就くのは些か可笑しな話しでございます」
「…………何が言いたい」
「柴田殿達を大老とし、その裏で大和守が三法師様の後見人として、織田家の政を執り行っているやも知れませぬな」
「……………………」
ワシの言葉をまんまと信じたのか、織田信雄の顔が怒りに染まっていく。目は血走り、血管が浮き出ている。遂には、徳利が音を立てて砕け散った。
割れた徳利の破片で手を切りながらも、滴る血を気にもとめず織田信孝への呪詛を呟き続ける。
そんな愚かな姿に、機が熟した事を察した。
ワシは、静かに織田信雄の横へと移動し、ワシ等以外に聞かれぬように耳元で囁く。
「……三法師様を、貴方様がお救いするのです。不当に織田家を……天下を牛耳る大和守から、三法師様を救えば、皆が貴方様の勇気ある行動を賞賛することでしょう」
――大義は……三介様にございます。
場所は変わり、安土城下にて一人の男が、とある計画を企てていた。その男の名は、オルガンティーノ。織田信長の許可を得て、安土城にてキリスト教を広めている宣教師である。
天正十年 八月 安土城下 神学校 宣教師 オルガンティーノ
織田信長様カラ三法師様ヘ、政権ガ移リ変ワリマシタ。今後、我々ノ活動ガドウナルカ分カリマセン。
右近モ、失脚シテシマイマシタ。
コノママデハ、我々ニ未来ハ無イカモ知レマセン。私モ、動カネバナリマセンネ。
主ヨ、我々二ドウカ御加護ヲ……。
「ソコノ麗シイ御嬢様。貴女ハ神ヲ信ジマスカ? 」




