5話
天正十年 七月 安土城
「……お主は、誰だ? 」
「………………えっ」
じいさんから告げられたその言葉に、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。
身体が妙に熱い。高鳴る鼓動が、痛い程耳に残る。覚束無い足取りで、一歩。また、一歩進む。
「じ、じい様? 三法師です……じい様の孫です。父上の……織田信忠の息子の……奇妙丸の息子の……三法師ですっ……覚えて……無いのですか? 」
俺は、縋るような目で問いかけた。じいさんの袖を握り締めて、一心不乱に身体を揺する。
認めたくない。信じたくない。嘘であって欲しい。今なら冗談でも笑って許せる。
だから……だから――
「三……法師……信忠……奇妙……丸。分からぬ……そんな者は……聞いた事が無い。……何も、分からぬのだ」
――俺は、じいさんの袖を離してしまった。
崩れるように後退る俺と入れ替わるように、権六や五郎左達がじいさんに詰め寄った。
「上様! 本当に何も分からぬのですか!? 奇妙様は上様の嫡男であり、三法師様は直孫。あんなにもっ! あんなにも、愛されていたではありませんかっ!!! 」
「……すまぬ」
「上様、万千代でございます。本当に……忘れてしまったのですか……野原を、共に駆け回った日々を……共に、天下を目指した日々をっ! ……うぅ……うぅ……ぅぅぅぅ」
「……申し訳ないっ」
権六達に対して、深々と頭を下げるじいさん。普段ならば決して涙を見せない五郎左が、人目もはばからず泣き崩れる。
そんな五郎左を支える藤も、必死に唇を噛み締めながら涙を堪えていた。
――命は助かった。だけど、大切なモノが失われてしまった。かけがえのない大切なモノが。
呆然としたままの俺達に、じいさんの診察をしていた先生の言葉が耳に入る。
「上様は、御自身の名前や家族の事も記憶にございませんでした。ですが、着物の着方や箸の使い方など、日常的に使う知識は身体が覚えておいででした。充分、記憶が戻る可能性がございます。今は、ゆっくりと療養するのが一番かと」
先生の言葉に、伏せていた顔を上げる。目を見開きながら先生を見ると、優しげな表情を浮かべながら頷かれた。
記憶が戻るかもしれない……微かだけど見えたその希望に、俺はかけるしか無いと思った。
今は、まだ焦る時では無い。人生はこれからも続いていく。ゆっくり思い出したら良い。
それよりも、今はじいさんの意識が戻った事を喜び。治療にあたってくれた先生に、感謝を伝えなくてはならない。
姿勢を正した俺に倣うように、大老達も自然と姿勢を正す。そして、俺達は深々と頭を下げた。
「先生、じい様が意識を取り戻せたのも、全ては先生の尽力の賜物。織田家当主として、御礼申し上げます」
『御礼申し上げまするっ!!! 』
「……医術に携わる者として、私は当然の事をした迄にございます。どうか、気を確かにお持ちになってくださいませ。奇跡は、信じぬ者には決して訪れないのですから」
「……っ! 忝ないっ」
その後、先生には多額の謝礼と、安土城下に建てた大きな診療所を渡した。こう言った形でしか感謝を示せない己を恥じるばかりだが、せめてもの謝礼にと受け取って貰えた。
医術という形で多くの人々を救わんとする先生を、俺は心から尊敬する。
先生に感謝を伝え、一旦評定の間に戻った俺達は、これからの事を話し合っていた。
「では、上様にはご隠居していただく……と」
「うむ。どうか、自然豊かな安らげる地にて、ゆっくりと療養するのが一番であろう。家中の者達にも、此度の事を報せる事にする」
権六の問いかけに、頷いて肯定を示す。場所はまだ決まって無いが、何処か涼やかな風の吹く丘にでも館を建てたいと思っている。
しかし、家中の者達に報せる事に、左近は慌てて反対意見を述べた。
「お、お待ちくださいませ三法師様! 家中の者達に此度の一件を報せるのは、時期尚早かと愚考致しますっ! 」
「何故じゃ? 」
「はっ、失礼ながら申し上げます。今の織田家において、上様の存在は絶対にございます。例え意識を失っていたとしても、その統率力で織田家を大大名へ導いた事が、家中の者達において何よりも印象深いこと。記憶を失い隠居したとなれば、家中の者達に動揺が走り、近隣諸国の敵勢は勢い付く恐れがございます! 」
「……であるか」
左近の言い分は最もだ。恥ずかしながら、今の織田家を支えているのはじいさんの存在だ。
『上様は、未だに生きている』
『あの御方が居れば、織田家は安泰だ』
『前内府様の威光がある限り、織田家に敗北は無い』
『信長が生きているならば、攻める事は出来ない』
『報復が恐ろしくて、手が出せない』
『上様が目覚めれば、全てが上手くいくはずだ!!! 』
皆が皆、そんな風に思っている。こんな齢三つの幼子を当主にしたのも、じいさんが目覚めれば織田家の指揮を取ってくれると思っていたから。
今の俺には、権威も武名も無い。内政ばかり力を入れ、争いを好まぬ幼子。武官の者達からは、頼り無いって思われているのかもしれない。
……ならば、示さなければならない。織田家は、俺が居れば安泰だと家中の者達を安心させなくてはならない。
もう……じいさんには、頼れないんだから。
「左近……」
小さく呟くと、皆一斉に口を閉ざして平伏する。
「はっ」
「家中の者達には、真実を知る権利がある。下手に誤魔化した後に真相が明らかになれば、余計な混乱を生むやも知れん。誠意を持って接する事が一番ぞ」
「ははっ! 」
左近達が納得した事を確認すると、俺も力強く頷く。次は、じいさんの隠居先を話し合おうとしたその時、襖が開かれて一人の女性が評定の間へ入ってきた。
「……お祖母様」
「久しいな三法師。息災であったか? 」
『き、帰蝶様っ!? 』
そこに居たのは、じいさんの妻であるお祖母様であった。もう五十近いと言うのに、二十代と言っても過言では無い美貌。美魔女と言う言葉が、これほどまでに相応しい人はお祖母様ぐらいであろう。
以前は、岐阜にて隠居生活を送っていたのだが、じいさんが床に伏してからは、安土城にて看病に勤しんでいた。
此処に来たのも、きっとじいさんの容態を知ってしまったからだろう。
俺の予想通り、お祖母様は上座に一礼すると、俺の横に座り気遣うように見詰めてくる。
「上様の事は聞いた。すまぬ……三法師。そなたの小さな肩に、織田家の命運を委ねる事になってしもうた。…………任せても良いか? 」
お祖母様の慈愛の眼差しに、俺は笑顔で応える。
「お任せください。立派に、己の責務を果たしてみせましょう。……ですから、安心してくださいませお祖母様」
俺の言葉に、お祖母様は一瞬顔を背けると、不意に俺を抱き寄せた。
「頑張りなさい……三法師。私は……私達は、如何なる時でも、貴方の味方ですよ」
そこで一旦話しを区切ると、お祖母様は大老達の方を向いた。その真剣な表情に、大老達も深々と平伏して応える。
「上様は、私が預かりましょう。岐阜にある屋敷で、ゆっくり過ごすつもりです。……上様は、今まで天馬のように駆け抜けました。そろそろ、お休みになられても良いでしょう」
お祖母様の提案に、大老達も強く頷いて肯定を示す。俺も、その方が良いだろうと思った。
「お祖母様のご好意に甘えよう。皆も良いな? 」
『御意っ! 』
一同深々と平伏した事を確認すると、俺は立ち上がって襖へと向かう。
「……少し疲れた。権六、後は任せる」
「…………ははっ! 」
後ろから聞こえる忍び泣きを後目に、俺は覚束無い足取りで自室へと向かった。
襖を閉めると、いつの間にか陽は落ちていて薄暗い光景が広がる。何故だか食欲も湧かず、今はただただ眠りたかった。
「夕餉は良い。今日は、もう寝る」
「…………御意」
小姓が下がる気配を感じていると、不意に誰かに抱き寄せられた。一体誰だと視線を向けると、それが雪だったと気付く。
「雪……」
「殿……もう良いのです。我慢しなくても良いのですよ? 今は、私達しか居りません」
「…………ぅ……うぅ……うぅ……ぅぅぅぅううう……あああああああああぁぁぁぁっ!!! 」
雪の言葉が、今まで堰き止めていた想いを決壊させた。流れる涙を止める事が出来なかった。
その夜は、冷たい雨が降り注いでいた。




