3話
天正十年 七月 安土城
茶々との関係は、大老達にも認められた。お市お姉様や、茶々達の立場は酷く微妙なものらしく、下手なところへ嫁がせるくらいならば、お互いの気持ちを尊重する形になったのだ。
特に、権六が恋愛結婚に大賛成しており、続いて藤も賛成した事が決め手であった。
多分、二人ともお市お姉様を狙っているのだろうけど……お市お姉様、俺が元服するまで傍を離れる気が無いんだよね。
ともあれ、晴れて婚約者になった茶々は、現在近衛家にて作法の猛勉強中である。理由は、近衛家に養子縁組をする事になったからだ。
元々、近衛家とは朝廷を掃除する上で固い絆で結ばれていたが、それを世間に知らしめる為に婚姻関係を結ぶ案が提案されたのだ。
しかし、近衛前久の実娘を娶ったら正室にする他無い。それでは、藤姫や北条家の立場が無いし、俺は大きな後ろ盾を失う事になってしまう。
関東の豪族や、奥州の大名家を調略する中で、北条家を失ったら全てが水の泡。
そこで、近衛前久の養女を娶ることになったのだ。
その養女候補に、白羽の矢が立ったのが茶々だ。
公家は掃除中で、誰が信用出来るかまだ判断が付かない中で、婚約者として名前が挙がった茶々が選ばれるのは必然であった。
それに、今、婚姻関係を結ぶ必要があったのも、一つの要因であろう。前久にも、『二十年後、年頃の娘が出来ましたら、是非とも三法師殿の側室に……』と、言われてしまったしな。
二十年あれば、織田家が天下を統一する事は間違い無く出来る。そうなれば、近衛前久の実娘でも、側室に迎えられる。
……正直、茶々を近衛家に養子縁組させるのは気が乗らなかった。純粋に、彼女と結ばれたかった俺は、茶々を政治的に利用したく無かったのだ。
しかし、茶々に『織田家の……三法師の役に立てるのならば、これ以上無い喜びじゃ。その配慮は、無用じゃぞ? ……案ずるで無い。それでも、気に病むのならば、妾をめいいっぱい愛してくれれば良い』
そう言って笑う姿に、俺は苦笑混じりに抱き締める他無かった。茶々の気遣いが、痛い程胸に染みた。
まだまだ先は長いが、此処が踏ん張り所だ。気を引き締めねばならないな。
そして、次の日。俺は、とある一室へと向かっていた。二条城の戦いで負傷し、療養中の者達がいる部屋だ。
先導する雪に襖を開けてもらい、俺は右手を上げながら笑顔を浮かべて部屋に入る。
「おはよう。朝からすまないね」
『殿っ!? 』
主人の突然の訪問に気が動転したのか、その場に居る者達が慌てて平伏しようとする。
「あぁ、楽にして良い。未だ傷が癒えておらぬのだ。無理はしなくても良い」
『は、ははっ! 』
俺がやんわりと手で制すると、皆から申し訳無さそうな色が伺えた。怪我人なのだから無理は禁物だと言うのに、本当に律儀な性格だ。
……彼等が命懸けで忠義を示してくれたから、今の織田家がある。申し訳無いのは、こちらの方だ。
胸をチクリと刺す痛みを感じながら、勝蔵の傍に居る先生の元へ向かう。
「先生、皆の様子は……」
「御安心くださいませ。森様も、蒲生様方も順調に回復しております。後、二日程安静にしておりましたら、元の生活に戻って宜しいでしょう」
「であるか」
先生の報告に、思わず頬が緩む。彼等が、順調に回復している事が、何よりも嬉しかった。
未だ、じいさんは目覚めていないが、彼等の回復が吉兆の兆しに思えたんだ。
また……皆で、宴をしたいな。
暫しの間、勝蔵達と話した後。俺は、奥の部屋へと向かった。静かに襖を開けると、そこには桜の姿があった。
上半身を起こして外を眺めていた桜は、部屋に入って来た者が俺だと気付くと、酷く驚いたように目を見開いていた。
「え……と、殿? 」
「久しいな……桜。昨夜、桜が目覚めたと聞いて会いに来たのだ。また、元気な顔を見ることが出来て良かった。……頑張ったな、桜っ」
「……っ! あ、有り難き御言葉にございます! 」
身体を震わせながら俯く桜の手を、ぎゅっと握り締める。後ろから聞こえる雪の涙ぐむ声が、静かに部屋へと染み渡っていった。
「もう……身体の調子は大丈夫なのか? 」
「はい。あまり無理は出来ませぬが……」
「であるか」
儚げに微笑む桜の頭を、ゆっくりと撫でる。じいさんに次いで重症であった桜が、こうして笑顔で話せている事が何よりも嬉しい。
未だ目覚めぬ頃、まるで人形のように眠る姿に、俺は恐怖を感じていた。もう……このままずっと目覚め無いのではと、怖くてたまらなかった。
この想いを……伝えられないまま、桜と別れたくなかった。
――未だ、君にありがとうを伝えていないから。
「桜……」
「……? 」
囁くように名前を呼ぶと、顔を上げた桜と視線が合わさる。何処か不安気な雰囲気を漂わせる桜に、俺は笑顔で心からの感謝を伝えた。
「ありがとう。ありがとう……桜。此度の一件、桜の尽力無くば、じい様も父上も安土城へ戻って来れなかった。桜が、織田家を……余を救ってくれたのだ」
「殿……」
「桜は、偉大な功績を残した。その名を歴史に刻んだ。誰よりも偉大な忍びとして、未来永劫語り継がれるだろう。頑張ったね……桜。君は……本当に凄い子だ」
俺が最後の言葉を紡いだ途端、桜の瞳が揺らいでいった。そして、溢れる涙もそのままに、縋り付くように手を俺へと伸ばす。
「と、殿……本当でございますか? わ、私は……私は人の役に立てたのですか? 人を救う事が出来たのですか? 偉大な忍びになれたのですか? 私は……姉さんの願いを叶える事が出来たのですか? 」
力無く、ヨロヨロと伸びる手を掴む。
「あぁ……勿論だとも! 桜は、亡き姉君の願いを見事に叶えたのだ。桜は、余の誇りだ。きっと、亡くなった御両親も姉も仲間達も……桜の事を誇りに思っている」
「ぅ……うぅ……うぅ……ぅぅぅぅあああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!! 」
桜は、今まで溜めていた想いが溢れ出すように泣き崩れた。そんな桜の姿に、俺も雪も釣られるように涙を流す。
桜の努力を、辛い過去を知っている分だけ、感じる想いは強かった。桜の願いが……亡き姉君の意志を、見事に叶えてみせた事が嬉しくて嬉しくて堪らない。
今、桜の瞳には何が映っているだろうか……。
愛する家族に、会うことは出来たのだろうか。
真実は分からない。だけどね。きっと、素晴らしいモノが見えたんだと思う。
だって、そんなにも心が温まる笑顔を浮かべているのだから……。
――ありがとう……■■
ひとしきり泣いた後、晴れやかな笑顔を浮かべる桜に、此度の褒美を切り出した。
即ち、家紋と苗字だ。
「父上は、最期に桜の功績を称えて家を興す事を許された。桜は、何か希望はあるかな? 」
すると、桜は褒美の詳細に驚いた後に、一度目を瞑り、真っ直ぐに俺を見詰めて切り出した。
「恐れながら、『白百合』を頂戴致したく」
「『白百合』を? 」
「はっ」
深々と頭を下げる桜に、俺は理由を問いかけると、桜は昔を懐かしむように語り始めた。
「帰る家を失い、大切な家族を失い、途方に暮れる私達に、殿は手を差し伸べ『白百合』と『名前』を授けてくださいました。私達を、大切な家族だと言ってくださりました。それが……どれ程、私達の心を救っていただけたかっ」
「桜……」
「『白百合』は、私にとって……私達にとってかけがえのない大切な宝物にございます。どうか、白百合家を興す事を御許しください。隊の者達が、白百合家に属するようにしたいのです」
桜の願いに、俺は視界が滲むのを止められなかった。『白百合』が、俺が付けた名が、彼女達を支えていた事が嬉しかった。
家族を殺され、居場所を失って尚、清き魂を保ち続けて欲しいと願って付けたのが『白百合』だ。
そんな俺の願いが、『かけがえのない大切な宝物』だと言ってくれた。これ以上の喜びが、他にあるだろうか。
俺は、平伏する桜の頬に手を触れると、満面の笑みを浮かべて答える。
「桜、ありがとう。その願いを叶えよう。……只今をもって、白百合隊は白百合家に属するものとする。安土城下に屋敷を構え、隊の皆で過ごすと良い。希望する全ての者達に、白百合姓を名乗る事を許そう」
すると、桜は嬉しそうに涙ぐんでしまった。
「これで、私達は本当の家族になれたのですね」
「うん。例え、血の繋がりが無かろうとも、お互いを想って涙を流せる絆は、何びとにも穢せぬ尊いモノじゃ。余が保証しよう。そなた達は、紛れも無く『家族』じゃ」
「…………はいっ! 」
この時浮かべた桜の笑顔を、俺は生涯忘れないであろう。それ程まで、尊く素晴らしい満開の桜のようだった……。
白百合家は、その後何百年も途絶える事は無く、いつの世も織田家に寄り添い続けた。
桜の子孫が、幕末の世に名を刻む偉大な英雄となったのは、また別のお話し。




