2話
天正十年 七月 安土城
部屋を飛び出した俺は、足早に茶々を追う。涙を流しながら逃げる女性を追いかけるなんて、恋愛ドラマの世界でしか見たことが無い。
何かドラマチックな展開に胸を踊らせていたのは最初だけ、直ぐに息が上がり立ち尽くしてしまった。
悲しいかな。この肉体は三歳児、おぼつかない足取りでは到底追いつける筈がない。闇雲に探しては、茶々を見つける事は出来ないだろう。
そこで、少し立ち止まって考えてみる。
一、追いかけない。
言わずもがな最悪手。若干、寂しくなった茶々がひょっこり出てくる可能性もあるが、関係改善は望めないだろう。
後……江に、汚物を見るような目で罵倒される。
二、白百合隊を使う。
これが一番楽。だが、白百合隊を使った事がバレたら、茶々が拗ねる可能性有り。
『……三法師が、探してくれた訳では無いのじゃな……』って、どんよりした雰囲気で言われる状況が、鮮明に脳裏に映し出される。
……っとなると、自分で探すしか無い……か。
茶々との思い出が、脳裏を駆け巡る。彼女が行きそうな所、好きな所、誰にも見つからない所。
一つ一つ精査していくうちに、ある光景が脳裏に映し出される。あの始まりの場所を……。
一年前……初めて茶々と出会った場所。縁側で日向ぼっこした日々。鈴が転がるように笑う茶々の横顔。そのどれもが大切な思い出で、かけがえのない日々だった。
――だから……。
「茶々っ!!! 」
「………………三法師」
君が、此処に居るって分かったんだ。
茶々は、縁側で座り込んでいた。膝を抱え、遠くを見詰めていた茶々に声をかけると、ゆっくりと視線を俺に向ける。
一瞬だけ、嬉しそうな色が映るも、直ぐに奥へ引っ込み顔を伏せる。その姿には、羞恥心や罪悪感などの負の感情が、心の内で渦巻いている様に思えた。
「茶々……」
「………………」
隣りに寄り添い声をかけるも、反応は無く黙り込むばかり。それでも俺は、茶々から話してくれる時を静かに待っていた。
暫くすると、茶々はゆっくりと顔を上げた。
「……先程の事は忘れよ。妾は、織田家の一族としての責務を果たす役目があるのじゃ。故に、恋など不要。織田家の為に、大名家へ嫁ぐ事が妾の使命じゃ」
「茶々、余はそんな事……」
「安心するのじゃ。分かっておる。ちゃんと、この想いにケジメを付ける。明日になったら切り替えてみせる。じゃから……」
――もう、優しくしないで……。
儚げに笑う茶々の頬を、冷たい悲しみが静かに伝う。その一筋の雫に、茶々の想いの丈が全てこもっていた。
この時代、政略結婚が当たり前なのは分かっている。十四歳の茶々は、他家に嫁入りするのが常識なのだろう。
政略結婚が悪いとは言わない。藤姫や甲斐姫とは政略結婚だし、嫁いだ先で幸せな生活を送る場合もある。
だけど、本当の想いを押し殺して、他家に嫁ぐのは違うだろうっ! それでは、茶々が幸せになれない。
俺が……俺が、茶々を幸せにするんだ!
茶々の左手に手を重ねると、肩が僅かに震えているのが分かった。
「茶々……人を好きになる想いは、何よりも尊いものだ。歳の差も、身分の差も、その想いを断ち切る理由にはならない。お互いが、恋焦がれているのならば尚更……ね」
そう言って笑いかけると、茶々は惚けたように呆然としていた。しかし、直ぐに頭を横に振ると蹲ってしまう。
「じゃ……じゃが、妾と三法師は歳が離れ過ぎておる。三法師が元服する頃には、妾は二十を超えた年増じゃ。それでは……」
「関係無いよ。茶々が待ってくれるのならば、喜んで嫁に迎える。誰にも文句は言わせない」
「……っ! うっうぅ……うぅ……」
茶々を抱き締めると、嗚咽混じりに抱き締め返してくれた。その温もりを逃さないように、更に強く力を込める。
「半年前、じいさまから太刀をいただいた。鞘に、桜の装飾が施されていた太刀を……ね。あれは、あの時の桜であろう? 」
「ぅむ……」
「一年前、慶次に連れられ桜を見に行ったあの日。茶々と交わした約束を、今でも覚えておる。再会が、あのような形であったが……それでも、余は嬉しかった。また、茶々に会うことが出来て嬉しかったのだ」
「……覚えていたのじゃな」
「当たり前であろう? 」
茶々の呟きに、苦笑混じりに答える。忘れる訳が無い。あの桜の木の下で、再会を約束した日の事を。幸せそうに微笑む君の横顔を……忘れるものか。
「最初に会った日の事を、覚えておるか? 」
茶々を見詰めながら問いかけると、バツが悪そうに顔を横に逸らす。
「妾が、三法師を連れ回した日の事じゃな? 今更ながら悪い事をしたと思っておる。迷惑じゃったであろう? 」
「まさか……余は、あの時茶々に救われたのだ」
「えっ? 」
俺の呟きに、茶々が驚いたように顔を上げる。
「詳しくは言えぬが、あの時余には余裕が無かった。使命を果たす為に、無様な姿は晒せないと、緊張で胸が張り裂けそうであった」
「そんな時に、茶々に出会ったのだ。年相応に笑う君の姿が、余の心を癒してくれた。茶々と過ごす時だけは、普通の子供のように振る舞えた。その笑顔に、どれだけ救われたかっ」
言葉の節々に想いが溢れる。歳の差も関係無い。織田家の利も関係無い。ただただ、この想いを君に伝えたい。
「茶々……愛してる」
想いを告げた途端、茶々の瞳から涙が溢れ出した。崩れる身体を支えると、縋り付くように茶々の両手が俺の身体を包む。
「妾で良いのか……」
「茶々で無くば嫌なのだ。茶々だから良いのだ。茶々と過ごす日々が、その笑顔が堪らなく愛おしい」
「……妾の方が先に老ける。それでも良いのか? 」
「しわくちゃになっても、茶々を好きでいるよ。生涯、茶々を愛し続ける。守り続ける。……夫婦になろう」
「……………………はいっ! 」
泣き笑う茶々の姿は、今まで見たどの笑顔よりも輝いて見えた。
この笑顔を、俺は生涯忘れる事は無いじゃろう。




