30話
天正十年 七月 安土城
最近、夜中にふと目が覚める。
静まり返った部屋の中、不意に訪れる孤独感に苛まれ頬を雫が伝う。
乱暴に目元を拭い立ち上がる。周囲の状況から、まだまだ日の出まで遠い真夜中だと分かると、襖を開けて廊下を歩く。
嫌に意識が覚醒してしまったから、もう今日は眠れそうにない。明日は重要な用事があるのは分かっているが、どうしても眠れないのだ。
天守に登り、襖を開けて外を眺める。真っ暗な世界が広がる中に、優しげな月明かりが城下を照らしていた。
そんな幻想的な光景に見惚れていると、不意に横から声をかけられた。
「もう……お目覚めですか? 」
「…………まつ……か」
「はい。正解でございますっ」
いつの間にか、隣りには松が居て、優しげな微笑みを浮かべていた。その笑顔が、親父の顔を連想してしまい、誤魔化し気に空を見上げる。
「いつから……いたのだ? 」
「最初からでございますよ? 近頃……殿は、目を離すと危なっかしいですからっ! 」
悪戯に笑う彼女を、ジト目で睨む。
「……どういういみじゃ? 」
「さぁ〜どうでしょうか? ふふっ」
口元を隠しながら、可笑しそうに笑う姿に、思わず頬が緩む。はぁ……全く、大した奴だよ。松は。
「つきみを……ひとりでやるのもしのびない。まつも、おともせよ」
「ふふっ御意にございます」
松との会話は、とても楽しい時間だった。時間を忘れて語り合い、時に笑い、時に泣き、時に怒った。
馬鹿馬鹿しくも、楽しげな日常の一場面。
いつの間にか強ばった身体がほぐれ、久しぶりに穏やかな時間が流れる。誰もが、俺を腫れ物を扱うように接してくる中、松だけはいつもの様に笑ってくれた。
それだけで、何だか馬鹿らしくなってしまい、ついつい余計な事を言ってしまった。
「ちちうえも、つきがすきなひとじゃった」
今まで隠していた心の声が、ポツリと零れ落ちる。一拍の静寂が訪れ、直ぐに我に返って口元を手で隠そうとするも、松の両手が優しく俺の手を包み込んだ。
「殿……今宵は、二人だけの月見にございます。誰も、聞いておりません。どうか、殿の胸の内を私だけに聞かせていただけませんか? 」
「……………………」
松の優しい音色が、しっとりと俺の中に入ってくる。言葉が……出て来なかった。松の眼差しは、死んだ親父を想い起こさせてきて、自然と涙が溢れてしまう。
松の慈しみ溢れる愛情が、俺の弱った心を温かく包み込んでいった。
だから……これは、松と二人だけの秘密だ。
「ちちうえが、しんでしもうた……。だれよりもやさしく、だれよりもほこりたかいひとであった。そんなひとが、ころされてしもうたのじゃ」
「はい」
「こころやさしきものが、あくにんにあやつられて、ちちうえをころしたのじゃ。……そして、こころやさしきものをころしたのは、わたしじゃ……」
「明智十兵衛様ですね……」
「そうじゃ……」
十兵衛の死に様を思い出しただけで、あの日の感情が蘇ってくる。救いようのない世を憎んだあの日を。主家の為に、自ら人柱になる事を望んだ者達の事をっ。
「ははうえも、しんでしもうた。あかごもろとも……しんでしもうたのじゃ。もう、あいたくてもあえないのじゃ」
懐に手を伸ばし、一枚の文を取り出す。今は亡き、母からの文だ。
確かに、最初は仲が悪かった。一方的に敵意を向けてくる母を、理解する事が出来ずにいた。
それでも、文を通して仲良くしたいって思っていたのだ。当初は、片道切符だったけれど、次第に返事が返って来るようになった。
その独特な『三法師』の書き方が、今では懐かしくて堪らない。どうやったら返事が返って来るか、新五郎と四苦八苦した日常はもう戻らない。
――あぁ…………なんで……。
「なんで、ぜんりょうなものたちから、つぎつぎとしんでいくのだ…………わたしは……わたしは、もっと……いきていてほしかったっ! 」
溢れ出る想いが、止めどなく零れ落ちていく。そこには、織田家当主では無く、両親を失った幼子の姿があった。
どれ程時が経っただろうか……優しい月明かりに照らされていた二つの影は、いつの間にか一つに重なっていた。
震える身体を、松の慈しみに満ちた温もりが、ぎゅっと抱き締める。不思議な事に、ただそれだけで、だんだんと震えが治まってくるのだ。
「人が死ぬ時は、命を失った時に非ず。その者が託した意志が、失われた時なり。遺された者達は、生きねばならぬ。大切な人の命に価値を付けるのは、遺された者達の行動次第。誠に大切な人ならば、そなたは死んではいけないよ。生きて生きて生き抜いて、その意志を後世に繋げるのだ。そうやって、人の生命は……意志は巡っていく」
……まるで読み聞かせるように、松の音色が身体中に染み渡っていく。
「よい……ことばじゃ。……だれのことばじゃ? 」
松に身体を預けながら、自然と口から零れる問いかけ。それを聞いた松は、クスクスッと悪戯に笑った。
「ふふっ……殿の御言葉でございますよ? あの日……殿に初めてお会いした日に、私達にかけてくださった御言葉でございます」
松は、優しい手つきでゆっくりと頭を撫でてくる。何度も何度も……ゆっくりと。
「里が襲撃され、私は生き残った者達を守らねばなりませんでした。悲しむ暇は無く、頭領の娘としての責務を全うする。それだけを考えておりました。それでも、山の中で多くの同胞が死に絶え、私は苦しくて悲しくて堪らなかった……。私の手から零れ落ちる命を見る度に、無力感に苛まれこの世の不条理を呪い……死にたくなりました」
「そんな時、殿が私を救ってくださったのです。私のやってきた事は無駄では無く、死んでいった同胞達は無駄では無い。同胞達の分まで生きて生きて生き抜いて、幸せになって良いのだと、殿が教えてくださったのです」
そこで一旦話しを区切ると、松は俺の両目と視線を合わせる。どこまでも透き通った綺麗な瞳が、真っ直ぐに俺を貫く。
「殿の目指す道は間違っておりません。岐阜中将様も、そう仰っていたではありませんか。蜂屋殿達は、殿の背中を押しました。岐阜中将様は、殿が進むべき道を示しました。後は、貴方様次第にございます。殿の……胸に抱く本当の気持ちを聞かせてくださいませ」
松の言葉を皮切りに、次々と脳裏に皆の言葉が映し出されていく。彼等が、命の散り際に託した意志。それを無駄にするかは、俺の行動次第。
――あぁ……そうだ……俺は……。
「やさしきものが、しいたげられるのをみたくない。りふじんに、いのちをうしなってほしくない。……どうしようもない……あくにんたちも、わたしは……わたしはっ! すくいたいって、おもってしまうのだっ! 」
顔を伏せながら、己の本当の気持ちが溢れ出る。親父や蜂屋、十兵衛達が死んだのは、己の利益しか考えない者達によってだ。
人に生まれ、人の心を持たぬ者がこの世に蔓延っている。理不尽に命を奪い、金を奪い、人の尊厳さえ売り物にする。それを反省もせず、悔やんだりもしない。
そんな者達を……そんなクソッタレな者達を……俺はっ! 助けたいって思ってしまうのだ。
泣きじゃくりながら顔を伏せる俺を、松は批難したりせず、ただただ優しく抱き締める。
「殿は、箱根で理想を語りました。京で、現実を知りました。それでも尚、その想いが……願いが消えないのならば、それは本物です。誰にも穢す事の出来ない尊い願い。大丈夫です。貴方様は、間違っておりません。貴方様の抱いた美しき願いは、間違っていないのです。進んでください三法師様。私は……死んでいった者達は、最後まで三法師様を支えますから」
「あ……ぁぁぁ…………ぅぅぁぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!! 」
「大丈夫です。ずっと、ずっとお傍に居ります」
泣きじゃくりながら、力強く抱き締め合う二人。それを、見ているのは夜空を照らす月だけ。
――あぁ……そうか……俺は……俺の想いは……俺の願いは……間違っていなかったんだ。
翌朝、安土城にある大広間に、数多くの重臣達が詰め寄っていた。彼等一人一人が、新たな主君の誕生を今か今かと待ちわびている。
「三法師様のぉぉおおおっ! 御成ぁぁぁああありぃぃぃいいいっ!!! 」
『ははっ!!! 』
小姓の声に合わせて、一同顔を伏せる。その光景を眺めながら、一歩。また一歩進む。
ゆっくりと時間をかけて上座に座ると、俺は平伏する重臣達へ声をかけた。
「よい。おもてをあげよ」
『ははっ!!! 』
その瞬間、大広間にいる全ての人達の視線が、一斉に俺を貫く。見定めているのだ。誠に、俺が主君の器か否かを。
だが、もう大丈夫だ。覚悟は出来ている。
これからが、俺の夢の始まりなのだ。
「余が、織田家当主三法師である」
三法師が織田家当主を継ぎ、集まった重臣達は忠誠を誓う。終わった者から、邪魔にならぬ様に大広間を出ていく中、一人の男に近付く影が一つ。
「三介様? 今、御時間宜しいでしょうか? 」
「…………徳川殿」
これにて、第二章完結と致します!
ここまで書けたのも、一重に皆様の御声援の賜物でございます。
本当にありがとうございました!
今後の予定は、活動報告にて発表致します。今後とも、どうぞ宜しく御願い致します!!!
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