28話
天正十年 七月 安土城
静まり返った広間に向かって、慌ただしい足音が近付いてくる。その音に気付いた時には、既に襖が解き放たれていた。
「奇妙様ぁぁぁああああああああっ!!! 」
身体に付いた汚れもそのままに、息を荒げながら広間に入って来たのは、北陸戦線を任されていた権六であった。
親父の危篤を知り、一目散に駆け付けてくれたのだろう。その姿に、思わず涙が零れそうになりながらも、必死に堪えて権六へ話しかけた。
「……ごんろく」
「……っ! 三法師様っ!!! 」
ようやっと俺に気付いたのか、凄い勢いで近付いてくる。
「き、奇妙様は!? 奇妙様は、如何様に!? 」
「…………いまは、ねむっておられる」
「さ……左様でございます……か」
権六は、俺が指し示す場所に眠る親父を見付けると、ふらふらとした足取りで座り込んだ。
そんな権六の元へ、近付いて行く影が一つ。
「権六、ひとまずコレで汚れを落とせ」
「五郎左…………」
「焦る気持ちは、痛い程に良くわかる。だが……我等が取り乱したところで、状況が変わりはせんのだ」
「……すまんっ」
権六は、五郎左から貰った手拭いを顔にあて、蹲るように身体を震わせている。その姿に、この場に居る人達全員が、釣られるように涙を流した。
論功行賞が発表されたその日の夜。ようやく一段落ついた事後処理に、緊張の糸がプツリと切れてしまったのだろうか。
親父は、日に日に体調を崩していき、昨日から起き上がることも出来なくなってしまった。
親父を診察してくれた先生曰く、限界等とうの昔に迎えており、今まで気力で耐えていたそうだ。
それは一重に、親父自身で事後処理をしなければ、国が荒れると考えたからだろう。
無理をしていたのだ。……俺に、引き継ぐ為に。
先生の話を聞いた俺は、直ぐに権六と五郎左に文を出した。急いで戻るように……と。
五郎左は、偶々左近の後始末で信濃国へ向かっている道中だったので、昨日には安土城へ到着することが出来た。
問題は、権六だ。未だに不安定な状態である越中国を、必死に上杉家から守っていたから。直ぐに駆け付けられる程、余裕のある状況では無かった。
不幸中の幸いと言うべきか、謀反と田植えの時期が重なった事で、大規模な軍事衝突は無かったが、上杉家に連なる国人衆のゲリラ戦に随分苦労していたようだ。
それでも、何とか反乱分子を潰して安土城まで駆け付けてくれたのだ。一目散に……間に合って欲しいと、願いながら……。
その後、権六が落ち着きを取り戻し、先生から容態を聞いている時、ふと小さな声が聞こえてきた。
「……ぅ…………ぅあ…………」
「ちちうえっ!? 」
慌てて親父の傍に駆け寄ると、そこには薄らと瞳を開いた親父の姿があった。
「三…………法師」
「ちちうえっ! そうでございます! さんぼうしに、ございますっ!!! 」
「……心配かけたな…………すまん」
『奇妙様っ!!! 』
「皆も……心配かけたな……」
親父が、権六達へ微笑む最中、俺は嗚咽を抑えることが出来ずにいた。悟ってしまったのだ。もう……親父の命の焔が、尽きようとしている事を。
親父も、自分自身の事だから自覚していたようで、どこか悲しげな色を浮かべていた。
「最期に……これからの事を話す。一同、俺が紡ぐ全ての言葉を遺言とせよ」
『……っ! 御意っ! 』
皆が皆、唇を噛み締めながら必死に堪えている。本当ならば、声の限り叫びたい。嘆き悲しみたい。それでも、必死に堪えている。親父の、最期の言葉を汚さぬ為に。
親父は、そんな権六達を一瞥すると、朗らかに微笑みを浮かべていた。
「織田家の家督は、三法師が継ぐものとする。権六・五郎左・藤吉郎・左近が中心となり、三法師を支えよ」
「それに伴い、尾張国・美濃国・近江国・山城国の国主を三法師とする。だが、未だ幼い三法師では、四ヶ国の政をこなすのも困難。故に、尾張国を三介。美濃国を新五郎。山城国を三七に任せる。三法師が元服するまで、そなた達が国を治めよ」
『御意っ!!! 』
一言一句言葉を紡ぐ度に、親父の気配が薄くなっていく。まるで、魂が零れ落ちていくような姿に、視界が滲んで止まらない。
そんな俺に、親父は優しく声をかけた。
「三法師……こっちにおいで? 」
「は……い……」
親父の右側に座ると、温かく大きな手が俺の頭を撫でる。俺が大好きだった……大きな手がっ。
「三法師、そなたは特別な子だ。人は、生まれながらにして宿命を背負う。天から与えられた宿命を成す為に、人は宿命を乗り越えられる才を貰うのだ。きっと……三法師は、様々な困難が降り掛かる。だが、三法師ならば乗り越えられる。乗り越えた先に、夢見た理想が待っている。……頑張りなさい」
「はいっ! ちちうえっ! 」
歯を食いしばりながら返事をすると、親父の手が頬へと伝っていく。
「誰も彼もが平穏な日々を送り、微笑みの絶えぬ世の中。その理想を目指す道中、様々な現実とぶつかるだろう。決して簡単な道のりでは無い。多くの挫折を味わうだろう。大切な人を失うだろう。前に進めなくなるやも知れん。様々な負の感情が心を乱すだろう。今、三法師が感じているように……な」
「それは……」
図星だった。十兵衛達が死んでから、俺の理想の過酷さを本当の意味で知った。皆が皆、平穏な日々を望んでいる訳は無く。救いようの無い悪人が、平然と生きている事を知ってしまった。
箱根で、師匠に語った夢は嘘偽りな気持ちでは無い。もう、誰も悲しむところを見たくない……。
だけど、俺の声が届かぬ者がいる。手を振り払う者がいる。刃を向ける者がいる。陥れようとする者がいる。
それを知ってしまった今、不意に思ってしまうのだ。
『もう……無理なんじゃないか…………』
そんな考えが、ふとした瞬間に脳裏を過ぎる。理想と現実を知った俺の膝は、もう崩れ落ちる寸前だった。
そんな俺の心に空いた穴を、親父の言葉が優しく治していく。これから先も、歩いて行けるように。
「顔を上げて前を向け。胸を張って進め三法師。そなたの理想は、どこまでも清く正しい。その想いは、決して間違っておらん」
「ちちうえ…………」
親父は、たどたどしく俺の頬を両手で包むと、満開の笑みを浮かべた。誰よりも、美しく儚い微笑みであった。
「微笑みの絶えぬ世の中にしたいのならば、三法師……そなたが笑わなくてどうする? 自分を笑顔に出来ぬ者が、他人を笑顔に出来るものか。幸せな世の中にしたいのならば、三法師が一番幸せになりなさい。誰よりも笑顔でいなさい。己が描いた理想の世界に、そなたの名を刻みなさい。三法師だって、幸せになる権利はあるのだから」
「……っ! わが……り…………まじ……た」
「三法師よ。どんなに苦しくても、どんなに悲しくても、抱いた夢を決して諦めるでないぞ。国も。帝も。大名も。家臣も。民も。悪人も。善人も。その一つ一つを愛する事が出来る事を、どうか誇りに思って生きよ。三法師は、慈愛に満ちた素晴らしい子供。俺のかけがえのない宝物。俺の……誇りだよ」
「そして、自分自身も愛されている事を、忘れるでないぞ。三法師が心を通わせた者達は、皆そなたの事を愛している。俺も……愛しているよ。三法師を、愛している…………」
「ぅ……ぅぅ…………」
「見守っているよ…………三法師を……いつまでも…………ずっと……見守っている…………」
最期の言葉を紡ぐと同時に、親父の両手から力が失われていく。ズルズルと下がっていく両手を握り締め、俺はただただ絶叫を上げる他無かった。
「ちちうぇぇぇぇえええええええええっ!!! 」
天正十年七月十日。織田信忠死亡。享年二十六歳。次代の天下人として期待されていた若き英雄は、その短い生涯に幕を閉じた。
その後を追うように、岐阜城にて信忠の妻が息を引き取った。享年二十二歳。




