第十七話『宣教師』
世間一般では、あまり浸透していないが。
未調査領域の境界は、曖昧だったりする。
これは、領域自体が黒い霧という空間自体に干渉する物品によって異変が生じた事が理由であり、大なり小なりの領域の変調が見られる。
密林なんかの領域からは植物が周辺地域へと侵食するなどと言った事象もあるし、逆に領域の縮小などの情報も挙げられている。
そうして、その現象は凶兆だ。
強力な妖魔が発生したり、領域自体が突然変異を起こすこともあるーーそして、十中八九で俺は死ぬ。何か思考する間もなく死ぬ。
魔力を有さない人間は、そもそも妖魔などといった危険生物と戦えない。勝負にすらならない。木の棒でマシンガンライフルに相対するような物である。軽く死ねる。
いや、既に唯一できた逃走の選択肢すら、羽虫の発生で不可能となった時点で、俺はもう死んだも同然だ。
短い人生だった。
魔力を扱えない体質。
皆ができる事が、できない劣等感。
そして、同時に沸き立った飽くなき探究心。
思い返せば、俺の人生のほとんどは神秘関連の物だけで家族も友人も特に親しい者がいない。人から言わせれば、空虚な人生だっただろう。だけれど、俺からすれば中々に充実した日々だった。
という感じで、
遺書をメールで弟の秀次に送ろうとしたが圏外で通じなかった。体質で魔法を使えなければ、遺書さえ送らせてくれないとか神と言う存在がいるならば、クソったれな奴である。
一体、俺が何をしたと言うのだろう。
「ああっ、我等が同胞よっ! 嘆かわしいっ!
彼の悪鬼に魅入られし、愚者共よ。貴様等の濁った瞳もラゴウ様の威光に触れれば晴れるだろうに。 その機会さえないとは、救えないっ!
ならば、我等が授けらるのは安寧の死のみと言えるだろう。ラゴウ様、バンザイッ!」
「ラゴウ様、バンザイぁぁい!」
「おお、我等がメシアよっ!」
「全ては、羅吼姫さまが為にっ!」
………何か、遠くの方で声が聞こえる気がする。
明らかに、人外の声音であるし、内容も内容だ。
要所々々で聞こえる単語には『ラゴウ』という単語が含まれていて、俺の記憶にも心当たりがある名前でもあったりする。
いや、逆に。
退魔師で、その名を知らない者はない。
鬼院が『影の首魁』なら、五百山 羅吼は、【百鬼】という組織に置いての顔であり『表の統率者』と言っていい。
いや、影の首魁が砕かれた今では、名実共に【百鬼】の主導権を握っているのは、彼女だろう。
わぁ、すごいビッグネームだぁ……帰りたい。
出来る事なら、さっさとネコ兄を連れて離れたい。
「さぁ、気を引き締めろ。
今や奴等は同胞から外れ、老い朽ちた邪鬼に魅入られた外法の存在。この地はラゴウ様が統べし、極楽浄土へと繋がる穴となるーー悪しき人間共にも、邪鬼の亡霊共にも、ラゴウ様の地は穢させないっ!」
「悪しき者共に、断罪をっ!」
「穢れた身で、ラゴウ様へと近付く事こそが罪っ!」
「此れは聖戦ぞっ! 死してラゴウ様の御許にっ!」
「邪教徒共を灼けっ!殺せっ!
我等は羅吼衆。敬い信奉し、ラゴウ様を尊ぶ事こそが、我等が存在する意味であり、意義である。安寧は死ではなく、ラゴウ様の御許にこそあると知れっ! 全軍前進、領域内の邪教徒共を殲滅せよぉぉおお!」
……何が言いたいのか、分からないが。
頭がおかしいって言うことは、良く分かった。
号令に合わせ百は下らない足音が轟音となり、行進と呼ぶには荒々しい音を立てて雪崩れ込んで行く。視覚は暗い中では機能せず、聴覚も羽虫の音で十全と働きはしないだろう。
反応に遅れる可能性は、大いにある。
こんな集団にぶち当たったら、いくら化け物染みた強さの退魔師でも一溜まりもない筈だ。聞こえてきた声音には、一切の躊躇がなかった。出会い頭に殺戮モードの集団とか……此処は地獄かな?
そんな号令の下で進む行進を、聞き続け。
漸く思考が戻ると、脳裏へとネコミミの事が横切った。ネコミミ兄が死ぬ。出会ってしまえば、一発だ。
どうする?
何が出来る?
魔法も使えなければ、異能も俺にはない。
退魔師としては下の下。体術なら武術を習う上で鍛えてはいるけれど、躁気術と言う身体能力を向上させる武技は扱えない。所詮、人の域からは脱せない。
唯一の呪具である"本"も、
基本的には戦闘用の物ではない。
……時間はない。
奴等の意識を少しでも離せれば、領域内の者達の負担は計り知れない。いや、待てよ。
「五百山 羅吼の、ロリババァァアアアっ!」
忘れていた。失念していた。
此処は入口だ。
つまりは、出口でもある。
もし、領域内で不測の事態にあった場合。
出口へと向かうのが常識的な行動だ。ならば、今の領域内にいる者達は逃げ場を失う事になる。そこから、乱戦へと持ち込まれれば防衛戦などと言った枠組みは崩壊する。
今ここで、
その最悪のシナリオを変える必要がある!
一瞬でも一秒でも良い。奴等の足並みを崩すタイミングは今しかない。
「貴様、遺言はあるか?」
すぐ後ろから、
酷く冷たい人外の声がした。