愛と毒の白雪姫
お母様はただ、可哀想な方だった。
始まりは私を産んだお母様が亡くなられた時。
今のお母様は隣の国から男の世嗣ぎを産むために、お父様の元に嫁いで来られた。
その時、お母様は二十過ぎ、お父様は三十半ば、私は十二歳だった。
王族、といえば結婚が早い中、お母様は中々良い相手に巡り合えず、些か遅い結婚ながらこれ以上の相手はいないと、お父様と結婚した。
周囲に望まれ、万事が上手くいくと思われた結婚。
しかし、お母様は決して、幸せだったとは思えないのだ。
特に、一番近くでそれを見ていた私はそう感じていた。
お父様はお母様を愛すことが出来ない。
それがわかっていたから。
「ああ、ユリー。どうして、君は私を残して逝ってしまったのだ」
お母様が亡くなってから、お父様の口癖はそればかりだった。
苦労して異国の地まで嫁いできた今のお母様には目もくれず、前王妃との思い出に浸ってばかりいた。
確かに、お父様はお母様と仲が良いことで有名だった。
私はあまり会わせてはもらえなかったが、お母様が生きていたころは病気がちなのを心配して、いつも見舞いに訪れていたという。
公務は決して、楽なものではない。
だというのに、毎日見舞ったというのはお父様がお母様を大切にしていた証拠でもあった。
美しき愛。
一途な純情。
端から見れば美しいそれも、新しく嫁いで来られたお母様にとっては毒でしかなかった。
苦労して、異国まで来て、やっと結婚出来たと思えば見向きもされない。
その時はまだお母様は何も言わなかったが、相当苦しかったに違いない。
その一方、私はお父様に愛されていた。
理由は簡単。
亡くなったお母様に、私が酷く似ていたから。
お父様はお母様がいなくなった寂しさをうめるように、今まで以上に私を溺愛した。
欲しいものはなんだ?
最近どうしている?
体は元気で丈夫か?
顔を合わせばすぐにそう声をかけられた。
真珠を愛でるかのように、その手つきは優しく。
私を娘としてではなく、まるで恋人の女性にするように扱った。
時折、狂気すら伺わせるその目は私に激しい警鐘を鳴らした。
いけない。お父様は私とお母様と同一視しているわ。
このままではいつか、私たちは父と娘という関係を超えてしまうかもしれないわよ、と。
とはいえ、家族だし、私もお父様のことは嫌いではなかった。
お母様を亡くした悲しみもわからなくはなかった。
だから、それを拒絶することも出来ずにそのまま過ごし続けてしまった。
今思えば、それはお母様を傷つける行為でしかなかったのに。
この扱いの違いは次第にお母様の心を蝕んでいった。
どうして、私だけ。
なんで、愛してはくれないの?
そんな呟きが度々私の耳に入った。
お母様はそれから時々魔術師を呼び、怪しげな儀式などを行うようにもなった。
多分、心の拠り所を探していたのだと思う。
お母様は魔術に昏倒し、いつの日か鏡に語りかけるようになった。
「鏡よ鏡よ、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」
鏡は端から見れば、何も語っているようには見えなかった。
そこに映るのは寂しげな女性、ただ一人。
しかし、お母様にはそれが自分だと、鏡が言っているように見えていたのかも知れない。
お母様は毎日のように鏡に張り付くようになった。
鏡に語りかけることで、ギリギリのところで踏みとどまっていた。
そうして恋人のような父と娘、狂いかけの母という危うい均衡は三年も続いた。
私は狂い始めた関係を止めることは出来ず、お父様を慰め、お母様を避けた。
夜はその均衡が崩れる恐怖で、何も出来ない自分を恨み通した。
でも、不安定な状況は続かないもので。
十五になり、私に婚約話が持ちかけられるようになった頃、その崩壊の兆しが見え始めた。
家臣は最近不仲となり始めた隣国の王子に嫁ぐことを勧めたが、亡くなったお母様にますます似てきた私をお父様は離したがらなかったのだ。
城内の雰囲気はもちろん最悪。
その余波はお母様にまで及び、大事にされている私を罵倒するようになった。
曰く、父に色目を使う、汚い娘だと。
またある時には、死んだ前王妃に取り憑かれた魔物だと。
当然といえば当然だが、日に日にお母様から受ける嫌がらせは酷くなった。
罵倒だけではなく、服を破られたり、打たれたりというのは頻繁に起こるようになった。
潮時だ。
そう思ったのは、ある出来事が境目だった。
お母様に嫌がらせの為、呼び出された時のことだ。
お母様には私としても強い罪悪感があったし、言われたことには基本何でも従っていた。
その日もお母様に言われた通り、お母様の部屋を訪れてみると、お母様は鏡に向かっていた。
「鏡よ鏡よ、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」
いつも通り、鏡に語りかけるお母様。
しかし、私はその時、お母様の背後にいた。
つまり、鏡には私も映り込んでしまったワケで。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
甲高い、悲鳴が上がった。
「違う、ダメよ!」
ドンッ、とお母様は私を突き飛ばした。
私はその衝撃でその場に倒れ込んでしまう。
お母様は頭を抱えて、虚ろな目で私を睨みつけた。
「この鏡に映るのは私だけよ」
お母様は悲痛な声で、さけび声を上げた。
まるで、何かを恐れるかのように、怯えた表情で、首を振った。
「この鏡に映るのは私! 誰にも譲らない。あの人の愛も、私の美しさも誰にも渡さない。私だけがすべてを受け取るの。あなたは、この鏡に映っちゃいけないの」
目には絶望と深い悲しみが宿っていた。
私はそのあまりにも切ない瞳に胸を突かれたように息が出来なくなる。
ああ、私がお母様にこんな目をさせているんだ。
私がここにいるから、お母様もお城の人も、苦しめているんだ。
瞬時に私はそんなことを思った。
お母様に昔のような若々しさは失われ、今は相当に窶れている。
それは何よりも苦労してきた証なのだろう。
しかし、不思議なことにお母様の表情に憎しみはなかった。
あるのは自分が選ばれなかった絶望と、私を憐れむかのような眼差しだ。
何故だろう?
そんな疑問が私の頭の中を埋め尽くした。
「あなたは、ここにいてはいけない」
だが、その言葉で確信した。
そうだ、お母様は私を妬んでいるのではない。
ただ、私を憐れんでいるのだ。
お母様の代わりとして、娘としては愛されなかった私を。
鳥籠の中の小鳥のように、父から逃れられない私を。
お母様は自分が選ばれないことが悔しいのではない。
きっと、自分の負うべき役目を果たせないことに責任を感じているのだ。
だから、鏡に縋り付き、自分の美しさで自信を取り戻そうとした。
「ごめん、なさい」
お母様は私のせいでどこまでも不幸だ。
なのに、私を憎もうとしない。
虐めていたのだって、私をここから突き放そうと必死になっていただけ。
きっとやり方がわからなかっただけなのだ。
お母様は震える声で呟いた。
「何を、謝っているの? 全て受け取るのは私よ。責任も、愛も。あなたの背負うものじゃない。なのに、あなたは私から逃げようともしない。こんなの歪んでいる。あなたは分かっているはずなのに」
私も罪滅ぼしのつもりだった。
けど、それは違っていた。
お母様はこの城から、父の愛から私を離そうとしていたのに、私はお母様とのこの関係を繋ぎ止めることが良いのだと、認識を違えていた。
ただ、互いのことを思っていただけなのに、私たちはすれ違っていたのだ。
私はそのことに気がついて、激しく後悔した。
初めから、向き合うべきだった。
そうすれば、ここまで事態は悪くならなかったはずだ。
もう今更遅いけど、私はここにいてはいけなかった。
私がいなくなれば、お父様もきちんとお母様に向き合ってくれていたはず。
お母様が苦しむことはなかった。
「さあ、行きなさい」
部屋の前には猟師だという男が立っていた。
私は最早抵抗することなく、彼に従い森の奥へと逃れた。
暫く小人たちに匿われながら、お父様の捜査の手が緩まった頃、隣国へ行くつもりだった。
だが、予想外だったのはお父様の必死さが異常だったこと。
捜査の手は緩むことなく、次第に私の場所へとその手は近づいてきていた。
また、連れ戻されてしまうのか。
私は絶望に震えた。
私は本当に無力だ。
離れることすら出来ず、またお母様を幸せに出来ないなんて。
ある日、遂に家の戸がノックされた。
私は心配する小人たちを制して、自ら外へ出た。
彼らは居るだけで迷惑な私に本当に良くしてくれた。
最後くらいは迷惑はかけたくない。
そんな思い故の行動だった。
しかし、外へ出た私の前に立っていたのは一人の老婆だった。
深くローブを被り、手にはカゴ。
カゴの中には禍々しいまでの赤をした林檎が入っていた。
「お母様」
魔術で姿は変わっていたが、私はすぐに分かった。
お母様は私が呼ぶと、ピクリと肩を震わせたが、何も言わない。
代わりに枯れ枝の如く細く皺だらけの手でカゴに入った林檎を差し出してきた。
手にとって見れば、林檎からは甘い香りがした。
甘美で頭の中が痺れそうになるくらい、良い香り。
私はこの林檎の正体を理解していた。
「お嬢さん、もう限界だ」
老婆は嗄れた声で言った。
何が、とは言われなくたってわかる。
恐らく、追っ手がもうそこまで来ているのだろう。
「私はお前が私のようになるのは望んでいないのだ。選ぶのはお前だが、その先に明るい未来があるとは思わない」
その通り、だ。
捕まったとして、私は一生お城の中で歪な愛を注がれるだけだ。
お父様はいつしか、お母様以上に狂うようになっていた。
そして何より、私に深く依存していた。
今度捕まれば、逃げるチャンスはもうない。
だったら、一生窮屈な生をとるか、自由になる死を選ぶのか。
選べるのは二つに一つ。
究極の選択肢だった。
「許せ、とは言わない。恨んでくれたって構わない。けれど、私はお前にこの苦痛は似合わないと思うのだよ」
既に、答えは決まっていた。
都合の良い、解釈かも知れない。
誰かに愛して欲しかった私の妄想なのかも知れない。
けど、私にはそれが真実だと思いたかった。
母を自由にしてあげたかった。
「お母様、最後に教えてください」
「何だね」
「私があなたの娘で良かったのでしょうか」
血の繋がっていないお母様。
ろくに会話をしたことのないお母様。
そして、私のせいで全てを失ってしまったお母様。
決まっている。
良いわけがない。
でも、それでも私のお母様だ。
血の繋がったお母様にはろくに会えなかったから、顔も思い出せない。
だから、一番近くにいたのはやっぱりお母様なのだ。
多分、本当の私を見てくれたのもお母様ただ一人。
幾らその関係が歪でも、最後にしか理解出来なかったとしても、私にとっては唯一のお母様だ。
お母様は魔術を解いた。
いつもの顔に戻り、フードを脱ぐ。
お母様はひたすら無表情だった。
「そんなの決まっているでしょう。どうしようもなく、私たちは親娘よ」
お母様のそれ以上の言葉はなかった。
お母様はクルリと背を向けると、森の奥へと歩き出してしまう。
私もそれだけで十分だった。
手にした林檎を口元に持っていく。
甘い芳香がより一層強くなったように感じられた。
「お母様、どうかお幸せに」
クシャリ。
噛み締めた林檎は今まで食べた中で一番、甘く、苦く、そしてしょっぱかった。