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家に帰るとママがキッチンでシチューをあたためていた。
「おかえり。遅かったね」
「うん。ちょっと、美里とおしゃべりしてた。ママは早かったんだね」
「まあね」
いつもの緑色のジャージにトレーナー、黒縁めがね。当然メイクも落としてる。家に帰ってお仕事モードをオフにしたママの、ゆるーい部屋着。ジャージは高校生のときのものだって。学校指定のやつで、学年色が緑だったとか。ママ、パパの前でもこんなかっこうしてたのかな。当然だよね、家族だもん。
じゃあ、古賀さんには。見せられるのかな。
どうでもいいや。首をふって、あたしは着替えるために奥の部屋へ行った。押入れから荷物という荷物がひっくり返されている。ため息がもれ出る。どうせ片付けるの、あたしなのに。思いつきでいろいろ行動するんだから。
ママは、きゅうに思い立って夜中に大掃除や模様替えをはじめることがよくある。家中の物をひっくり返して、古いアルバムだの、あたしの小さいころの作文だのを見つけて、それに見入っていつの間にか掃除をわすれてしまうんだ。夜中、目を覚ますと家のなかがすごいことになっててびっくり、なんてことがよくあった。
「ごめんねえ」次の日、きまってママは謝るんだ。
「見てよ、あんたの二年生のときの絵。おかあさんの絵、だって。けっさく。手と顔がおんなじ大きさで描いてあるし」
なんて、妙にハイテンションで、笑いながら。
あたしは制服を乱暴に脱ぎすてて、カットソーとジーンズに着替えた。すこし寒いから白いニットのカーデを羽織る。
ふうと大きく息をつく。これは、満たされたときに出るため息。
キンモクセイ、楽しかったな。ひょうひょうとしたマスターに、美人だけど気さくでさっぱりした春奈さん。友達のいない男子高校生、水島樹。あたしとおなじ名前の。
美里やなかちゃんには、あの場所のこと、教えなくてもいいよね。もちろん、ママにも。
あたしだけの秘密の場所。学校帰り、遠回りして立ち寄る隠れ家喫茶店。ブラックで飲むコーヒー。
学校でのあたしの場合。あたしのクラスの女子は、大まかに言って四つのグループに分かれてる。グループ同士は決して仲が悪いわけじゃないんだけど、それでもやっぱちがうグループの女子の中には入っていきづらい。みんな、グループの中にだけある秘密やルールで、見えないうすい膜をはっているんだ。時々それが、ひどくきゅうくつになる。
家も。ひとりでいるか、ママとふたりでいるか、どっちかだもん。おまけにママは、なんだかちょっぴり遠いの。
ママに呼ばれて、ご飯を食べる。会話はない。なにを話しかけていいのかわかんない。
「いつき。おいしくないの?」
ママの、めがねの奥の瞳がくもってる。あたしは首を横にふった。正直言って微妙だけど。シチューのルウが溶け切ってなくてざらざらするし、じゃがいもは煮えすぎてどろどろ。ママはお料理があんまり得意じゃないんだ。
「古賀さんがね」
ママが言う。また、古賀さんの話?
ふたりが美術館デートに行った日、ママはぽーっとしちゃって、まるで心をどこかに置いてきたみたいだった。絵がどれだけ素晴らしかったか、さいしょはそんな話だったのに、だんだん古賀さんがどれだけ優しいか気が合うかって話にシフトしていっちゃって。とちゅうで我にかえってママは「あっ、ごめん」なんて、赤い顔して口に手を当てたんだ。
あたしの顔色を見ながら、ママはつづける。
「今度、宇宙館に遊びにおいでって。お友達もつれて。十一月に、小中学生向けに、流星群を観測するイベントをするからって」
「行かない」
即答するあたしに、ママはまゆ毛を下げる。
「彼のこと、きらい?」
「きらいかどうかわかんない。一度会っただけだし。でも」
ことばにつまる。でも、の先。あたしは、何を言おうとしたんだろう?
こたえが見つからないまま、それでも朝は来る。
学校へと続く坂道沿いに、ずらりと銀杏の木が植えてある。まだ若い木々だけど、どの木もちゃんと銀杏らしく、その葉を黄金色に染めている。つよい風が吹くと、いっせいに舞い散る葉が朝の清潔なひかりを浴びて、金色の蝶のようにひらひらと踊った。
「おはよう」
美しい景色とはうらはらに、重い足取りで学校へと向かうあたしに声をかけてきたのは、羽村くんだった。
「坂本さん、具合でも悪いの」
「ううん。そんなことないよ」
朝の冷えた空気のなか、紺色のセーラー服と黒い学生服の群れが、ざわめきながらすり抜けていく。羽村くんはからだのわりに大きすぎる学生服の袖のなかに手をひっこめている。
「こうすると手がつめたくない」
「なるほど」
うなずくあたしに、羽村くんが遠慮がちに言った。
「坂本さん、吹奏楽部、入らないの」
「入らないよ。なんで」
「いや、その……。中根がさ。坂本さんがいれば楽しいだろうな、って」
羽村くんは白い息を吐く。
「最近、中根のやつ、部のなかで浮いてるんだ。ほら、あいつ、熱血だろ。コンクールで全国目指す! とか夢みたいなこと言っちゃってさ。うちはもともとそんなに熱心にやる部じゃないし、先輩たちにもうざがられてんの」
「そうなんだ。知らなかった。なかちゃん、何も言わないんだもん」
「だろうなあ。強情だもんなあ。俺にもなんも言わないよ。最近のあいつ、すげー怖いカオして楽器吹くんだ。前はもっと楽しそうだったのに」
羽村くんの長いまつ毛が憂いにみちたような、淡い影を落としている。あたしはふっとやさしいきもちになった。
「ふうん。羽村くん、好きなんだ。なかちゃんのこと」
「な……。違うよ。冗談じゃないよ。あんなコワい女」
羽村くんはあわてて言い訳した。なんか、いいなあ、と思った。恋は恋でも、羽村くんの恋は純粋でけがれがなくて、誰のことも傷つけない。
じゃあ。じゃあ、ママと古賀さんは? 不純で、けがれてて、誰かを傷つけているの?
あたしは、傷ついているの?
あたしと羽村くんはそれぞれの思考の迷宮に入り込んでしまって、同時に、はああ、とため息をついた。
みんな、心のなかにいろんな気持ちを飼っているんだね。なかちゃんも、羽村くんも。ママだって、飼っている恋心を、せめてあたしには見せないようにしてくれていたらな。
そんなことを考えながら、カウンター奥のサイフォンの水がこぽこぽ沸き立つのを、じっと見ている。
あたしは毎日のように「キンモクセイ」に通っている。お客さんはいつも少ないから、ここで宿題をしたりもする。わからないところは樹くんや春奈さんが教えてくれるし。春奈さんは現役大学生だし、樹くんだって進学校の生徒で、しかも理系のトップクラスにいるらしい。
コーヒーのかおりがふわりとひろがる。マスターが淹れたてのコーヒーをカップに注いで、あたしのノートの横に置いてくれた。
「今日は樹くん、遅いね」
マスターが言う。あたしも、同じことを思っていた。文化祭も終わって、部活は一段落して暇なんだって言ってたのに。どうせひとりしかいない同好会だし、天文雑誌を部室で読むかここで読むかのちがいだって。星の観察は夜だから個人的にやってるし、って。言ってた。
「まさかとは思うけど、デートじゃないよねえ?」
マスターがにやりとわらう。
ないない、とあたしもわらった。だって友達もいないんだよ。彼女なんているわけないよ。
あのひとも、まだ、あたしやなかちゃんと同じ側にいるんだよ、きっと。
なかちゃんのことを思う。部活で浮いてる、って。
なかちゃんは今、合同演奏会に向けて燃えてるの、って言ってた。ぜったい聴きにいくよってあたしは言った。
コーヒーを口にふくむ。苦くて、あたたかい。