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次の日の学校帰り、あたしは「キンモクセイ」に行ってみた。道はなんとかおぼえていたけど、案外学校から遠くてびっくりした。
あの高校生は絶対にここにあらわれると思う。いかにも常連っぽい雰囲気だったし、店員さんとも知り合いっぽかったし。
問いただすつもりだった。あたしの名前を知ったときの、あのリアクション。小さな謎だけど、魚の小骨のようにひっかかってきもち悪い。
キンモクセイの花は散ってしまったみたいで、あの濃厚なあまい香りはもうしない。花のいのちはみじかいんだ。雨上がりでもないのに、石垣ごしに見えるキンモクセイや楓の葉に、ネックレスみたいな水滴がたくさんついていて、それがやわらかい秋の陽をあびてまばゆくひかっている。
敷地にはいるとすぐに、かがやく水のアーチが見えた。あの、ポニーテールの店員さんが、ホースで植木に水をあげている。店員さん(春奈さん、だったっけ?)はすぐにあたしに気づいて、ぱっと、花がほころぶような笑顔になった。
「こんにちは」
「こんにちは」
春奈さんの笑顔と「こんにちは」が、洗剤のコマーシャルで庭に干してある白いシーツみたいに清潔で完璧だったので、あたしもつられて、いやにはきはきとあいさつを返した。
春奈さんはやわらかな笑顔のまま、つづける。
「この前、ここに来てくれたでしょう? 中学生なんてめったに来ないから、覚えてる」
うなずくと、春奈さんは
「あなた、忘れ物したでしょう。店であずかってるから、中に入って待ってて。あたしはこれを片付けてくる」
と言って水の出ているホースを振ってみせた。水の玉がほとばしって、きらきら光った。
ドアには「準備中」のプレートがかかっていた。いいのかなあ? なんて思いながら中にはいる。中は外界より一段階暗く、コーヒーの残り香がする。もう染みついてしまったにおいなんだろう。
ところで、忘れ物って何だろう。財布や携帯だったらすぐに気づくはずだし……。
と、ぱちんと音がして、天井からぶら下がっている、オレンジ色のはだか電球みたいなあかりがあくびするみたいにゆっくりと明るくなった。
「座ってていいのに」
春奈さんは苦笑した。ちょっと迷って、この前と同じ席に座る。春奈さんはカウンターに小さな鉢植えを置いた。
「あっ……」
たった今、思い出した。あたしの忘れ物。花屋さんで衝動買いした多肉植物。
「ちゃんと陽のあたるとこに置いておいたからね」
春奈さんがわらう。つやつや、ころころした葉っぱが、こころなしかあたしが買ったときより生き生きしているように見える。
「水は少なくてもいいけど、お日様にはたっぷり当ててあげないとダメなんだよ。あたしも前育ててたの、それとおんなじ品種。『虹の玉』っていうの」
「虹の玉……」
きれいな名前。あたしは春奈さんにお礼を言った。
「いいのよ。何か飲んでく? サービスするよ。何がいい?」
「えっ、でも準備中なんでしょう? それに、マスターもいないし……」
「いいの、いいの。マスターはいつ帰ってくるかわかんないし。買出しに行ったきりもどってこないの。どうせどこかでふらふら油売ってんだと思う。いっつもそうなんだ。気まぐれで、儲ける気、ゼロ」
春奈さんは井戸端会議しているおばちゃんみたいにぺらぺらとしゃべった。かなり気さくっていうか、くだけたひとみたい。
「じゃ、……コーヒーをお願いします。この前と同じのを」
「オッケー」
そのとき、がらんとドアの開く音がした。マスターが帰ってきたんだ、と思ったあたしはすこし身がまえて入り口のほうを見た。
「あ」
例の高校生だった。あたしたちはお互いに気づくやいなや、ぽかんと口を開けたまま、絶句した。やっぱり来たかと思ったものの、てっきりマスターだと思い込んでいたあたしは不意打ちをくらったような感じになってしまう。高校生は高校生で、まさか準備中の店内にあたしがいるなんて思ってもみなかった風だ。
「ちょっと、イツキ。その猫、どうしたの」
春奈さんが言った。いつき?
「あの。なんで、あたしの名前」
「は?」
いきなり春奈さんがあたしの名を呼んだ(それも呼び捨て)から、おどろいた。それに、猫って? 頭がこんがらがるあたしに、さらにこんがらがっている様子の春奈さん。
にゃーお。
かぼそい、甘えるような鳴き声。高校生の足もとに、小さな、やせっぽちの白猫がまとわりついている。
「あ。えーと」
高校生がぼりぼりと頭をかいた。
「猫は神社のそばで拾いました。いつき、っていうのは俺の名前だけど、そこに座っている彼女の名前でもある。つまり俺たちは同じ名前なわけ」
と、まず春奈さんに説明して、つぎにあたしのほうを見て言った。
「このあいだはどうも。びっくりさせてごめん。俺もびっくりしたんだ、同じ名前だったから」
ぺこりと頭をさげる。そしてつづけた。
「俺は水島樹といいます。樹木の『じゅ』で、いつき」