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「あっ、ヒコーキ雲!」
あたしの横を歩いていた美里が唐突に叫んだ。まわりにいた、下校途中のほかの生徒たちがおどろいてこっちを振りかえる。
「ちょっと美里、声、大きいよ」
「ごめんごめん。だってうれしかったんだもん。あたし、これで二十回目なんだよ!」
あたしと美里の、帰り道。中学にはいってからずっと、美里はヒコーキ雲を探してる。そしてはじめて、おまじないが完結する瞬間がおとずれた。
「すごいじゃん。よかったね。願いごと、かなうよ。ね、美里の願い事って、なに? バレンタインに彼氏ができますように、とか?」
あたしが茶化すと、意外にも美里はふっと真顔になった。
「あたしの願いごとは……。いつきと、前みたいなかんじに、もどること」
「美里……」
「いつき。ごめんなさい。ずっと、あやまろうと思ってた。あたし、あんなにいつきが怒ると思わなくて。あれから、こわくなっちゃったの。もしかしたら、今まで、知らないうちにいつきのこといっぱい傷つけてたのかも、って」
消え入りそうな声。
「あたし、いつきがあたしたちにだまって彼氏つくったと思って、くやしかったの。嫉妬したの。だから、いつきの彼があんまりぱっとしないひとだって聞いて、安心したの。最低でしょ」
上目づかいで、あたしの顔を、そっと見る。
「いいよ、もう。あたしだって、まさか自分があんなにムキになるなんて、思ってもみなかった。それに、ほんとに、彼じゃないし」
「でも、怒るってことは、すきなんでしょ。……やっぱ、いいなあ。そんな風にムキになるくらい思えるひとがいて」
いつもの、夢見るような口調の美里。あたしはなんだかやさしい気持ちになった。
「あのね、あのひと、あたしのお兄ちゃんなんだ」
「え?」
「あのひと、古賀さん、ママの彼氏、の息子なの。彼はお母さんと、つまり古賀さんの前の奥さんと一緒に暮らしてる。それで、あたしにもいろいろやさしくしてくれるんだ」
あたしのこと妹みたいに思ってるの。お父さんから託されたっていう責任も感じてると思うの。わかるんだ。あたしがすきなようには、樹くんはあたしのことすきにはならないんだって。
「……そっか。じゃ、いつきも、けっこうせつないね」
「まあね」
さらりとかわいた風がふいて、髪をなびかせた。そろそろ、切ろうかなあ。失恋して髪を切るとか、ベタすぎるかなあ。なんてことを考えてると、美里がきゅうにうれしそうな声をあげた。
「きゃあ、いつき。うわさをすれば、だよ」
銀杏並木の坂道の、下りきったところ。あたしたちから見てさいごの銀杏の木にもたれかかるようにして、紺色の、うちの中学とはちがう学生服を着た男の子が立っていた。あたしと目があうと、そのひとは遠慮がちに片手をあげた。
「……樹くん」
じゃああたしは消えまーす、かろやかにそう言い放って、美里はあたしを置いて坂道を駆け下りていった。
「もう、まいったよ。中学生が、じろじろ俺のこと見てくの。なんもわるいことしてないのに、いたたまれない気持ちでいっぱいだよ」
樹くんはいかにもばつが悪そうに、あたまのうしろのほうをぼりぼりとかいた。
「なんでこんなとこで、待ってたの」
「だってきみ、冬休み中、ずっと俺のメール無視してたじゃないか」
「……ごめんなさい」
しおらしくあやまった。春奈さんの演奏会の誘いをことわったあとも、なんどかメールが来ていたけど、なんだかむしゃくしゃして返信していなかったのだ。
樹くんはごにょごにょと、もういいよ、みたいなことばを口にした。
「ねえ、あたしのことを思いやってくれたのはうれしいけど、でもやっぱり話してほしかったな、古賀さんのこと。いつかはわかることなんだし。ていうか、気づいてたし。ふたりが親子だってこと」
「え? そうなの? なんで?」
ぽかんと口をあける樹くん。このひと、天然?
「だって、そっくりなんだもん。星の話するときの目とかさ、とくに」
「えええ。……やだなあ」
樹くんは眉間にしわをよせて、いやそうに、でもどこかくすぐったそうに表情をゆがませた。あたしはおかしくなって、ふき出した。
「笑うことないだろ」
「ごめんなさい。……ね、最近キンモクセイに行ってる? スバルは、帰ってきた?」
あの雪の日から、ずっと気になっていたのだ。でもママが寝込んだり新学期がはじまったりしてばたばたで、結局お店には行けずじまいになっていた。
「スバルがいなくなったこと、知ってたの?」
樹くんはうつむいて、表情をくもらせた。
「スバル、ずっと帰ってきてないらしいんだ。マスターも春奈さんも俺も、貼り紙したりしてずっと探してるんだけど」
やっぱり。あたしは、夢の話をした。亡くなったパパが、スバルをどこかへ連れて行った夢の話。樹くんはしずかに耳をかたむけていた。
ややあって、重い口をひらく。
「マスターがね、スバルは旅に出たんじゃないか、って。自分に言い聞かせるみたいにそう言ってた」
「……旅」
「どういう意味の旅かは、わかんないよ。ことばどおり、ほんとにふらっと出かけたきりになってるだけで、またいつか忘れたころに帰ってくるのかもしれないし。……もしくは、その」
「二度とは帰ってこれないところに、旅に出た?」
口ごもる樹くんのかわりにあたしがそう言うと、樹くんはおどろいたように目を見開いた。
「……旅っていうか。どこかへ、帰っていったとか」
あたしの小さなつぶやきに、樹くんはわずかに眉を寄せた。
思い出したんだ。はじめて「キンモクセイ」を見つけた日。あの日あたしは小さな白猫にいざなわれて、あまいキンモクセイの香りをたどって、あの場所にたどりついた。
夢のなかで、パパの足もとにまとわりついていたスバル。スバルが、ふしぎな出会いをくれた。樹くん――ママのすきなひとの、たったひとりの子どもに。会えた。
「スバルはまたもどってくるよ。ぜったいまたここにやってくる。あたしはそう思う」
そうでしょ、パパ。こころの中で、そっと、そう呼びかけた。連れて行くよって言ってたけど、きっと守ってくれてるんだよね? もういちど、来てくれるんだよね?
パパ。
「着いた」
樹くんとあたし、ふたりの「いつき」が、同時にそうつぶやいた。思わず、笑みがこぼれる。まだ空気はつめたい冬のものだけど、キンモクセイの庭の桜の木は、もうあたらしい芽をつけている。それは、固い固い、つぼみのそのまたつぼみのようなもの。春がきてこの花が咲いて、散って、葉桜が茂る。そうやって、季節はめぐっていく。




