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「ごめんねー、いつき。ママなんにも食べれない」
「はいはい」
おかゆのはいったお茶碗をまくらもとに置く。
「あーもう最悪。あたしにはうつさないでよ」
「……ごめん……」
まだ熱が高いせいか、けんか中の娘に看病されていることの情けなさからか。ママはこれ以上ないくらいに小さくしおらしくなって、お布団にもぐりこんだ。
きょう、始業式から帰ってくると、ママが赤い顔して伏せってたんだ。ただの風邪らしいんだけど、熱が高くてしんどそう。明日は仕事休まなきゃ、って悔しそうだ。
あたしは休みたくない。大きいマスクして、換気して、手洗い・うがいは徹底的にして感染対策。ってか、今さら遅いかな。
体温計がピピっと鳴った。ママはそれを見て顔をしかめる。
「あー。まだ下がんない。もー、しんどーい」
「ママ」
弱ってるときにこんな話するの、ひきょうかな。
だけど。ちゃんと向き合って話さなきゃ。
どんな風にあたしは変わりたいか。ママと、この先、どんな風になっていきたいか。わかんないけど、今のままはいやってことだけは、確かだから。
すうっと、息を吸い込む。
「この間は、その。ごめんなさい。ひどいこと言って」
ママのこと、傷つけたよね。
ママはゆっくりと身を起こした。アイスノンが額からすべり落ちる。
「いいよママ、寝てて。しんどいでしょ?」
「ううん」大きく首をふるママ。
「私こそごめん。いつきのこと、ぶっちゃった」
苦しそうに呼吸しながら、ママはゆっくりと言葉をえらぶ。
「何があっても娘には手をあげないって決めてたのに、情けない。あのね」
あたしの目を、じっと、見つめる。
「あのね、いつき。ママ心配だったんだ。怖かったんだ。いつきがママの知らないいつきになっちゃったみたいで。男の子に会ってたこともそうだし、嘘ついて自分だけの秘密をつくってたのも。ママたちのこと、あんなふうに思ってたってことも」
それは。あたしは、うつむいて、そして、もういちど顔をあげて。まっすぐにあたしに向けられたママの目を、見つめかえした。
「それは、あたしもおんなじなんだ。ママが変わっちゃったみたいで、怖かったの」
「そっか」
「うん」
なんだかきゅうにきまり悪くなってしまう。ママもそうなのか、すっかり冷めてしまったおかゆに手をのばして、少しずつ食べはじめた。
そして。ふと、れんげを持つ手を止めて、あたしを見た。
「ママ、ね」
「うん」
「いつきが大好き。いつきが大切。それはずっと変わらないから」
「……うん」
「パパが死んでも私がどうにか折れずにいられたのは、いつきが、いたから」
おかゆの器を、そっと、まくらもとに置いた。
「言わなくても伝わってると思ってたけど……。ちゃんと言わなきゃだめなんだよね。ごめんね。だめな、ママで」
ぶんぶんと首を振った。だめなんかじゃないよ。
あたらしい顔が増えても、前のママがいなくなるわけじゃない。変わらないものだって、あるんだ。きっと。
あたしがだまりこんでいると、耐えられなくなったのか、「うわー照れるー」って叫んで、ママはまた布団を頭からかぶってしまった。
パパが死んでも、か。
マスターの言葉を思い出す。
時の流れはときに残酷だって。しゃっきりしてた叔母さんが最期にはやせて小さくなってたって。
いっぽう、あたしのパパはとつぜんこの世を去った。いきなり奪われてしまったの。
赤い顔して苦しそうに息を吐くママを見ていたら、急に不安になった。
ママだって。いつ、落とし穴みたいな暗闇に飲まれるかわかんない。深刻な病気で倒れるかわかんない。
ううん、ママだけじゃない。それは、あたしだって、だれだってそうなんだ。
「あのさ。まじでママ、古賀さんと再婚しなよ」
「い、いつき? どうしたの、いきなり」
「あたし、いつかはママのもとを去るでしょ。進学とか就職とかで。まだぜんぜん自分の将来とかわかんないけど、ぜったいに、いつかはママから離れる」
「うん」
「だからさ、ママがこうして病気になっても、看病できないじゃん」
あははっとママがわらった。わらった後、「うー頭がんがんするー」って顔をしかめる。
「なんでわらうの。まじめな話だよ」
「ひとりでできるわよ、子どもじゃないんだから」
「えっと。そういうことじゃなくって」
なんて言っていいかわかんない。むずかしいよ。だけどいま、せっかくタイミングをつかんだんだから、ちゃんと話しておかないと。自分の気持ち。
「あのね。ママはあたしのママだけど、その前に『坂本まゆり』でしょ?」
「うん」
「だからね、これからはもっと『坂本まゆり』でいてもいいよってこと! あたしのためにいろいろ我慢しなくていいから! 好きなひとと好きなようにしていいから」
「それと再婚はまたべつの話だけど、ね」
ママの鼻水まじりの声。
「でも、ありがと」
ママは、小さく、つぶやいた。
うん。
ママだって変わっていくんだもんね。生きてるんだから。どんなふうに変わりたいか、自分で決めて。あたしだってそうするから。
ベランダに出ると、きんと冷えた空気が肌をさした。紺色の空にはんぶん欠けた月が浮かんでる。月の輪郭はくっきりとかがやいて、空気が澄んでるのがわかる。樹くんもいまごろ、空を見上げてるかもしれない。
ママは薬が効いたのか、ぐっすり寝ている。あたしは古賀さんに電話をかけた。
「もしもし。どうしたの、いつきちゃん。はじめてだね、自分からかけてきてくれるの」
「うん。あのね、ママが熱出しちゃって」
「おやまあ」
なに、その気の抜けたリアクション。思わずふき出してしまいそうになってこらえる。
「何か買ってこようか? ポカリとか、ある? まゆりさん食欲は? 果物とかゼリーとかだったら食べれるかな」
「あ、いいですいいです。だいじょうぶです。ありがとうございます」
「そう? 何かあったら遠慮しないで言ってね」
古賀さんのくぐもった声。いつだったか、古賀さんの声を樹くんと間違えたことがあったっけ。やっぱりすこし、似てるな。
「あの」
「ん?」
「ママのこと、よろしくおねがいします」
「どうしたの急に、あらたまっちゃって」
古賀さんはさもおかしいといった風にわらった。
「いつきちゃん。僕とまゆりさんを引き合わせてくれて、ありがとう」
「え?」
どういうこと?
「彼女と二度目に会ったとき。プライベートでは最初に会ったって言うべきかな。ま、偶然、ばったり会っただけなんだけどね。なにげない世間話の流れで、まゆりさんの娘と僕の息子が、同じ名前だったって知って。感動してしまったんだよ、僕は」
「運命感じたの?」
「や。まあ、ね。気持ち悪いだろ、こんなおじさんが」
古賀さん、照れてる。ロマンチストなんだね。
「じゃあ、あたしと樹くんがふたりのキューピッド、なわけ?」
「そう。だから、きみと樹には足を向けて寝られないよ」
古賀さんは冗談めかしてそう言うと、もうこれくらいで勘弁してよ、と、わらった。ちょっとだけ、かわいいと思った。
これは、ママには内緒のはなし。これからもずっと秘密にしておくつもり。こういう秘密って、なかなか悪くないと思う。
次の章(あと二話)でラストです。




