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おもてへ出る。道路に積もった雪はほとんど溶けている。空は目にしみそうなほど青い。通り過ぎる家の塀のうえに、ちいさな雪だるまがいくつもならんでいる。こどものいる家なんだって、すぐにわかる。
キンモクセイの、植物のつるがびっしりからまった塀のうえにも、雪だるまがちょこんとのっていた。ここにはこどもじゃなくて、こどもみたいなおじさんがいる。
「あけましておめでとう!」
雪だるまのうしろから、マスターがひょっこり顔を出した。あたしはびっくりして後ろにのけぞってしまった。
「お、おめでとうございます。おひさしぶりです……」
「ほんとに、ちっとも顔出さないから心配しちゃった。ささ、中入って。今、店開けるから」
「あ、いいですよ、今、営業時間外だし」
あたしはあわてて手を横に振った。
「それより、スバルはどうしてますか?」
「スバル?」
マスターはかすかに眉をよせて、表情をくもらせた。
「ああ、じつは、ゆうべから帰ってきてないんだ。こんなこと今までなかったからすこし心配だけど……。でも、ま、そのうち帰ってくるでしょ」
のん気にそう言うと、こぶしくらいの大きさのミニ・雪だるまをさらに追加した。そんなのつくってる場合じゃないよって、のどもとまで出かかった。でも、よく考えればへんな夢をみたというだけで、あたしの不安にはそれ以外の根拠はなかった。
「……スバルが帰ってきたら、連絡ください。電話番号は、樹くんが知ってるから」
力なくそう告げる。
「あれ? 帰るの? 寄ってけば? 誰もいないから」
あたしは少し迷って、その言葉に甘えることにした。
マスターは寒そうに両手をこすり合わせながら、マッチを摺ってストーブに火をつけた。店のなかは、しんと静まりかえっている。
「生徒が来る前の、だれもいない早朝の教室みたい」
ぽつんとつぶやいた。マスターはにやりと笑った。
「真夜中はべつの顔。朝の八時もべつの顔。きみがよく知ってる、午後四時のキンモクセイとはちがう顔」
「真夜中は……、って、それ、なんかの本のタイトルでしたっけ?」
「そうだったかなあ」
マスターは何かを思い出そうと、目を宙におよがせた。
「でも、ほんとにその通り」
つぶやくようにひとりごちる。
「クリスマスの夜。ここ、ぜんぜんちがう場所みたいだった。キャンドルの灯がいくつもゆれて、まるで空から降ってきた星がこの場所にあつまって休んでいるみたいな……。それに、春奈さんも」
ここでてきぱきはたらいている、太陽みたいに明るい春奈さん。恋人とわかれて泣いていた、折れてしまいそうな、はかなげな春奈さん。そして、あの夜の、音楽のなかに入り込んでいるアーティストの春奈さん。
「そうだね」
マスターはしずかに言った。
「誰しもみんな、色んな顔をもっている。けしてひとつじゃない。そして、変わっていく。どんどん顔がふえていく。場所も、人も。ぼくも、きみも」
「あたしも……」
ゆっくりと、マスターのことばをくり返す。
「誰しもみんな、色んな顔を、持っている。そして、変わっていく。……じゃあ、そのなかの、どれがほんとうのあたしなのかな」
家にいるあたし。学校でのあたし。この店にいるあたし。樹くんのとなりを歩く、あたし。
「そんなの簡単だよ」
マスターがこともなげに言ってのける。
「ぜんぶ、本当のきみだよ」
マスターはにっこり笑って厨房のほうに去っていった。
ぜんぶ、ほんとうのあたし。
それから……。
ママのことを考えていた。家にいるときの、気まぐれでパワフルでちょっとルーズなママ。病院で仕事してるときの、きりっとした顔のママ。患者さんにほほえむ、やさしい顔のママ。
……古賀さんをすきになった、「おんなのひと」の、ママ。
ぜんぶ、ほんとうのママ。
マスターが戻ってきて、テーブルに山吹色のスープの入ったカップを置いた。
「かぼちゃと豆乳のポタージュ。新メニューにしようと思うんだ。試食してみて」
「マスター」
「ん?」
「変わらないでいられることって、むりなのかな」
「さあねえ」
目をほそめたマスターは、どこか遠いところを見つめているみたい。
「時が流れるっていうのはね、変わっていくということだから。だれの中にも平等に時は流れていて、ときにはそれは残酷でもある」
ゆっくりと、スープをかきまぜる。
「ここに住んでいたぼくの叔母も。しゃきっと背すじののびたしっかりしたひとだったけど、最期は小さく細くなって、体中を管につながれて、逝ったんだ」
「……うん」
逝った、ということばのひびきに、心臓がひやりとなる。
マスターはそんなあたしに、にっこりと笑ってみせた。
「だけど希望でもあるんだよ。春奈ちゃんは、もうすぐここのバイトをやめる。採用試験の勉強のためだ。樹くんもおそらく県外に進学を決めるだろうし。若いひとのそういう旅立ちは、見送る側としては、さびしくもあるけど」
「うれしい、の?」
「もちろんだ」
ほほえんだマスターの、目じりに小さなしわがよる。
「君だって。どこへでも行ける。どんなふうに変わっていきたい?」
どんなふうに変わりたい?
考えたこともなかった。
時は勝手に流れて。からだは勝手に成長して。じぶんの気持ちもじぶんでコントロールできなくて。ママの恋愛がゆるせないこどもの自分はいやなのに、大人になってしまうのもいやで。ふりまわされてばかりのあたしだった。
だけど、そうか。どんなふうに変わりたいか。どんなあたしになりたいか。それを考えることも、できるんだね。
まるで自分自身がまったくあたらしい自分になったみたいな気持ちで、目の前のあたたかなスープを飲む。ゆうべのあたしとはすっかり入れ替わった、ぜんぶの細胞いっこいっこに、しみわたっていく。
「おいしい?」
マスターが、目を細めながら聞く。
「最高」
あたしは答えた。




