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師走はその名の通り、あっという間に駆け抜けていく。何もする気がしなくて、ただ自分の部屋にひきこもってごろごろしてるだけのあたしにとってもそうだった。
ときどき、美里からメールが来た。年が明けたら一緒に初詣行こうねとか、学校なくてヒマ、あーん彼氏ほしいよー、とか。
なかちゃんからは直接電話がかかってくる。内容の大半は、部活のはなしだけど。でも、時折、ちらっと「美里とは会ってる?」とか、「お母さんとうまくやってる?」とか、いかにも今思いついたんだけどって感じで聞いてくる。そっか、最初っからそれが聞きたくて電話してくれたんだなって、あたしはうれしく思った。なかちゃんの、さりげない、すこし不器用なやさしさ。
ママはというと、相変わらずばりばりと仕事をしている。きりりと出かけるうしろ姿を見ると、あたしは、いつか自分が言ったひどい言葉を思い出して、口のなかが苦いものでいっぱいになるんだ。でも、どうしてもあやまる気にはなれないでいる。
結局あたしはあれから一度もキンモクセイには行かず、当然樹くんにも会わないまま年があけた。お正月は、隣県に住むおばあちゃんの家に行った。親戚のおじさんおばさんに、いつきちゃん、すっかり娘さんらしくなったねえ、ってかわるがわる言われた。あんまりうれしくなかった。
古賀さんとも会った。新年会なんて言ってうちに来て、クリスマスのやり直しだよって笑う。ふしぎなことに、ママとふたりきりでいるときより場がなごんだ。古賀さんがクッションみたいにあたしとママのあいだに入ってくれるから。
だけどあたしはやっぱり古賀さんが近くにいるのは居心地が悪い。前とはちがう意味で。
古賀さんと一緒にすごしていると、どうしても樹くんのことを思い出してしまうんだ。横顔とか、しぐさとか、しゃべり方とか、似てるなって思う瞬間があるの。だからあたしは、古賀さんのことをきらいになりきれなかったんだ。
あと三日で新学期がはじまるというある日、唐突にあたしの電話がふるえた。樹くんからのメール。
「こんどの日曜、春奈さんの楽団のコンサートがあるよ。よかったら聴きにいかない?」
少し迷ったけど、返信した。
「ふたりで?」
「ううん。マスターも行くって」
春奈さんのオーボエも素敵だったけど、楽団での演奏となると、また違った感動があるかもしれない。あたしのわけのわからないもやもやも、吹き飛ぶかもしれない。でも。
「ごめんなさい。友達と約束があるから」
そう返した。想像してしまったんだ。あたしのとなりで、ステージの上で演奏する春奈さんを見つめる樹くんのすがたを。
もう。だったら、なんなの?
むしゃくしゃして、枕を壁に投げる。ぽすん、と中途半端な音をたててそれはたたみの上に落ちた。
冬休みのあいだ、あたしはずっと樹くんのことばかり考えている。ママのことも古賀さんのことも入り込むすきまがないくらいに、彼のことでいっぱい。そんな自分はきらいだった。あたしも、ついに変わってしまった。恋は、甘くも酸っぱくもなくて。ただただ、苦い。こんな気持ち、知りたくなかった。
その夜、パパの夢をみた。美しい、星の川のほとりにいた。ふり返って、あたしになにか言ってる。なのに、聞きとれない。
パパ、消えないで。あたしに、なにを教えようとしているの? パパは、いったいどこへ行ってしまったの? そこは、どうしても行かなくちゃいけないところだったの? あたしとママを置き去りにしてでも、二度とこっち側に帰って来れなくても、長いときが経って、ママがほかのひとを好きになっても、それでも。
いつき。
ふいに、パパの声がとどいた。やわらかな声。ずっと想像してたのより、すこし高い声。
――いつきはもう、だいじょうぶだ。ちゃんとやれる。だからこの子は、連れていくよ。
パパの足もとにまとわりついている、白くてちいさなかたまり。
何? 目をこらして見る。にゃああと、甘ったれた鳴き声。
スバル。スバルだ。
……連れて行くって、どこへ?
目が覚めると、しんとした静寂と、窓の外からさしこむ白いひかりがあたしをつつんでいた。ゆっくりとからだを起こす。空気がつめたい。ゆうべからものすごく冷え込んでいたのだ。天気予報では、この冬いちばんの寒波がおとずれる、と言っていた。まさか。
カーディガンを羽織って立ち上がり、カーテンを開ける。と、白銀のかがやきが目にささった。世界が一変している。やっぱり。雪だ。
椿の濃いみどりの葉のうえにも、小さな庭のこげ茶色の地面の上にも、近所の家々の屋根のうえにも、うすい綿みたいな雪が積もっている。朝のまあたらしいひかりが降り注いで、あたりいちめん銀のつぶがきらきら跳ねている。
反射的に家を飛び出し、それからはたと気づいて引き返し、ジーンズとニットに着替えた。あたたかいこの街での雪はとてもはかなくて、急がないと午後にはびしゃびしゃに溶けてしまう。急がないと、消えてなくなっちゃう。消えて……。
スバル。あたしはさっきまで見ていた夢のことを思い出した。嫌な予感がする。雪がふってはしゃいだ気持ちが急速に萎えていく。
キッチンにも、ダイニングにもだれもいない。カチコチと、時計の秒針の音だけが、静寂のなかでひびいている。いま……八時、半。
テーブルの上に、あたしのお茶碗と汁椀が伏せて置いてある。それから、卵焼きや佃煮ののったお皿。その横に、ママからの置き手紙。チラシの裏に、鉛筆でなぐりがき。
「冬休みだからってだらだらしないように。ちゃんと勉強もしなさい」
わかってるよ、まったく。いらいらする。
まるめてゴミ箱に投げ込もうとして、ふと気づく。何かを書いて消したあとがあるんだ。
すこし眺めて、やっぱりあたしはその紙をまるめて捨てた。




