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星みたい、と思った。
一枚のこらず葉を落としてしまった、敷地の木々たちのはだかの枝が、クリスマス用に飾られた電飾の黄色いひかりに照らされて、夜露にぬれたようにつややかに光っている。藍色の絵の具を何度も何度もぬり重ねたような、しんと冷える十二月の夜に、いつもの、心落ち着くあの喫茶店がぼうっとうかびあがって見える。
なんだか、べつの場所に来てしまったみたい。
そろりそろりと敷石を踏みながら、あたしはそんな風に感じていた。そういえば、夜に来るのははじめてだ。
にゃおん、と何かが足もとにすりよってくる。そっと抱き上げる。スバル。猫は寒いのが苦手なのに、わざわざお出迎えしてくれてありがとう。スバルは最初ここに連れられてきたときよりも、ずいぶん大きくなった。毛並みも、つややかになった。
演奏の最中かもしれない。樹くんがドアをあけると、スバルはあたしの手の中からすりぬけて、すばやく走り去っていった。
……と、目にとびこんできたのは。
あたたかな人の熱気と、黄色、青、桃色、オレンジ、色とりどりの、うすい闇のなかでゆれるひかり。それに照らされた人々の笑顔、拍手。
息をのむ。さっきまでの、家でのいさかいやみじめな気持ちがまぼろしのように遠ざかっていく。
「遅かったね、ふたりとも。もう終わりそうだよ?」
マスターが目をまるくして、あたしにカウンター席に座るようにうながした。「きみたちの、指定席」
はい、と、ソーダ水のように細かなあわがたちのぼるグラスを差し出してくれる。夕陽みたいな色をしてる。
「シャーリーテンプル。カクテルだよ。といっても、もちろんノン・アルコール」
「ありがとうございます。……これは、キャンドル?」
テーブルに置かれた、小さな底の浅いガラスの鉢のようなものに水が張ってあって、そこに蓮の花のかたちをしたろうそくが浮いている。そうだよ、と言ってマスターはそれに火をつけた。あたたかな桃色のあかりがゆらめいて、グラスのふちが照らされてきらりと光った。
べつの宇宙のべつの惑星に迷い込んだみたい。お昼と雰囲気が全然ちがう。お客さんもいっぱいだし……。よく見ると、昼間の常連の老夫婦や勉三さんのすがたも見える。お酒を飲んでいるのか、頬が上気して、陽気に微笑んでいる。
ふっ、と、笑い声やグラスのぶつかる音といった、さざ波のような喧騒がおさまり、静寂がおとずれた。みんなの、期待にみちたような視線が一点に注がれている。
春奈さんだ。みんな、春奈さんを見ている。
奥の引き戸がはずされて、いつもは隠れて見えない空間、――家具のようなものいっさいが取り払われて何もない――、があらわになっている。そこに、春奈さんが立っていた。黒いすとんとしたワンピースを見にまとって、髪はいつものように後ろの高いところでひとつにくくっている。
「今夜はみなさん、お集まりいただき、ありがとうございました。さいごに、私の好きな一曲をお届けしたいと思います。ドヴォルザークの、交響曲第9番『新世界より』、家路」
みじかい拍手がおこる。春奈さんはお客さんたちを見渡して微笑んだ。楽器をあげて、ふうっと息をすう。あたしも思わず、一緒に息をのむ。
やわらかな音がひびきわたる。
それは、やさしい、力強い、そしてどこか胸をしめつけられるような、せつないなつかしい音色。春奈さんは丁寧に、のびやかにオーボエを吹く。凛とした目で、時折、笑みをほころばせ、ゆったりとしたメロディにからだをまかせて、波がうねるように楽器をかなでる。
きれいな曲。きれいで、なつかしくて……。どこかで聴いたことがある。
……そうだ、小学生のとき、宿泊学習でキャンプファイヤーをみながら歌った曲だ。遠き、山に、日は落ちて……、そんな歌詞がついてた。
頭のしんがぼうっとなる。キャンドルの灯がゆれる。はじめて家をはなれて、人里はなれた場所ですごした記憶がよみがえる。
山のなかの、ふかい、密度の濃い闇。ひざをかかえて炎をみつめるあたし。
なつかしい、金色にかがやく蜜のような、あまい熱いものが胸のなかを満たしていく。
いつの間にかこころがさまよい出して、あたしはあのときの山のなかにいる。
あかい夕陽が山の端にしずんで、夜のとばりがゆっくりと降りてくる。空にはいつしか満天の星。いつか古賀さんにもらった写真のような、白くあわく光る天の川。あたしはその下でひとり。たった、ひとり。ああ、帰らなきゃ、って思う。帰らなきゃ、でも、どこへ? こっちだよって、声がする。低いけどあたたかい、やさしい声。
「……パパ」
声にならないつぶやきを、そっとこころの中にしまった。いつの間にか、あたしのほほを、なみだが伝っていた。
音楽を聴いて泣くなんて、あたしが生きてきた十三年で、はじめてのことだった。
夜のキンモクセイの雰囲気と、うつくしい旋律と、表情ゆたかな春奈さんのオーボエの音。それに、ここのところあたしに降りかかってきたいろいろなこと。それらが重なり合って、胸にささって、そこからあたし自身も知らなかった、あたしの隠し持っていた何かがあふれ出してきたような感じ。夢のようなまぼろしのような、古い映画のような、遠い記憶のかけら。ううん、記憶とはいえない。何だろう。わからない。それは、ほこりまみれのがらくたの山の中に埋もれた、ひとかけらの宝物のようなもの。いちばんだいじなもの。
外に出ると、つめたい風が火照ったほほに心地よかった。しばらく歩くと、指先がじんじんしびれてきた。あわてて家を出たから、手袋を忘れてきたのだ。
「これ、してれば? ちょっと大きいだろうけど。大は小を兼ねる」
となりを歩く樹くんが自分の手袋をはずして、あたしに投げてよこした。
「……ありがとう」
毛玉だらけの、グレーの手袋。やっぱりそれはぶかぶかで、樹くんの手のぬくもりが残っている。
まだ、耳の奥で、やわらかなオーボエの音がひそかにひびいている。
十センチくらいの距離をへだてて横をあるく樹くんの、グレーのダッフルコートが視界のすみをちらちらする。あたしの、からだはんぶん、樹くんにちかいほうのからだはんぶんが、空気中のこまかい電気をあつめてるみたいにちくちくと焦れて落ち着かない。外気はつめたいのにあたしはちっとも寒くなくて、しきりに首もとのマフラーに手をやってなにも考えないようにした。すると、とくとくとうごきつづける自分の鼓動の音だけが夜道でひびいているみたいに感じた。
街が、世界ぜんぶがどきどきしてる。男の子が、樹くんがとなりを歩いてる、それだけで。羽村くんと銀杏並木を一緒に歩いたときは、こんな感じはなかった。きっとあたしは、お店での、ひとときの夢からまだ覚めていないんだ。
今はまだ、そう思っていたい。
家まであと十メートルもないところで、樹くんがとつぜん立ち止まる。さっと顔色が変わり、緊張でからだを強張らせている。
「誰か、……いる」
ひと気のない夜道を、ひたひたとしのび寄る足音。固まったあたしたちの、視線の先の人影が、外灯の白いひかりに照らされる。
「古賀さん」
そう、そのひとは古賀さんだった。あたしは思わず、横にいる樹くんを見上げた。あたしの推理が当たってるなら、古賀さんは樹くんのわかれたお父さん。ひさびさの再会の瞬間が、いまおとずれようとしている。
緊張と不安と期待で高鳴る鼓動をしずめて、つとめて冷静に、樹くんに告げる。
「……あの、こちらが、あたしのママの恋人の、古賀さんです」
樹くんはまっすぐに古賀さんを見つめて、言った。
「……うん。知ってる」




