2
帰り着いたとき、家にはすでにあかりがともっていた。玄関には男物のくつもある。携帯を見ると、もう七時半だった。いまから軽く食事して……、キンモクセイのコンサート、間に合わないよね。あわてて部屋に駆け込んだ。
「いつき? 帰ったの?」
ママが呼ぶ声がする。とりあえず着替えなきゃ。
たんすからいちばんお気に入りのワンピースを引っ張り出す。紺色の、雪の柄のはいったフードつきのニットワンピ。えりもとには、おっきなポンポンのついたひもがついている。ちょっと子どもっぽいかな。だけどこれしか持ってないし。髪の毛、どうしようかな。まだアップにするには長さが足りない。
そうだ、カチューシャ。持ってたはず。あれ、どこに仕舞ったっけ……?
見つからない。仕方なく、髪はとかすだけにする。ママたちと食事する時間、ないかも。
リップをぬる。少し迷って、うすいピンクの色つきのにした。友だちにもらって、一度も使わずにいたものだ。美里はマスカラとかいろいろ持ってるけど、あたしはリップしか持ってない。だって、恥ずかしいんだもん。あたしはお化粧するのって、なんだか知らないけど恥ずかしいって思ってしまう。
古賀さんとカレー屋さんで会ったときの、ママのお化粧のにおい、あたらしい口紅。ふっと頭のなかをよぎって、あたしはぶんぶんと首をふってその残像を追い払った。
追い払ったのに、こんどはほんもののママがあらわれた。
「そんなにあわてることないでしょ? チキン、もうすぐ焼き上がるから。征一郎さんといっしょに待ってなさいよ」
「まだ焼けてないの?」
要領悪すぎじゃない? ちょっと呆れてしまう。
「あのねママ。あたし今晩出かけるの。用事があるって言ったでしょ?」
「用事って。夜のことだったの?」
「うん。ごめんママ、もう行っていい? 穴埋めはあとでするから」
ママはエプロンで手を拭きながら、あたしを、つま先から頭のてっぺんまで、まじまじと見つめた。
「……いつき。今からちょっと話があるんだけど」
「なに? それ、今しなくちゃいけない話?」
ママは何も言わず、無理やりあたしをダイニングまで引っぱっていった。
「座んなさい」
しぶしぶ、そうする。ママはテーブルをはさんで、あたしと向かいあわせにある椅子に腰をおろす。ママのとなりには古賀さんがいて、「や、おじゃましてるよ」とさわやかに言った。
テーブルにはサラダのボウルや、あたしの好きなチキンライスがのってる。あたりには、こうばしい、肉の焼けるにおいがただよっている。
「ママ怒らないから。ほんとうのこと教えて?」
「今夜どこに行くのかってこと?」
「それもだけど」
ママはすこし視線をさまよわせた。
「毎日。学校のあと、どこに行ってるの」
「……なんで」
「今日、商店街に買い物に行ったの。そしたら吹奏楽部のイベントがあるってポスターを見かけて。あんたが出てるかもって、寄ってみたの」
ふう、とため息をつくママ。
「あんたは、ステージじゃなくて、観客側にいた。美里ちゃんと一緒に。……あんたたちが別れてから、美里ちゃんに聞いてみたのよ。いつきは吹奏楽部にはいったんじゃなかったの? って。そしたら、そんなことないって言うじゃない。美里ちゃんもびっくりしてたわよ」
「……」
「だまってないで、何とか言いなさいったら」
声を荒げるママを、じっとにらんだ。ママも目をそらさない。
古賀さんがすっと席をたつ。「これ、借りるよ」と、やかんを手に取って火にかける。ピピピッとオーブンがまぬけに鳴った。なんて空気の読めないオーブン。
あたしとママのにらみ合いはつづく。
やかんが、しゅんしゅんと湯気を吐きだす音。
こころの表面が、どんどん、ささくれ立っていく。
ことりと音がして、古賀さんがお茶のはいった湯のみをみっつ、テーブルに置いた。
「ふたりとも、少し、落ち着いたら」
そう言って、古賀さんはふたたびママの横の席に座る。
ママはお茶をすすった。あつっ、と小さく叫ぶ。それから、腕組みしてあたしを見据える。
「男の子と、会ってんでしょう?」
「ちがうって言ってんじゃん」
「よく、一緒に帰ってきてるじゃない」
気づいてたんだ。かあっと顔があつくなる。
「吹奏楽部の子かなって、ほほえましく思ってたんだけど、ちがうみたいね。べつに彼氏つくるのはいいのよ? だけど、なんで親に嘘つく必要があるの?」
「あのひとはそんなんじゃないから」
「じゃあなんなのよ。こんな時間に呼び出すとかありえない。あんたまだ中学生なんだからね?」
「だから、ほんとに違うの」
「言い訳はよしなさい。いつき、そんなにおしゃれして。あんたがそんな色のリップしてんの、はじめて見た。あんまり似合ってないけど、その色」
古賀さんが、余計なこと言うな、と言わんばかりにママをひじでこづいた。かっと顔が熱くなる。もっていき場のない恥ずかしさがこみあげる。
「とにかく。夜にふたりきりで会うのはやめなさい。なんかあったら傷つくのは、いつきなんだからね」
そのとき、あたしの中のなにかに火がついた。それは導火線だった。みるみるうちに、これまで押さえ込んできた何もかもが、めらめらと燃えあがりはじめる。
「なんかあったら、ってなに?」
「いつき」
「なんもあるわけないじゃない。あたしは、ママとちがうんだから。あたしは、ママみたいな、ふしだらなことなんてしない」
古賀さんと抱き合っていたママ。目に焼き付いてしまったふたりの姿。
「いつきちゃん、それは」
古賀さんがあたしを止めたけど、無視する。なによ、あんただって共犯じゃない。
「ママにあたしのこととやかく言う権利ないでしょ! 自分は彼氏に夢中なくせに! 急な夜勤とか言って、ほんとはふたりで会ってるんでしょ! あたしをひとりにして、ふたりでふしだらなことしてるんでしょ!」
ぱん、と乾いた音がする。
ほおがじんじん熱い。
ママが、あたしをぶったんだ。そう理解したとたん、ひりひりした痛みが襲ってきた。
「まゆり!」
古賀さんのどなり声。みるみる、視界がにじんでいく。
「ごめ……。いつき、ごめん……」
今さらわれに返っておろおろしたってむだなんだから。あたし。あたし、もう、ママたちのところになんて戻らない。
白いコートをはおって、バッグを持って。ブーツを履いて。からだじゅうが興奮でかっと熱いのに、頭の中心はやけに冷えている。
玄関のドアを開けようとするあたしにママの手がのびる。ぱしんと振り払ってドアをしめる。そのまま、駆け出す。全速力で。




